sannigoのアラ還日記

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偵察に出ていた本多忠勝らが武田軍と遭遇して戦いになったと伝わる『木原畷の戦い』

🕖2023/05/22    🔄2024/08/19

<PRを含みます>こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

三河の小国で生まれた小心者にもかかわらず、乱世に揉まれながら天下を統一し、江戸幕府の礎を築いた徳川家康の生涯を描く大河ドラマ『どうする家康』。

 

もちろん初回からBS放送、通常放送と2回ずつ見て楽しんでいますが、第18回の『真・三方ヶ原合戦』には泣かされましたね。

 

第1回のあの「いいんです。いいんです。」からはじまり、以降もずっと殿から名前を覚えていただけない家臣夏目広次(甲本雅裕)が、実は子供の頃一番お世話をしてくれていた人物だったとは!

 

それに、あの織田家に家康坊ちゃまが拉致された時に、広次も一緒に居たとは!これまでの伏線が見事に回収されました。すごい感動的でした。

 

三方ヶ原の戦いで終わってしまったかもしれない家康の命を、自らが金陀美具足を着用して「我こそが徳川家康」と身代わりになって救い、そして、三河一向一揆での裏切り、さらに織田家の拉致から救えなかったという悔恨を、「殿はきっと大丈夫」の言葉と、自己犠牲によって昇華させるまでのシーンは、涙なくしては見られなかったです。

 

もうひとり忘れてはいけないのが、本多忠勝を親代わりになって育てた飲んべえの本多忠真(ただざね/波岡一喜)。忠真が叔父として厳しく武芸を叩き込んだからこそ、あの本多忠勝(山田裕貴)があるのであって(何なら想像以上に強くなってしまった感はあるものの)、ジャッキーチェーンの酔拳かと見紛うほど飲めば飲むほど強くなる感じと、守りたいのは忠勝なんだと分かる感じが堪りませんでした。

 

浜松市内にあるお二人の慰霊碑、これまで何度も訪ねてはいますが、また今度のお盆にでも訪ねてみたいと思っています。

 

そこで、今回は感動が日本を駆け巡った『真・三方ヶ原合戦』にちなんで、徳川家康が武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いの前哨戦として知られる「一言坂の戦い」・・・ではなく、さらにその前に起きた「木原畷の戦い」について調べていきます。

 

「木原畷の戦い」後に「三ケ野坂の戦い」があり、「一言坂の戦い」「提燈野の戦い」から浜松城に逃げ帰り、そしてのちの「三方ヶ原の戦い」と続くと伝えられています。

 

「一言坂の戦い」は1572年(元亀3年)10月に遠江に侵攻した武田軍と、それを迎え撃つべく出陣した徳川家康が初めて直接対決したとされます。

 

武田軍の進撃の速さに家康は浜松城への撤退を決断しました。殿(しんがり)を務めて主君家康を逃した本多忠勝の奮戦ぶりを、武田信玄の近衆小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり 唐(から)の頭(かしら)に本多平八」とうたい、落書きしたと伝わります。

 

忠勝の強さを語るときには必ず登場する話ですが、「唐の頭」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産の日本では珍しい品のことで、一説によれば家康は難破した南蛮船からこれを入手し愛用していたといいます。

 

ちょっと話が本多忠勝に逸れましたが、家康は本多忠勝や大久保忠佐などのおかげで、無事に浜松城に逃げ帰ることができました。では、「木原畷の戦い」について調べていきましょう。

 

この木原には、この地で戦没した笹田源吾や武田と徳川との戦により戦没した人びとの慰霊のため建立し供養祭を行ったという「らん塔のお地蔵さん」があり、この供養祭はが始まりと伝わる『木原念仏』も残っています。

 

浜松にも犀ヶ崖で命を落とした武田軍の霊を慰霊するためと伝わる『遠州大念仏』があります。もしかしたら何かしらのつながりがあるのかもしれません。

 

