sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

磐田の家康ゆかりのスポットも巡って『どうする家康』で盛り上がろう

🕖2022/10/27    🔄2023/05/18

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

浜松と磐田は天竜川を境にしたお隣さん同士のため、天下人として歴史に名を残す徳川家康ゆかりのスポットが磐田にもけっこうあるそうです。

 

そんなことを聞いたら来年放送の大河ドラマ「どうする家康」に興味津々な人々はみんな、磐田に出かけたくなっちゃいますよね。

 

家康が関ケ原の戦いや大坂の陣の際に立ち寄ったといわれる『中泉御殿』、中泉御殿から移築したとされる門が残る『西光寺』と『西願寺(さいがんじ)』、武田軍の侵攻からの敗退戦で重臣の本多忠勝が活躍した『一言坂の戦いの古戦場跡』などをはじめとして、他にも松尾八王子神社や五十子での茶臼エピソードなど、磐田にも家康をしのばせる場所が多数残されているようです。

 

ということで、今回はウォーキングで回ってみた磐田の家康ゆかりのスポットをいくつか詳しくご紹介していきます。「どうする家康」放送前に情報をできるだけインプットしたい方のお役に立ちそうな記事になっています。

 

野面積みがはっきりとわかる現在の浜松城を下から眺めたようす

 

 

 

徳川家康と磐田

 

徳川家康が29歳から45歳まで過ごした浜松城のある浜松市とお隣さんの磐田市は、もしかしたら浜松以上にゆかりの深い地になっていたかもしれません。

 

というのも、1570年(元亀元年)に家康はそれまでの居城の岡崎城を息子の信康に譲り、遠江の浜松に本拠地を移したのですが、最初は磐田の見付に城を築こうとしていたんです。

 

しかも、1569年(永禄12年)にはすでに徳川家康が手掛けた初めての城として、現在『城山球場』がある場所に『城之崎城』として着工していたといわれています。家康は1570年(元気元年)には造営を中止、遺構として城山球場周辺には土塁の一部が残り、城之崎城跡として遺跡になっています。

 

どうして磐田に?それは当時の見付(現在の磐田市見付)は、遠江の国府が置かれあの弥次喜多道中にも登場するほど政治や商業の中心地だったからでしょう。

 

ですが、武田信玄が侵攻してきたときに背後に天竜川がある地形では「背水の陣」となり逃げ場を失うことや、同盟を結んでいた織田信長には援軍が駆けつけるにも都合が悪いと反対されたりして、結局は見付のお城の工事は中止し浜松の引間城(今の浜松市中区元城町の「元城町東照宮」)とその周辺を改修して「浜松城」に名前を改めたのでした。

 

ですから、もしかしたら現在の磐田は、今の浜松と同じような街になっていた可能性もあるということです。磐田にお住まいの人がどう思うかは別としてですが・・・。

 

まずは皆さんもよくご存知と思われる『中泉御殿』の表門が移築された西光寺からはじめましょう。

 

◯西光寺(さいこうじ)

 

中泉御殿から移築された表門

 

場所:磐田市見付3353-1 

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅から徒歩で約26分

      JR磐田駅からバスで10分

車:東名磐田ICより車で約9分

駐車場:あり(10台) 

 

徳川家康公のゆかりの中泉御殿大手門などの文化財の宝庫。西光寺の正面の立派な門は徳川家康の別荘として使用したという「中泉御殿」の表門(市指定文化財)を移築したものといわれています。

 

◯西願寺(さいがんじ)

 

西願寺の門は中泉御殿の裏門を移築したもの

 

場所:磐田市中泉254-1  

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅から徒歩で約10分(北口)

車:東名磐田ICより車で約14分

駐車場:なし

 

西願寺は磐田市にある真言宗大谷派の寺院です。山門は徳川家康が別荘として使用していたといわれる「中泉御殿」の裏門と伝えられ、御殿の廃止後にこちらに移築されました。裏門は市有形文化財に指定されています。

 

移築された旧中泉御殿の裏門の説明看板

 

