sannigoのアラ還日記

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『井伊の赤備え』発祥の地として知られる『浜松秋葉神社』の御朱印はお菓子つき!?

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

昨年の春からずっと楽しみにしていた大河ドラマ『どうする家康』もすでに2回放送され、その斬新な切り口に、これまでのタヌキ親父だとか、虎視眈々と天下取りの時期を待つなどという家康のイメージがだいぶ薄れてきているのを感じます。

 

今回も遠江の家康公にゆかりのある『浜松秋葉神社』を訪ねてみました。ちょうどドラマ館に飾る#フラワーポットプロジェクトのビオラを届ける予定があったので、浜松城公園の駐車場に車を置いて移動できたのでラッキーでした。

 

ドラマ館がオープンすれば土日祝は駐車場を使えなくなりますからご注意を!

 

浜松城もドラマの放送に合わせてきれいにリニューアルされ、本丸東側の通路や北側の通路や、園内看板なども新しくなっていました。

 

何より天守閣を下から眺めると、一部に金色の飾り?がキラキラと輝き、天守全体の印象がこれまでよりずっと豪華に変貌してびっくりです。さらに、3階展望台からの眺望を遮っていた網がなくなり、より鮮明に浜松市街を一望できます。

 

浜松城から南西方向に歩いて約10分程度で、朱色が映える鳥居が見えてきます。ここが『井伊の赤備え』発祥の地としても知られ、朱色の社殿が目に鮮やかで、厳かな空気漂う『浜松秋葉神社』です。

 

ちょっと横に広がってしまいましたが浜松秋葉神社の鳥居です

 

 

浜松秋葉神社

 

朱色の本堂が素敵な『浜松秋葉神社』の本堂

 

浜松城が築かれた1570年(永禄3年)に徳川家康の命によって、火防で有名な秋葉山三尺大権現から分霊を勧請し創建した神社だと伝わる浜松秋葉神社。

 

 

場所:浜松市中区三組町39番地

 

《アクセス》

徒歩:JR浜松駅から約22分
   浜松城から約10分

車:東名高速道路浜松ICより約分

駐車場:あり(10台程度)

御朱印:初穂料500円(おいしい「五穀おこし」つき)

 

浜松秋葉神社の御朱印にはお菓子がついてました(喜)

 

浜松秋葉神社は、浜松城が築かれた1570年(永禄3年)に徳川家康の命によって火防で有名な秋葉山三尺大権現から分霊を勧請し創建した神社だと伝わります。武運長久と城下の安全を願い、浜松城の裏鬼門にあたるこの高台の地が選ばれたとみられます。

 

浜松城近くの丘陵の上、奥三河の有力国人であり、家康公の長女亀姫を正室とした家臣奥平信昌の屋敷に建立されました。

 

御朱印を付せられるとともに、敷知、浜名、引佐、磐田、豊田、山名、城東の7郡(現在の御前崎市から湖西市まで)の広い範囲を檀下場として、年々二季神札の札を配ることとし、金銭と穀物募集を一般から募り集めることを許可されました。

 

 1867年(慶応3年)神社における神階の最高位に位する正一位の神階を賜ります。(従一位の上にあたります)

 

古くから、毎年1月25日には神札や正月飾りなどを納める焼納祭、農作物の豊凶を占う管粥祭が執り行われ多くの崇敬者が参拝するそうです。

 

ですが、2023年の焼納祭は、感染症の拡大防止対策から、御神符の授与並びに焼納物の受付1月20日(金)~28日(土)の9日間の午前8時~午後5時とすることと、さらに車でのご参拝はこ遠慮くざさいと公式ページでお知らせしています。

 

このように、現在も浜松やその周辺に住む人々の祈りの場として人気のあるスポットです。

 

\近くの『五社神社』も訪ねてみてはいかが/

『七五三』で賑わう五社神社・諏訪神社は家康公とゆかりの深い神社です - sannigoのアラ還日記

 

『井伊の赤備え』発祥の地

 

浜松秋葉神社の鳥居の横にある説明看板

 

家康公の生涯最大の負け戦といわれる『三方ヶ原の戦い』で、戦国時代最強と称させる武田軍に徳川が敗れたあと、およそ10年後の1582年(天正10年)には織田信長の攻撃により武田氏は滅亡してしまいます。

 

新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康です。家康公は宿敵であった武田家家臣団の残党を自らの軍に召し抱え、甲冑や旗指し物などの武具を赤や朱を主体とした色彩で整えた『武田の赤備え』を井伊直政に継承させ『井伊の赤備え』として伝承します。これは武田氏への敬意の表れだったといわれています。

 

「赤備え」のイメージは、彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」の姿を思い浮かべてもらえればOKです。

 

戦国時代最強と呼ばれた武田家の家臣団を徳川家が受け入れることで、同時に武田軍の人材、学問、技術も生かされ後世に継承されました。このことが家康公の天下人への礎となり、戦のないその後の平和な時代の礎にもなったといわれます。

 