東岡崎駅の本多忠勝像

 

 

木原畷の戦い

 

1572年(元亀3年)10月10日、上洛を決めた戦国最強武将といわれる武田信玄は、約3万5千の兵をしたがえ大井川を渡り、遠江国になだれこみました。

 

小山城(静岡県吉田町)、相良城(静岡県牧之原市相良)と怒涛の勢いで遠江へ侵攻、塩買坂(静岡県菊川市)を超え、高天神城(静岡県掛川市上土方)に迫ります。高天神城主小笠原氏助は信玄に対抗したようですが、10月21日までには降伏しました。

 

徳川軍にとって高天神城を取られたことで、馬伏塚城(まむしづかじょう/静岡県袋井市浅名)が危うくなっただけでなく、遠州灘と懸川城の交通を遮断されてしまったのです。

 

武田軍は高天神城から入山瀬(掛川市/不入斗)を経て、懸川をかすめるように移動し、原川(掛川市)、国元(袋井市)、袋井へ入ったと思われます。(平山優著「徳川家康と武田信玄」)

 

先を急いだ信玄は馬伏塚城を攻略することなく、海沿いの狭道を避け、懸川から見付に向かい東海道を進みます。そして、太田川の手前で停止し、ここ木原・西島(磐田市)に布陣し、久野城主久野宗能を攻撃させますが、宗能は城をよく守り降伏しなかったといいます。

 

「信玄来たる」の報せに、武田軍の遠江侵攻を抑えるべく家康は自ら3千の兵を率いて出陣、見付(磐田市)まで進み布陣し、家康は本多平八郎忠勝と内藤三左衛門信成隊を、三ケ野(磐田市)へ前進させ、武田勢の物見を命じます。

 

先陣の本多忠勝らは三ケ野台に布陣し、武田軍のようすを三ケ野の丘陵からみたところ、、東海道を西進して木原・西島付近に陣を張ったひしめく武田勢の様子が見えたため、内藤信成が手勢を率いて木原まで、旗指物を伏せ目立たないようにさらに前進。

 

信玄の軍旗「風林火山」が見えた直後に内藤信成らは、こちらの動きを察知していた武田勢の猛烈な攻撃を受け、すぐに三ケ野に向け退却します。これが「木原畷の戦い」といわれるものです。

 

武田勢の追撃は速く激しく、戦闘になったのが三ヶ野坂(みかのざか)、多勢に無勢で危ういと考えた徳川軍は撤退することになります。徳川軍は家康を逃がす時間を稼ごうと見付けの町に火を放ち、地の利に暗い武田軍を足止めしようとしました。

 

ところが、武田軍は遠江の土豪らを多数従えており、土豪たちが案内役をしていたため足止め作戦は失敗!すぐに追いつかれてしまった一言坂で、両軍の戦闘が始まり、これが『一言坂の戦い』です。

 

それでも、本多平八郎忠勝や大久保忠佐らの活躍で、徳川軍は無事に浜松城へ退却することができました。

 

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木原畷(きわらなわて)古戦場

 

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場所:静岡県袋井市木原611-2

 

《アクセス》


電車・バス:JR袋井駅から徒歩で35分、JR御厨駅から徒歩39分

車:東名高速道路[袋井IC]から約10分、国道のすぐ脇にあります

駐車場:許禰神社本殿西側にあります。

 

木原畷古戦場とは?