西願寺山門は切妻、本瓦葺き、一間一戸、薬医門(屋根を支える4本の柱のうち前2本を屋根の中央線に近づけることで、軒先が外に張り出し勇壮に見える工夫が施されている)で、梁の形状などから17世紀のものと考えられています。

 

安土桃山時代の縄文建築の遺構として貴重なことから、2005年(平成17年)に磐田市指定有形文化財に指定されました。

 

ご本尊は阿弥陀如来で境内に残るマキの老木が、このお寺の歴史を物語っているようです。入母屋造りの新しい本殿も重厚な感じがするものとなっています。

 

ここで『中泉御殿』について説明しておきましょう。

 

『中泉御殿』

 

案内板によると中泉御殿は、徳川家康が浜松城主だった1584年(天正12年)に現在の磐田駅前のあたりに別荘として建築を始め、1587年(天正15年)には完成したといわれ、以後約30年間使用され1670年(寛文10年)に廃止されました。

 

家康が東海道往来時に家康の宿泊・休憩施設として、また大池周辺での鷹狩りをしたときに利用するため築かれたようです。

 

後に中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は西願寺に移築されているので見ることができます。主殿は本堂として使用されていましたが、改築され現存していません。

 

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◯大日堂 三箇野川(みかのがわ)古戦場跡

 

場所:磐田市三ケ野 

《アクセス》

バス・電車:JR御厨駅から約2km、徒歩で約30分

車:東名磐田ICから車で約14分(国道1号線バイパス三ケ野ICの近く)

駐車場:なし

 

家康たちが三ケ野まで偵察に来た際、武田軍と戦いになった場所。大日堂には本多平八郎忠勝が武田軍を偵察したとされる物見の松がありました。

 

「三方ヶ原の戦い」の前哨戦『木原畷(きわらなわて)・三箇野川(みかのがわ)の戦い』の三箇野川とは、現在の太田川のことのようです。

 

三箇野川古戦場跡は小高い丘の上に大日堂があり、付近が古戦場跡です。丘の上に立つと袋井方面を見渡すことができます。

 

徳川軍は、武田軍偵察のため、本多忠勝・内藤信成が率いる偵察隊を先行させて天竜川を渡り磐田原台地の見付に到着。磐田原台地東端の三ケ野坂に到着した本多忠勝は、この場所にあった松の大木に登って、袋井市木原に布陣した武田軍の様子を偵察したと伝えられます。

 

現在はその松の木はありませんが、「本多平八郎物見の松」と伝えられる大松が存在していたことが説明看板に書かれています。

 

※車でお出かけの場合は、大日堂を目指してナビで向かうと、途中から通り抜けできない(行き止まり)道路になってしまうのでご注意ください。

ちなみにUターンくらいできるだろうと、「通り抜けできません」との看板があるにもかかわらず安易に進入してしまった筆者は、結局Uターンする場所もなくバック(後進)で抜け出さなくてはいけなくなって泣きました。

桶ヶ谷沼ビジターセンター(磐田市岩井315)の駐車場に置かせていただいて、ついでにちゃっかりとWCも借りてから、徒歩約20分で行けました。坂道を登ることになりますので、ちょっと体力が必要かも!?休憩場所とWCは大日堂にもありますが、蜘蛛の巣が・・・。

 

◯宣光寺

 

場所:磐田市見付1340-1 

《アクセス》

バス・電車:JR磐田駅からバスで10分

車:東名高速道路磐田ICより車で約15分、

駐車場:あり

    旧見付学校(見付駐車場)から徒歩約6分

 

敷地内にある釣鐘は、戦国時代に戦死した多くの武将のために、徳川家康の信仰が厚かった延命地蔵菩薩にその冥福を祈って家康公が寄進されました。鐘には家康の名前が刻まれています。

 

宣光寺は遠州三十三霊場の17番札所で、延命地蔵菩薩がご本尊の曹洞宗のお寺です。東海道見付宿にあって、今でも街道沿いにはいくつか横町に入る小路が遺されています。その一つの地蔵小路と呼ばれる小路に宣光寺はあります。

 

