sannigoのアラ還日記

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浜松の犀ヶ崖古戦場(犀ヶ崖資料館)は観覧無料 三方ヶ原の戦いで大敗した家康が偲べます

🕖2022/09/07  🔄2023/10/23

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

2023年放送予定のNHK大河ドラマ『どうする家康』は、室町時代から江戸時代を舞台に浜松とゆかりの深い徳川家康を描くとあって、浜松のあちこちで『どうする家康・ゆかりの地』ののぼり旗がひらめき、かなりの盛り上がりを見せています。

 

徳川家康といえば「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」とうたわれるように、幼少時代から人質として過ごした環境からか、ひたすら耐えに耐え、戦に継ぐ戦をこなし戦法を磨きつつ、いざ!とういう時を待ち続けた印象が強い戦国武将です。

 

そんな徳川家康公の人気は、どうしても「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」の織田信長に比べると今ひとつな感じだったのです。

 

ところが、この『どうする家康』の放送が決まった頃から少しずつその人気度がアップしているらしいのです。

 

世界的な異常気象やコロナ、さらにロシアのウクライナ侵攻などへの不安が多い日々の暮らしの中で、さすがに日本人も激しくてかっこいいより、やっぱり「穏やかに平和に暮らしたい」と願う人が増えた影響もあるかもしれません。

 

室町時代から安土桃山時代にかけてずっと続いていた戦乱の世を平定させ、260年もの戦いのない平和な時代を築く礎となった人物として、さらにマツジュンこと嵐の松本潤さんが主演なことも、注目が集まる要因ではないでしょうか?

 

ということで、家康とゆかりの深い浜松には、『家康公ゆかりの地 出世の街浜松 家康の散歩道』があります。

 

コースは2つで、家康公が居城とした浜松城とその城下町を巡るルート〈全長6.3km 徒歩約1時間30分〉の【城内・城下コース】と、三方ヶ原の戦いや武田氏との内通を疑われた築山御前ゆかりの地を巡る〈全長5.8km徒歩約1時間15分〉の【合戦ルート】があります。(見学時間は入っていません)

 

今回は【合戦ルート】の中から⑭犀ヶ崖古戦場(犀ヶ崖資料館)を特集します。

 

現在の犀ヶ崖古戦場のようす

 

 

 

犀ヶ崖古戦場(犀ヶ崖資料館)

 

史跡「犀ヶ崖」

 

遠州では珍しく雪が降った元亀3年12月22日(1573年2月4日)、「三方ヶ原の戦い」で甲斐の武田信玄に大敗した徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ込みました。

 

家康は、攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れることができたのです。その夜、家康はどうにか武田軍に一矢を報いようと、犀ヶ崖近くで夜営する武田軍を急襲しました。

 

地理に不案内な武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出したという物語となり、また、遠州大念仏の起源を戦没者の供養に求めるようになりました。

 

場所はこちら

 

 

【犀ヶ崖資料館】

 

犀ヶ崖の戦いのあと、転落死した将兵のうめき声が谷底から聞こえて、人々を苦しめた。武田の霊を慰めるため、2年後の天正2年(1574年)家康が宗円という僧を招き大念仏をあげたところ、その声がやんだといわれています。

 

犀ヶ崖資料館は、その宗円が庵したところと伝えられる、旧宗円堂を資料館として整備したもので遠州大念仏及び三方原合戦に関する資料が展示されています。

 

資料館内には、遠州大念仏を中心にわかりやすくDVDにまとめた動画が用意されています。お時間に余裕があればご覧になることをおすすめします。(約30分くらい)


開館時間:9:00~17:00

休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
    国民の祝日の翌日
    12月29日~1月3日

観覧料:無料

浜松市中区鹿谷町25番10号

TEL・FAX:053-472-8383

 

《アクセス》


遠鉄バス浜松駅前ターミナル
①番ポール[舘山寺行]  バス停[浜松北高]下車
⑱番ポール[奥山・気賀行]バス停[浜松北高)下車

 

◯宗円堂について

 

宗円堂は、もと青雲寺という宗源院の末寺でした。犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから、念仏堂とも呼ばれていたようです。