木原畷古戦場とは、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦『木原畷・三ヶ野川の戦い』の木原畷の戦いが行われた場所で、現在『許禰神社』の石碑があります。

 

天下を手中に治めつつあった徳川家康が、関ヶ原の戦いのため江戸から関ケ原へ向かう途中、こちらに立ち寄って戦勝祈願をされたという話も残されているとか。

 

戦国最強の武田信玄に負け、三大危機の一つにも数えられる『三方ヶ原の戦い』は、家康が武田信玄から学んだことは数知れず、自身の弱さを思い知った戦でもありました。ですが、30年も前に行った合戦で、しかも前哨戦の「木原畷の戦い」の記憶までも残っていたとは、武田信玄へのリスペクトの強さが伺えます。

 

らん塔のお地蔵さん(笹田源吾の墓)

 

 

場所:静岡県袋井市木原

許禰神社から東に向かっていくと右側に一里塚があり、その四つ角を左に曲がっていくと『らん塔のお地蔵さん』にたどり着きます。その間徒歩で約5分です。

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR袋井駅から徒歩で37分、JR御厨駅から徒歩41分、許禰神社から徒歩5分

車:東名高速道路[袋井IC]から約6分、国道のすぐ脇にあります

駐車場:ありませんので、許禰神社に置かせてもらいました

 

『らん塔のお地蔵さん』とは?

『らん塔のお地蔵さん』とは、『木原畷・三ヶ野川の戦い』の6年後、1578年9月11日(天正6年8月10日)の夜、高天神城(掛川市上土方/旧小笠郡大東町)から徳川軍の様子を探りにきた武田の家臣笹田源吾のお墓です。

 

戦国時代、袋井市域も徳川家康と武田勝頼の合戦の場となりました。1575年(天正3年)の長篠の戦いで武田方は大敗を喫し、1578年(天正6年)頃には徳川方が優勢となり、遠江の武田方の城は大東町(掛川市)の高天神城だけとなりました。

 

武田方は徳川方の情勢を探るため、高天神域に籠城していた腕に覚えのある家臣の笹田源吾を偵察に出しました。8月10日夜、木原村まで来ているところを徳川方を味方する地頭の木原吉次に捕捉され、加勢した木原権現社の神職、鈴木久秀の二人に討たれたと伝わります。

 

徳川家康はこの手柄を大変喜び、木原権現社はのちに70石の寄進を受けたといいます。

 

その後、平和な時代となりましたが、村には疫病や災害などの悪いことが続きました。これらの災難は笹田源吾や武田と徳川との戦により戦没した人びとの悪霊の祟りだという噂がおこり、これらの人々の悪霊を鎮めるために、地蔵を建立し供養祭を行ったといいます。

 

この供養祭は、木原念仏という今に続く念仏踊りの始まりとなったと伝わります。浜松の遠州大念仏という念仏踊りも浜松城に攻め寄せ、犀ヶ崖で命を落とした武田軍の霊を慰霊するためと伝わっています。もしかしたら何らかのつながりがあるのかもしれません。

 

こちらの地蔵像も風化が激しく、最近新たな地蔵菩薩が造立されたそうで、この地域は、現在でも丸野家の子孫の方々によって四百年間大切に祭られ、地域のの人々により伝承が受け継がれているようです。(案内板より)

 

また、口コミによると、近くの『長命寺』にも、笹田源吾の供養塔があるとか。調べたところ、木原大念仏の始まりとなった笹田源吾の供養ですが、「らん塔のお地蔵さん」にはお墓を建て、近くの『長命寺』には木原念仏発祥の地として笹田源吾供養塔が建立されたようです。

 

長命寺(ちょうめいじ)

境内に戦国時代の武将笹田源吾(ささだげんご)の供養塔がある『長命寺』は許禰神社の西側奥にあります。

 

曹洞宗の『那智山長命寺』は、室町時代後期の1532年(天文元年)9月に海蔵寺(袋井市堀越)8世 日山天恵和尚が開山したといわれます。

 

木原大念仏

 

木原大念仏解説の大きな看板が旧東海道の許禰神社入口にあります

 

『木原畷・三ヶ野川の戦い』の6年後、1578年9月11日(天正6年8月10日)の夜、高天神城(掛川市上土方/旧小笠郡大東町)から徳川軍の様子を探りにきた武田の家臣笹田源吾は、この地で遠江国山名郡木原村で郷主 木原吉次(きはら よしつぐ)・木原権現(現在の許禰神社)神主 鈴木久秀らに討ち取られてしまいます。