地蔵小路の由来は、古来より宣光寺境内の地蔵尊に、延命地蔵を安置するところから付けられた名称とされています。延命地蔵はこの辺りでは有名だそうです。木造地蔵菩薩坐像と木造毘沙門天の二つの仏像が県指定文化財に指定されています。境内はひっそりとした感じで緑豊かで癒やされます。

 

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釣鐘には”源家康”の銘文あり「身代わり地蔵」としてよく知られる宣光寺 - sannigoのアラ還日記

 

◯伝酒井の太鼓(旧見付学校) 

 

旧見付学校の1階に展示中の『酒井の太鼓』

 

場所:磐田市見付2452 

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅から徒歩で約32分

車:東名磐田ICより車で約14分

駐車場:あり

休日:月曜

営業:火曜~日曜9:00~16:30

入館料:無料

 

『三方ヶ原の戦い』で家康が大敗しやっとの思いで逃げ込んだ浜松城。その時に酒井忠次が浜松城の櫓門(やふらもん)で打ち鳴らした「酒井の太鼓」が旧見付学校で展示中です。

 

【酒井の太鼓】

 

三方ヶ原の戦いで大敗し、浜松城に逃げ帰った徳川方。家康の命により酒井忠次は城門を開け、櫓門(やぐらもん)の太鼓を打ち鳴らし、味方の帰城を助けたと伝えられています。

 

なぜなら、開け放たれた城門と大きく打ち鳴らされた太鼓の音に、追撃する武田方はなにか計略があるのでは?罠では?と恐れ、浜松城への攻撃を止めたからです。

 

この時に打ち鳴らされた太鼓が「酒井の太鼓」で、実は現在「酒井の太鼓」として磐田市の文化財に指定されこの旧見付学校1階に展示されています。

 

この太鼓は過去には浜松城内にあったこともありますが、明治維新後、民間に払い下げられ見付の有力者の手にわたりました。後の明治8年の見付学校落成を機に見付学校へ寄贈されたとのことです。

 

【濱松篭城之図】にも描かれている太鼓が、現在は磐田の旧見付学校にあるとはびっくりです。ぜひ一度見てみたいものです。先日こちらを訪ねたのが月曜だったため、残念ながら施設の中に入れなかったので、またリベンジしたいと思っています。

追記:ついに11月になってから見ることができました。

 

※「濱松篭城之図」には、太鼓を打ち鳴らす酒井忠次と家康や家臣、城門の外には武田方の武将が描かれています。描いたのは歌川芳虎(うたがわよしとら)で、幕末から未時期に活躍した浮世絵師です。師匠の歌川国芳(うたがわくによし)から破門され永島孟斉(ながしまもうさい)とも名乗ったそうです。「濱松篭城之図」は個人蔵で見られません。

 

【旧見付学校】

 

現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である旧見付学校

 

旧見付学校は明治5年(1872年)の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校した学校です。

 

見付学校の校舎は移転を繰り返し、明治8年(1875年)から大正11年(1922年)まで使用された建物が旧見付学校と呼ばれ、他の校舎と区別するために「五階校舎」と呼ばれることもあります。

 

実際にこちらの『旧見付学校』を見学させてもらうと無料でこんなに見せてもらってよいのかしら?というほどの昭和の史料を見ることができます。「エモい」ものを探しているZ世代にも喜んでもらえそう。

 

「酒井の太鼓」を当時の子供たちが打ち鳴らしたという校舎の5階まで上るには、昭和らしい”ちょっと急で狭い階段”を上らねばなりません。アラ還はスリッパも靴下も脱いで安全第一で臨みました。

 

木造建築で5階建て、外から見ただけでもこれだけのものが木造でできるんだ!と感動しますが、実際に上がった5階はちょっと狭いけど、眺望の利く秘密基地のようなところでかなり魅力的でした。

 

ただ、当時の子ども達が1階や2階の教室から、校長室のある階を覗きながら太鼓のある5階まで上るのは、ある意味スリルとサスペンスの大冒険でワクワクしたのではないでしょうか?