了傅(りょうでん)の後を受け継ぎ、念仏踊りをさらに布教に努めた宗円が庵したところと伝えられ、三方ヶ原の戦いの死者の霊がまつられていました。

 

明治25年に再建し、昭和2年頃にまた再建され、昭和57年に浜松市に寄付されて資料館として使われていました。

 

◯犀ヶ崖

 

犀ヶ崖は、浜松城の北側約1キロメートルにある断崖で、犀ヶ崖古戦場として1952年(昭和27年)に静岡県の史跡に指定されています。

 

史跡の現況は、長さ約116メートル・幅約29メートル〜34メートル・深さ約13メートルです。しかし、当時の深さははっきりとわかりません。が、以前は、三方原台地がき裂、陥没してできた長さ2キロ、深さ40メートル、幅50メートルの断崖だったといわれていました。

 

江戸時代中期の1716年(享保元年)に記された古地図を見ると、浜松城と犀ヶ崖の位置関係や崖の形状、大きさがわかります。この古地図には「三方ヶ原の戦い」当時の崖の深さは約40メートルと書かれています。

 

なお、家康在城期の浜松城の規模は、まだそれほど大きくなく古城が主郭でした。三方ヶ原の戦で敗走した家康は、「玄目口」から帰城したとされています。

 

当時の犀ヶ崖付近は鎌倉時代以降引間宿の西の境界として、墓地が営まれさまざまな宗教者が立ち寄りました。布橋の地名や宗円堂もこうした信仰によるものです。

 

大敗を喫した家康の部下「大久保忠世、天野康景)が一矢報いようと鉄砲手16名を主に百余名ほどを編成し、犀ヶ崖北方に陣営の武田勢の後方へ出るや夜襲しました。

 

武田勢は多数の戦死者を出し、崖下には人馬が山と積まれました。この付近を布橋というのはここに布の橋を架し武田軍をみちびいたからだと伝えられています。

 

◯三方原の戦い

 

元亀元年、29歳になった家康は、今川の領国だった遠江に進出し浜松城を居城としました。

 

元亀3年10月、上洛の野望を抱いた武田信玄は、甲斐(山梨県)を出発。

 

甲斐から信濃(長野県)に入り、現在の静岡県と長野県の県境に位置する青崩峠、兵越峠を超えて遠江国に進軍し、北遠地方を次々に手中におさめ南下しました。

※現在は研究が進み駿河から遠江国に進軍したという説が有力なようです。

 

この間には、武田勢と家康の偵察隊との間で戦いがあり、「木藁畷(きわらなわて)の戦」(現在の袋井市)、「一言坂の戦」(現在の磐田市)と呼ばれています。

 

その後、苦戦の末に二俣城を開城させた武田勢は、天竜川を渡り、大菩薩(だいぼさつ)(東区有玉西町)から三方原台地に登ります。

 

老練な信玄は、堅固な浜松城を直接攻めるより、若い家康を三方原におびき出して戦った方が有利と考え、大菩薩から三方原台地を西北進しました。

 

家康は、直ちに浜松城を出て追撃したのですが、家康はまだ31歳とまだ若く、一方武田信玄率いる武田軍は「甲斐の虎」と呼ばれ、その武勇はのちの天下人織田信長を恐れさせるほどでした。


・武田方は、北条氏の援軍を合わせ約25,000人

 「魚鱗(ぎょりん)の陣」武田信玄52歳

・徳川方は、織田氏の援軍を合わせ約11,000人

 「鶴翼(かくよく)の陣」徳川家康31歳

 

屈強な巨体で闘う猛々しいイメージの信玄が率いる武田軍は数も勝ることから、徳川軍は総崩れとなってしまいます。

 

家康は九死に一生を得て、やっとのことで浜松城へ逃げ帰りました。

 

徳川軍は、武田軍に追いこまれるかたちで、浜松城に籠城することになったため、武田軍は、追撃を中止し、犀ヶ崖付近で一部の兵士を集めて陣を張ったのです。

 

◯犀ヶ崖の奇襲

 

徳川軍は、反撃に転じるために一計を案じました。犀ヶ崖に武田軍を追い落とそうと、崖に白い布を張り、丈夫な橋が架かっているように見せかけたのです。

 