このとき、旧武田家臣団が家康公への忠誠を誓った起請文がこの『浜松秋葉神社』に奉納されているそうなんです。この奉納された起請文は、『信玄衆誓詞(天正壬午甲信諸士起請文)』などと呼ばれる「歴史文書」です。

 

『浜松秋葉神社』に奉納された『信玄衆誓詞』の原本は太平洋戦争の際に消失していますが、江戸時代に書き写された写しが国立公文書館に保管されているとのこと。

 

さらに、浜松秋葉神社内には武田氏の兵士を供養するものと伝わる塚も残されています。が現在塚への通路は立ち入り禁止とされているため見学はできませんでした。

 

武田家家臣団の起請文

 

1582年(天正10年)、戦国大名としての武田家は勝頼の自害により滅亡しますが、その後甲斐国を治めた家康公は、武田家遺臣の多くを迎え入れます。

 

その時、800名を越える家臣団に家康への忠誠を誓った起請文をこの秋葉神社に奉納させました。これにより家康の天下人への礎が築かれたとも言えます。その起請文は「信玄衆誓詞」または「天正壬午甲信諸士起請文」と呼ばれます。

 

山家三方衆(やまがさんぼうしゅう)の木碑

 

山家三方衆(やまがさんぼうしゅう)の木碑

 

山家三方衆とは、大久保忠宣教の『三河物語』に記載される、戦国時代、東三河東北部(新城市、北設楽郡)の奥三河を居城とした土着有力勢力のことで、作手・亀山城の奥平氏、田峯城の菅沼氏、長篠城の菅沼氏のことです。

 

当時、奥三河は駿河の今川氏、回の武田氏が進出し、岡崎の松平(徳川)氏や尾張の織田氏を巻き込んだ複雑な情勢でした。

 

こうした情勢の中、彼らは自家の勢力拡大や存続をかけて、めまぐるしく主従関係を買えていったのです。ある時は、親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うという悲劇も生まれました。

 

関ヶ原の戦い以後、田峯、長篠の菅沼氏は没落し、長篠の戦い当時、長篠藩主であった奥平氏は、その時の功績によって転封を繰り返します。

 

最終的には、1717年(享保2年)第八代将軍徳川吉宗から西国の抑えを期待された譜代大名の奥平昌成が九州中津に移り、10万石の領主となり、以降1871年(明治4年)のは廃城まで、中津藩主として存続しました。

 

神社内の多くの灯籠

 

『浜松秋葉神社』は歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯籠が寄進されていたため、現在もいくつかの灯籠を見ることができます。

 

現存する灯籠

 

・三州吉田城主松平豊後守資訓 1730年(享保15年)
・丹後国亀山城主 青山因幡守忠朝 1747年(延享4年)
・三州西尾城主 松平和泉守乗寛 1801年(享和元年)

 

町衆奉納


・神明町 1771年(明和8年)
・成子坂町 1812年(文化9年)
・七間町 1854年(嘉永7年)など

 

奥平信昌邸跡の石碑

 

本堂の右側にある奥平信昌邸跡の石碑

 

神社内には、もともとは家康の家臣奥平信昌の屋敷があったことを記す石碑があります。

 

奥平信昌は、1555年(弘治1年)三河の有力な国人奥平定能の家に長男(貞昌)として生まれます。奥平氏は祖父・貞勝の時代までは今川氏に属していましたが、桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家臣の傘下となり遠江掛川城攻めに加わっています。

 

その後、1570年(元亀元年)の三河との国境の美濃国恵那郡上郡上村にて、貞昌と父の奥平定能は徳川方として参加した武田軍との戦闘(上村合戦)が行われた際に、すでに武田氏に内通していた奥平定能親子らはほとんど戦わずして城に逃げ入り、その後武田氏に属します。

 

1573年、信玄が死去し、勝頼が武田氏の指導者となった後、家康は奥三河における武田家の勢力牽制の意向を信長に相談、信長の意見をを入れた家康は貞能に、亀姫と貞昌の婚約、領地加増、貞能の娘を本多重純(本多広孝の二男)の入嫁させることを提示します。

 

その後、信昌の父貞能は、貞昌と亀姫と婚約するため、武田家に人質として送られていた貞昌の妻おふうを離縁し、しばらくして徳川氏の家臣となりました。

 

武田勝頼は貞能・貞昌親子の徳川帰参を受け、貞昌の妻おふう(16歳)と弟仙千代(13歳)など奥平氏の人質3人を、1573年(天正元年)9月21日に処刑しました。

 

1575年(天正3年)の長篠の戦いの際に貞昌は、軍事的才能を大きく示します。当時長篠城主であった信昌はこの戦いで武田軍と激しい攻防を繰り広げ、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守、織田・徳川連合軍の大勝利に貢献したのです。

 

鳥居強右衛門って?>>

長篠城跡を訪ねて戦国時代最強といわれた武田の滅びを感じてみては? - sannigoのアラ還日記

 

翌年奥平貞昌はこの功績により、織田信長から一字をもらい貞昌から信昌と改名し、郷ケ原に新城城を築きました。信昌の新城築城は、現在の中心市街区を形成する基礎となり、「新城」の地名の由来にもなっています。

 