 

1875年に竣工した擬洋風建築の旧見付学校は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎です。隣接する磐田文庫とともに、「旧見付学校附磐田文庫」として国の史跡に指定されています。

 

磐田文庫は国学の祖・賀茂真淵の流れをくむ幕末の国学者である大久保忠尚が、私邸を開いて近隣子弟の教育に努め、1864年(元治元年)に創設したものです。現在は本や史料などもなく、建物自体を眺められるようになっています。

 

学校としての見付学校は、見付高等小学校→見付第一尋常高等小学校→磐田町立見付国民学校→昭和23年(1948年)に磐田市立磐田北小学校という変遷をたどってきました。

 

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◯御殿遺跡公園(ごてんいせきこうえん)

 

御殿遺跡公園のちょっとかわいらしい徳川家康像

 

場所:磐田市中泉2270-17 

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅南口から南へ100m 徒歩約3分

車:東名磐田ICより車で約23分 

駐車場:近所の駐車場リベーラ磐田(市営駐車場🈶)

 

御殿とは徳川家康が鷹狩りのおりに休憩・宿泊施設として築いた「中泉御殿」のことで、関ヶ原の戦いや大坂の陣への往来の前後にもこの御殿に立ち寄ったといわれます。

 

御殿遺跡公園は付近の開発事業の際に堀と土塁が発掘され、遺跡の一部を公園として整備・公開しているもので、「中泉御殿」は現在市街地に没しています。

 

古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地はまさしく城郭構えになっており、軍事的に利用されたことがわかります。

 

遺跡そのものは、御殿・二之宮(ごてん・にのみや)遺跡といって弥生時代から江戸時代までいろいろと使われてきた場所で、特に奈良時代には遠江国の国府が置かれていたと推定されている遺跡です。

 

御殿遺跡公園に設置された案内板には、後には天領を管理する中泉陣屋が、中泉御殿の一画に設けられたと書かれています。遠江国が幕府直轄領となった家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地域は「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所があったとのこと。

 

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◯中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)

 

かつて今川家・徳川家に仕えた「秋鹿家(あいかけけ)」の屋敷の遺構の「扇子の池」

 

場所 :磐田市中泉1335-167 

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅から徒歩約9分

車:東名磐田ICより車で約20分 

駐車場:なし

 

中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)には、かつてこの場所には当地の武将・旗本・代官として今川家・徳川家に仕えた「秋鹿家(あいかけけ)」の屋敷がありました。現在残るこじんまりとした池泉回遊式庭園はその遺構です。

 

元亀元年(1570年)徳川家康は浜松城に入城し、磐田二之宮にある大池にしばしば鷹狩りに来ては、その近くに屋敷を構える秋鹿家を宿舎と定めて遊猟していたそうです。

 

天正6年(1578年)に磐田中泉を支配していた中泉府八幡宮神主の秋鹿直朝は、秋鹿邸を家康に献上し、代わりに久保の地(此所)に移り住みました。

 

御殿の地には天正6年(1578年)に仮別荘が建てられ、さらに天正12年(1584年)からは城塞を築き要塞を備えた新御殿の建設に着手、天正15年(1587年)には堅固な新御殿の完成となりました。

 

※中泉御殿は、磐田原台地の南端に位置し、標高は2m〜6mです。敷地は1万坪といわれる広大な敷地で水源に恵まれた土地。その南側約1kmには大池(1ha)が広がり、今でもその一部が磐田大池として市民の憩いの場になっています。

 

その秋鹿家からの拝領地は、明治維新における廃藩置県により一時は明治政府に返上し、お屋敷跡は「中泉公園」として親しまれていたそうです。

 

その後、明治政府により払い下げられ再び秋鹿家の所有となり、明治の中頃には一部が料亭(旧開莚楼)、遊郭、芝居小屋、そして、芝居小屋「照月座」、医院、借家、一般住宅として使用されるようになりました。

 

料亭「開莚楼」は1998年(平成10年)まで営業していたそうですが、幕末に建てられた建築物ということで老朽化で廃業し、その後この場所は市の所有となったそうで「不老斎跡」の碑が残っています。

 

これらの建物は現存しませんが、当時の中庭「常磐の森」と「扇子の池」は今も面影を残しています。

 