 

笹田源吾が所持していた守本尊刀脇差などを徳川家康に差し出して報告。家康からの恩賞は、木原吉次には源吾の刀脇差、鈴木久秀には黄金10枚が下されたと伝えられているとか。

 

平和な時代になった後にも木原村に疫病や災害が続いたため、笹田源吾や戦没者による祟りと考えられるようになり、『長命寺』に笹田源吾供養塔が建立されたそうです。

 

村人が行なった供養祭が、毎年8月13・14日に開催される市指定無形民俗文化財『木原大念仏』の始まりと伝えられています。

 

この『木原大念仏』は一時中断していたそうですが、地元の皆さんの尽力で見事復活し、毎年8月のお盆の時期に双盤・きり太鼓・笛の鳴り物に合わせて、親和讃・子和讃などの念仏踊りが行われるとのことです。

 

というわけで、起源は中世の踊り念仏が遊行僧や放下僧から伝えられたものですが、伝承として1572年(元亀3年)の三方原の合戦で戦死した将兵の霊を慰めるため徳川家康が僧に命じて始まったものと言われることの多い「遠州大念仏」とは、あまり関係はなさそうです。

 

参照元:木原畷古戦場

 

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木原の絆 東京都大田区山王

 

袋井市木原地区と、東京都大田区の山王は歴史的関係が深いのをご存知でしょうか?私は中日新聞の記事で知ったのですが、徳川家康の家臣・木原吉次(袋井市木原出身)が、江戸城築城で移り住んだのが現在の山王の地だそうです。

 

木原吉次の屋敷跡が「木原山」の地名で残され、これを縁に袋井市木原と、大田区山王3・4丁目両自治会が『姉妹自治会」となって、2022年から山王側から自治会作成の防災絵本が寄贈されるなどの交流が始まったといいます。

 

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まとめ

 

今回は、家康の3大ピンチともいわれる徳川家康が武田信玄に大敗した『三方ヶ原の戦い』の前哨戦として知られる「一言坂の戦い」・・・ではなく、さらにその前に起きた「木原畷の戦い」について調べてみました。

 

あの戦国最強の武田信玄が攻めてくると知った時の家康は、どんな思いだったのでしょうか?これはいかん!やられる!とりあえず様子を見てきてくれ。と忠勝に頼んだのでしょうか?

 

そして、物見に出た忠勝が『三ケ野坂』から「大日堂」に上り、「物見の松」に上った時に見えた、最強武田軍の約万5千のの兵を見た時、どんなにか驚いたことでしょう。

 

その三ケ野から木原へと目立たないように武田軍の様子を見に行き、信玄の軍旗「風林火山」が見えた直後、こちらの動きを察知していた武田勢の猛烈な攻撃を受けた内藤信成。きっと真っ赤な武田軍にボコボコにされたのではないでしょうか?

 

すぐに三ケ野に向け退却しますが、これからまだ三ケ野でも、一言坂でもと浜松城に逃げ帰るまで追いかけられ本当に大変だったことと思います。大河ドラマでは、あの最強武将本多忠勝も顔まで真っ赤に汚れ、クタクタのボロボロになって一言坂からの退却を成功させています。

 

車でもけっこうな道のりの、この小競り合いから始まった「木原畷」「三ケ野」「一言坂」までの戦、追いかけてくる敵を倒しながら坂を上ったり下ったりというその様子を想像しながら私も経路を辿ってみました。

 

そんな戦が全国のあちこちで行われていたと思われる「戦国時代」、男はもちろん女子供までどれだけ生きづらかったことでしょう。

 

現在もこの悲劇が繰り返されている国があるなんて、本当に不幸なこと。新聞記事を読みながら思っています。戦争なんてないのが一番!

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。