夜半になって、浜松城の近くにある普済寺に自ら火を放ち、浜松城炎上と見せかけておいて、武田の陣営の背後から鉄砲を打ち込み、織田信長の援軍が来たと思いこませ、武田軍を人馬もろとも谷底へ追い落とし大損害を与えました。(当時の犀ヶ崖は、深さ約40m、幅約50m、長さ約2kmの複雑な地形でした。)

 

武田軍は浜松城攻撃を中止し、軍勢を西に向かわせました。

 

徳川軍の戦死者は約1,000人で家康の大敗北でした。しかし、戦国最強とうたわれた武田信玄の大軍に果敢に立ち向かったことで、その評価を高める結果となりました。

 

最大の危機を乗り切った家康は、無謀な戦いで多くの将兵を死なせたことを教訓とし、いかにして勝つか、信玄の戦法を積極的に学びました。

 

◯犀ヶ崖のたたり

 

「三方ヶ原の戦い」の翌々年頃より、夜更けになると犀ヶ崖の谷底から人や馬のうめき声が聞こえ、付近で怪我人が続出したり、イナゴの大軍が発生して農作物に害を与えたりしたため、人々はこれを犀ヶ崖の戦死者の「たたり」と恐れるようになりました。

 

そこで家康は、三河から了傅(りょうでん)という僧侶をまねいて、了傅が七日七夜、鉦と太鼓を鳴らして供養したところ、「たたり」は鎮まったといわれています。

 

以降徳川家康は、三葉葵の紋付羽織を着ることを許し、念仏踊りを推奨しました。そして、了傅の後を継いだ宗円(そうえん)がさらに布教に努めたため、遠州各地で大念仏が盛んに行われるようになりました。

 

◯勝軍地蔵

 

宗円堂が再建されたとき、本尊として磐田見付の安間家(代官級)の家宝として伝わる「家康兜前立勝軍地蔵尊」の展示をはじめました。

 

勝軍地蔵尊は家康17歳の初陣の時より、戦場に臨む際には必ず仏體一軀(ぶったいいっく)を甲冑に奉安して陣中守護神としたと伝えられています。

 

◯遠州大念仏(浜松市指定無形民族文化財)

 

「遠州大念仏」は、遠州地方の郷土芸能の一つで、初盆を迎えた家から依頼されると、その家を訪れて庭先で大念仏が行われます。

 

大念仏の団体は、必ずその家の手前で隊列を組み、統率責任者の頭先の提灯を先頭にして、笛・太鼓・鉦の音に合わせて行進します。笛・太鼓・鉦・歌い手、その他もろもろの役を含めると30人を超す団体となります。

 

大念仏の一行が初盆の庭先に入ると、太鼓を中心にして、その後方に双盤を置いて、音頭取りに合わせて念仏や歌枕(うたまくら)を唱和します。そして、太鼓を勇ましく踊るようにして打ち鳴らし、初盆の家の供養を行います。

 

江戸時代のもっとも盛んな時には、約280の村々で大念仏が行われていました。現在、53組が遠州大念仏保存会に所属し活動しています。

 

なお、犀ヶ崖では毎年7月15日に三方ヶ原の戦いの死者の霊を慰めるため、遠州大念仏が行われています。(2022年までコロナ禍の影響で3年間中止されています)

参照元:https://www.enshu-dainenbutsu.com/

 

資料館から外に出るといくつかの石碑を見ることができます。

 

♢本多忠真(ほんだただまさ)の顕彰碑

 

本多忠真の顕彰碑

 

本多忠真は徳川四天王の一人で本多忠勝の叔父にあたる武将です。

 

三方ヶ原で大敗した徳川軍の撤退に際し、殿(しんがり)隊を買って出た忠勝隊の中にあって、武田勢の中に刀一本で斬り込み39歳をもってこの地で討死しました。

 

♢夏目吉信の顕彰碑

 

犀ヶ崖資料館近くにある「夏目次郎左衛門吉信の顕彰碑」

 

三方ヶ原の戦いで討死した武将のうち、もっとも知られているのが夏目次郎左衛門吉信です。

 