その後、秋鹿家からこの場所を譲り受けたことや、後に要塞を備えた「中泉御殿」を建立し、関ヶ原の戦い大坂の陣への往来の前後にはこの中泉御殿に泊まったと思うと、家康にとって磐田はかなりお気に入りの場所で重要視していたことが想像できます。

 

磐田市中泉に40年以上暮らしていた友人は、戦国時代は好きだけど「狸おやじ」で知られ「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは家康」と歌われる徳川家康には興味が持てなかった、と言います。まさか遊郭までとは・・・。と驚いていました。

 

というわけで、中泉歴史公園とは「中泉御殿跡」でもあり、想定外ですが「近代にはこの場所に中泉遊廓もあった」というすごい歴史を持つ「旧秋鹿家庭園」ということです。

 

現在開放されているお庭は、ボランティアの皆さんが荒れ放題のお庭を一生懸命に手入れしたおかげで、狸ばかりかカワセミまで飛んでくるそうです。池の周辺にはモミジもあり晩秋には紅葉の庭園も見られます。

 

現在は住宅街の中にあるため、目立つ庭園とはいえませんが、ここまで深い歴史があり家康公ともゆかりが深いお庭が見れる公園ですから、ぜひ、立ち寄ってみてはいかがでしょう。夏は虫刺されに注意が必要かも!?

 

もし立ち寄ることがあったら絶対に見ていただきたいのが、下の『ベンチ』なのです。

 

旧秋鹿家が遊郭として使われていた頃の建物の柱がベンチになっています

 

この公園の『ベンチ』ですが、じつは旧秋鹿家が遊郭として使われていた頃の建物の柱をそのまま横たえて、ベンチとして再利用しているようです。「しっかとその目に焼き付けるのじゃぞ」ということで、もし座ってみていただけたらかなりうれしいです。

 

◯一言坂古戦場跡

 

場所:磐田市一言坂2918-2 

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅から徒歩約33分

車:東名磐田ICより車で約16分

駐車場:なし    

 

辺りには看板がいくつか設置されていますが、R1沿いということで歩いてご覧になるのは大丈夫そうですが、車を止めて見ることはムリかもしれません。

 

元亀3年(1572年)磐田市三ヶ野の小高い磐田原台地の上での戦い「三箇野川(みかのがわ)の戦い」で上洛を目指す武田信玄との戦いに敗れ、浜松城に向かって敗走する徳川家を武田軍が追い、再び合戦になった場所が一言坂です。

 

「一言坂の戦い」で得意の大槍を振り回し一人奮戦し、味方の軍を無事退却させ、敵軍である武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、その武勇を讃えられた本多平八郎忠勝の活躍でも有名な戦いです。

 

一言坂の周辺には他にも「京見塚古墳」や「かぶと塚公園」「秋葉灯籠」「宮之一色一里塚」など歴史スポットが多数点在しているので、休日にのんびりと散策してみるのもいいかもしれません。

 

元亀3年、上洛を目指す武田信玄が遠江に侵攻し徳川方と遠江各地で戦いを繰り広げ、磐田市内でも三ケ野や一言坂で戦いが行われました。当時の様子が林大功の絵画、明治初期に作成された浮世絵からうかがえます。

 

【本多平八郎一言坂合戦之図】

 

図案家として宝塚歌劇団の舞台装飾も手掛けた林大功の作品。林大功は従軍画家としてかぶと塚公園にあった中部第129部隊に在隊し、平八郎の伝承を描きあげました。

 

【一言坂の合戦と本多平八郎忠勝】

 

元亀3年、三方ヶ原の戦いに先立ち、遠江の各所で徳川家康と武田信玄の戦いが行われました。

 

袋井市の木原に本陣をおいた武田方と三ケ野に偵察に出た徳川方との間でも、小競り合いが行われました。その後、浜松へ撤退する徳川方とそれを追撃する武田方とが一言坂で戦火を交えた戦いを「一言坂の戦い」と呼んでいます。

 