信昌は徳川家康の信任が厚く、同年12月、信長のとりなしで家康の長女亀姫をめとり、4男1女をもうけました。その後も家康から娘婿として重用されました。

 

1582年(天正10年)天正壬午の乱では酒井忠次と共に武田家遺領へ侵攻。1585年(天正13年)、徳川氏の宿老・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔、数正によって秀吉に徳川家の軍事機密が流出したことに対応するため、家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めざるを得なかったのです。

 

この軍制改革に貢献したのも、かつて武田家に臣従していた奥平信昌でした。

 

1590年(天正18年)7月、関東に国替えになった家康と共に関東に移転した信昌は、この年の8月、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封します。宮崎城(現在の群馬県富岡市宮崎)を居城としたところで藩の成立とされました。

 

1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いにも参加(家史・中津藩史では、秀忠軍に属していたと記載あり)。戦後は京都の治安維持のために初代京都所司代を翌年まで務めています。

 

翌年1601年(慶長6年)には、関ケ原の戦いの功として、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封され、初代美濃加納藩主となっています。1602年(慶長7年)加納で隠居、三男・奥平忠政に藩主の座を譲りました。

 

1614年(慶長19年)には、忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌の先立たれていますが、高齢を案じられてか、息子たちに代わっての大坂の陣への参陣は免除されたので、唯一参戦した末男・松平忠明の下へ美濃加納の戦力だけは派兵しています。

 

翌年1615年(慶長20年)3月には死去しています。

 

信昌の長篠籠城を偲んで、大分県中津市の奥平神社では毎年5月に例大祭「たにし祭」が開催されているそうです。

 

現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』では、家康と瀬名の長女亀姫を當真 あみ(とうま あみ❩が、天真爛漫に演じてくれるようです。

 

参照元:奥平信昌 - Wikipedia

 

余談ですが、浜松秋葉神社といえば、皆さんは東京・秋葉原の地名の由来をご存知でしょうか?

 

東京・秋葉原の地名の由来

 

現在の東京都台東区の「秋葉原」あたりは、江戸時代は下級武士の居住地域だったようです。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように当時は火事が多く、この秋葉原界隈も江戸時代は火災になやまされていました。

 

1869年(明治2年)の相生(あいおい)町の大火を機に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万平方メートル)の火除地を設置します。

 

そして翌年の1870年(明治3年)に遠州(現在の静岡県西部)から火除けの秋葉大権現(あきはだいごんげん)を勧請し鎮火神社に祀ります。

 

当初はこの火除地は鎮火原と呼ばれていましたが、鎮火神社が秋葉神社と名を改めたため「秋葉ノ原」と呼ばれるようになりました。現在「あきば」と略されるのはこれらが語源のようです。

 

さらに、1890年(明治23年)に上のから鉄道が延長され、できた駅が「秋葉原(あきはばら)」と名付けられたことで、駅名が一般化され全国的にも「あきはばら」という読み方が定着してきたとのこと。

 

他にも、東京は港区北部にある「浜松町」の地名も、1696年(元禄9年)、遠江国(現在の静岡県西部)浜松出身の権兵衛がこの地の名主役を勤めたことに由来しています。権兵衛の前は増上寺の代官である奥平久右衛門が名主役を勤めていて、このときは久右衛門町という名前だったそうです。

 

なんだか、新幹線も飛行機もない時代なのに、遠江の影響というか何かしらのつながりで居住地の地名が残っているのは感慨深いものがあります。あれここれも家康公ゆかりかと思うと、その偉大さを改めて認識せざるを得ない感じです。

 

ちなみに、秋葉権現とは秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成されたようです。

 

参照元:秋葉原 - Wikipedia

 

最後に

 

今回訪れた徳川家康ゆかりの地は『浜松秋葉神社』です。どんなゆかりがあるの?と思われるかもですが、唯一の浜松生まれの武将といわれる井伊直政、誰もがよくご存知のように徳川四天王の一人です。

 

そして、井伊直政といえば『井伊の赤揃え』で知られ、1584年(天正12年)の羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍の間で勃発した『小牧・長久手の戦い』で井伊の赤備えはデビューを果たします。

 

赤い甲冑(鎧兜)を身にまとい長槍で敵を圧倒させる姿は「赤鬼」と諸大名に恐れられたといいます。

 

その『井伊の赤備え』の発祥は、織田信長と徳川家康の連合軍の攻撃で武田勝頼を滅ぼしました後、家康が武田軍の800名を超す遺臣を赦免し召し抱える際に、武田家旧臣団が「これからは家康殿に従います」と誓った起請文を、この『浜松秋葉神社』に奉納したところと言えるのでは?

 

ということで、『浜松秋葉神社』は『井伊の赤備え』の発祥の地として知られ、家康公とゆかりが深い神社と言えるのでしょう。

 

『浜松秋葉神社』はJR浜松駅からも徒歩約22分ですし、浜松城からも約10分とちょっとしたウォーキング気分で出かけられます。途中の登り坂には『浜松城』を眺める絶景ポイントもあります。ドラマ館へお出かけの際に立ち寄ってみてはいかがでしょう。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。