彼は敗走中の家康の身代わりとなって「我こそは家康なり」といって、犀ヶ崖付近で武田勢の前に立ちふさがり討死した武将なのです。

 

【夏目吉信】

 

三方ヶ原の戦い(1572年)で、徳川家康軍は武田信玄軍に大敗しました。浜松城で留守役を務めていた家康の家臣夏目吉信の元に、次々に悲報が届きます。「無念、お味方総くずれ」「お味方、お討ち死に多数。殿は戦場を抜け出し、城を目指しているもよう」。

 

吉信は家来に叫びます。「殿からお預かりした我が命。お返しする時が来た。皆の者、われに続け。何としても殿をお助けするぞ」

 

吉信の夏目家は、家康とその祖先が三河(愛知県東部)で松平を名乗っていた頃から代々仕えていました。ところが、三河一向一揆が起きた時、吉信は一揆側に加わり、家康に反旗を翻しました。捕らえられた吉信は処刑を覚悟したものの、家康に許されました。

 

「御恩深い主君に弓を引いたことは悔やみきれない」「今よりは主君のお役に立ち、この身を果たしたまえ」。この日以来、吉信は仏様に向かって毎日誓い続けたそうです。

 

家康にとって生涯で最悪の危機が三方ヶ原の戦いです。吉信は、一揆の時に助けられた命を殿のためにささげるのは今だと確信しました。25騎の家来を引き連れて城を飛び出し、家康の元に駆けつけました。

 

吉信は「殿、追っ手が迫っています。ここは私に任せてお引きくだされ」と叫びました。家康は「これほどの負け戦をして、何の面目があって引き返すことができようか。敵が間近に迫り、城にたどり着くのは難しい。皆と共に死ぬしかない」と聞き入れず、信玄軍の方に馬を進めようとしました。

 

吉信は「負け戦で命を落とすのはわれら端武士(雑兵)の役目。立て直すのは殿しかできませぬ。お許しくだされ」と叫び、家康の馬の手綱を取りました。浜松城の方に向けると、馬の尻をやりの柄でたたきました。「何があろうと城まで駆け抜けろ」

 

家康を乗せた馬が城に向けて駆け出すのを見届けた吉信は、十文字のやりを手に取りました。「われこそは徳川家康なり。腕の覚えのある者はかかってまいれ」と名乗り上げると、25騎の家来とともに信玄軍に突進しました。吉信は家康の身代わりになり、討ち死にしました。

 

後年、家康は吉信の子を召し出し「私があの時危機を免れ、今天下統一を成し遂げたのも、全ておまえの父の忠節によるものだ」と涙を浮かべて話したそうです。今、高さ5mを超す夏目吉信の碑が犀ヶ崖資料館の北側の犀ヶ崖緑地(中区布橋2丁目)に立っています。

引用元:中日新聞 歴史のとびら170

 

♢「平和への祈りを込めて」の記念碑

 

松本潤さんと有村架純さんが鍬入れをして建立された「平和への祈りを込めて」と刻まれた石碑

 

大河ドラマ『どうする家康』で家康公を演じた嵐の松潤こと松本潤さん、そして瀬名姫を演じた有村架純さんが2023年4月29日にこちらの記事の『犀ヶ崖古戦場』をわざわざ訪れ、家康が信玄に大敗した「三方原の戦い」の記念碑建立に向けて鍬入れをしてくださったのはご存知でしょうか?

 

その写真は広報はままつ⑥の表紙にもなりましたし、希望があれば浜松市民以外の方へと広報誌を郵送したことでも話題になりました。(メルカリへ出されたことも含め)

 

その後、無事に、表には「平和への祈りを込めて」と刻まれ、裏には出演者の名前も記された石碑が完成。7月15日には家康公の身代わりで亡くなった本多忠真を演じた波岡一喜さんが除幕式に出席されお披露目された石碑を、私も先日見させていただきました。

 

徳川家康は浜松市民の誇りですから、大河ドラマ放送を期に、こうして台座を含めて高さ約190cm、幅約120cmの立派な石碑が新たに建ったことをうれしく思います。

 