一言坂の戦いでは家康の家臣本多平八郎忠勝が活躍し、武田軍方の進軍を防ぎました。一言坂で徳川方を破った武田方は、匂坂城などの小城を落としつつ天竜川沿いに北上します。

 

途中、信玄は合代島(ごうだいじま)付近に陣を敷きました。徳川方は天竜川流域各所で苦戦し、北遠の拠点だった二俣城(浜松市天竜区)も落城し、いよいよ三方原の戦いを迎えます。

 

「天竜川御難戦之図」には、硝煙がけむる天竜川を背景に、家康を支えた本多平八郎などの家臣が描かれていますので、当時の様子がうかがえます。「天竜川御難戦之図」は、最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年(つきおかよしとし)が明治7年に書いた浮世絵です。個人蔵のため見ることはできません。

 

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◯豊田 池田の渡し公園

 

場所:磐田市池田地先 国一天竜川橋を北へ約1km先の河川敷 駐車場◯

《アクセス》

電車・バス:磐田駅から徒歩約67分

車:東名遠州豊田スマートICより車で約13分

駐車場:あり

     

池田の渡し公園は、東海道天竜川の渡しとして知られる「池田の渡船場」を河川敷に再現した公園です。公園内を流れる小川のせせらぎは、天竜川をイメージしているそうです。

 

磐田の地で武田軍に敗れ追われる家康軍に、家康軍を船で天竜川を渡したり、武田軍に船を使われないように隠したりと池田の渡船衆は尽くしたといいます。

 

これらに感謝した徳川家康は、戦国時代の終わごろ、池田の船守に天竜川の渡船の運営権を保障しました。

 

公園の下流側の堤防沿いには、渡船場の跡を示す「天竜川渡船場跡」の碑があります。

 

のびのびと遊べる天竜川の広い河川敷にある芝生公園です。強い日差しを遮ることができる赤いパラソルにベンチもあったりして、真夏でもちょっと涼し気な公園で珍しい遊具もあります。

 

お弁当でも持ってパラソルの下で広げたら、あっという間にリゾート気分!緑あふれる自然いっぱいの川畔でたっぷりと開放感を味わってみてはいかがでしょう。

 

【池田の渡し風景館】

 

池田の渡し公園から、土手を超えて「熊野の長藤」で知られる行興寺に向かっていくと「池田の渡し風景館」があります。

 

天竜川で行われていた「池田の渡し」は、1000年も前から続いていたと記録されているとのこと。「池田の渡し」で有名なのが、先程も登場した徳川家康が池田の船渡衆に助けられたお話。家康からお礼として与えたとされる「朱印状のレプリカ」などもこちらに展示されています。

 

【池田の渡し】

 

十返舎一九が書いた滑稽本『東海道中膝栗毛』に200年ほど前の江戸時代に、弥次さんと喜多さんが見付宿に入った時のお話があります。

 

長旅で疲れた喜多さんは「長旅でくたくただ。ここから先は馬に乗っていこう」と馬を用意してもらったところ1頭しか用意できなかったそうです。

 

浜松目指してしばらくすると『天竜川に出る近道』という看板を見付けると、馬子は「ここから北へ行くと、1里(約4km)ほど近くなりますが、狭い道で馬は通れず、歩いていくのがやっとです」と教えてくれました。

 

そこで、弥次さんは馬に揺られながら、喜多さんは歩きで「池田の渡し場」を目指します。どちらが早く着いたと思われますか?

 

先に着いたのは歩きの喜多さんで、馬の弥次さんを待っていたんですって。この「近道」がどれだけ近かったのかがわかります。

 

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◯姫街道(池田近道)

 

見付宿から池田渡船場までの近道「池田近道」はここから

 

場所:磐田市見付 見付宿の西木戸跡付近 

《アクセス》

電車・バス:磐田駅から徒歩約26分

車:東名遠州磐田ICより車で約15分

駐車場:なし

     

見付宿から西に向かう小道を進み一言坂を通り池田渡船場に行く道が「池田近道」と呼ばれていた道です。

 

江戸時代に、見付宿から天竜川畔の渡船場のある池田へ行く道は2つありました。一つは東海道で見付から南下し、中泉代官所(磐田駅南部にあった)方面に向かい、次に、西に曲がり、天竜川手前で右折し川沿いに北上して池田に至ります。