もっと言えば、GWの浜松まつりの『家康公騎馬武者行列』には、殿はもちろん井伊直政役の板垣李光人さん、岡部大さん、甲本雅裕さんも参加してくださり、『天下一の行列』と地元でも多いに盛り上がりました。

 

このように大河ドラマ関のおかげで地元が大いに盛りあがった2023年、にわか家康ファンの私には奇跡的な出来事ばかりで本当にいい思い出になり、あの世までもっていこうとすごく喜んでいます。

 

♢大島蓼太(りょうた)の句碑

 

「岩角に 兜くだけで 椿かな」

 

大島蓼太は、江戸時代中期の俳人で、天明の五俳人の一人といわれた人です。全国を行脚する途中で浜松に立ち寄ったといいます。句碑の後方には椿の木が植えられていて、句を詠んだ情景を偲ぶことができます。

 

♢ねずみ小僧次郎吉の供養塔など9基

 

犀ヶ崖資料館にあるねずみ小僧次郎吉の供養塔 他9基

 

徳川家康が三方ヶ原の戦いでた武田信玄に大敗し、浜松城に逃げ込んだその夜、犀ヶ崖近くに野営する武田軍を急襲し、崖に白い布を掛け立派な橋があると見せかけ騙された武田軍の多くの兵士が崖に転落し死者が出たというお話が残るのが犀ヶ崖。

 

そう思ってこの資料館を訪ねた人たちのほとんどが「なんで?」と思うのが、犀ヶ崖とは全く関係のない『ねずみ小僧次郎吉の供養塔』が資料館の一角にあることです。

 

ねずみ小僧次郎吉といえば、あの大地真央さんもお芝居で演じたことがあり、講談、浪花節などに登場する盗賊です。

 

ですが、ただの悪い盗賊ではなく盗んだお金を貧しい人々に分け与えたといわれ、当時から庶民に人気のあった不思議な盗賊です。

 

9基ある供養塔の中でも一番大きな塔には、天保2年(1831年)8月に捕らえられ38歳の若さで命を散らした次郎吉の没年月日と戒名が書かれています。

 

ご存じの方も多いかと思いますが、一般的にねずみ小僧のお墓は東京両国の回向院にあるとされ、その山門前の土産物屋にはねずみ小僧にちなんだものが並んでいます。

 

となると、浜松にあるお墓は何?ってことになりますが、当時このあたりに住んでいた鼠小僧次郎吉ファン、もしくは同じ稼業をされていた方が供養塔として建てたのではないでしょうか?

 

じつはこのねずみ小僧次郎吉の供養塔は、資料館が開設される前からこの地に建立されていたそうで、そのままの形で残されているのだそうです。

 

 

 

参照元:浜松歴史のとびら

 

まとめ

 

今回は、家康の散歩道【合戦ルート】の中から、⑭犀ヶ崖古戦場(犀ヶ崖資料館)を特集しました。

 

現在も残る「布橋」という地名は、家康最大の敗戦といわれる「三方ヶ原の戦い」で浜松城まで無事逃げ切ったあとの夜半に徳川軍が、犀ヶ崖付近に陣営した武田軍に夜襲した歳、崖に白い布をかぶせ橋だと思わせ導いたからついた地名のようです。

 

この犀ヶ崖で亡くなった武田軍のたたりと人々が思うような「夜更けになると犀ヶ崖の谷底から人や馬のうめき声が聞こえる」、「付近で怪我人が続出する」、「イナゴの大軍が発生して農作物に害を与える」などのできごとが起こります。

 

そこで家康が、三河から了傅(りょうでん)という僧侶をまねいて、了傅が七日七夜、鉦と太鼓を鳴らして供養したおかげで「たたり」は鎮まったそうです。

 

これを機に、家康が念仏踊りで三葉葵の紋付羽織を着ることを許し、念仏踊りを推奨したことから、のちに遠州各地で大念仏が盛んに行われるようになったそうです。

 

その遠州大念仏に使われる太鼓も「犀ヶ崖資料館」には展示され、実際に叩いてみることもできますので、一度訪ねてみてはいかがでしょう。※筆者は一応ガイドさんに確認してから叩きました。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。