 

もう一つは、見付宿から西に向かう小道を進み一言坂を通り池田渡船場に行く道で池田近道と呼ばれていました。この池田近道の起点は見付で、この道が浜名湖を迂回する本坂街道(姫街道)に通じることから、いつの頃からか姫街道とも呼ばれるようになりました。

 

「東海道中膝栗毛」では弥次さんが歩いた道で、本来「作道」(農道)で幅3尺(約91cm)と記録されているそうですが、江戸時代には多くの旅人がこの近道を利用しました。

 

また、貞享元年(1685年)貝原益軒の書いた「東路紀」の中に「見付の台より直に田の中を通りて、天竜川の畔、池田に出る小道あり、本道より近し、馬は通らず。池田の里名所也。古歌有り。見付の南に今之浦とて大きな池あり。湖なり。」という記載があるそうです。

 

◯城之崎城跡

 

現在は城山球場となっている『城之崎城跡』土塁などの遺構も残ります

 

場所:磐田市見付190

 《アクセス》

電車・バス:JR[磐田駅]から遠鉄バス80番→約6分→見付バス停下車、徒歩で約6分

車:東名[磐田IC]より約10分
  磐田バイパス[見付IC]より約7分
駐車場:球場の駐車場があります。(152台)

御城印:4/1から限定販売で城之崎城、中泉御殿、社山(やしろやま)城、3古城の御城印を作り、JR磐田前の観光案内所+磐田市下神増の農産物直売所+「とよおか採れたて元気むら」で販売しています。

 

家康は1569年(永禄12年)から城之崎城(現在の城山球場周辺)に城を築き始めました。しかし、東から攻めてくる武田軍に対し天竜川を背にするということで、翌年には築城途中で造営を中止し、浜松城を本拠地としました。球場の周囲には土塁の一部が残されています。

 

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\参照したコミックでとてもわかりやすい/

角川まんが学習シリーズ まんが人物伝 徳川家康

 

まとめ

 

2023年放送予定の大河ドラマ『どうする家康』、放送前から勝手に盛り上がってイベントに参加したり、徳川家康ゆかりの地をあっちこっち調べたり、実際に訪れているsannigo(さんご)が、今回は磐田で徳川家康にゆかりのある市内の史跡、名所をウォーキングがてら訪ねてみました。

 

まずは「西光寺」、正面の立派な門は、家康が利用した「中泉御殿」の表門を移築したものといわれ、次に「西願寺」こちらの山門は「中泉御殿」の裏門と伝えられています。

 

家康たちが三ケ野まで偵察に来た際に武田軍と戦いになった「大日堂 三箇野川(みかのがわ)古戦場跡」を車で訪ねるのはムリ!歩いて行きましょう

 

見付の宣光寺には家康が寄進した鐘があります。すぐ近くの旧見付学校には、家康が三方ヶ原の戦いで大敗し浜松城に逃げ帰った際、酒井忠次が太鼓を叩き、武田軍に罠だと思わせ退却させたといわる太鼓が展示されています。

 

かわいらしい家康像がある「御殿遺跡公園」は、家康が中泉に御殿を築き、鷹狩りで遊猟した際の休憩・宿泊場所。

 

こちらの「一言坂古戦場跡」も歩きか車窓から眺めるのがおすすめ!武田との三ケ野での戦いに負けて逃げる家康たちが追いつかれ激しい戦いが行われた場所です。

 

さらに車で西へ進むと天竜川畔にある「豊田池田渡し公園」があります。武田軍に追われる家康が、無事に天竜川を渡り浜松城へ逃げ帰ることができたのも池田の渡船衆のおかげです。

 

ちなみに、さんごからのおすすめスポットとして、中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)と姫街道(池田近道)も詳しく調べてました。

 

ウォーキングにはピッタリの季節です。大河ドラマ「どうする家康」放送前に磐田の家康ゆかりのスポットを巡って盛り上がってみませんか?

 

ってことで、今回はこのへんでおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。