sannigoのアラ還日記

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家康生涯最大の敗戦三方原の戦いでの数々の伝説や家康の趣味、たたる妖刀「村正」まで

🕖2022/09/08    🔄2022/12/14

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の「どうする家康」にも関する歴史的な話は、浜松とゆかりに深い徳川家康に残された数々の伝説の中から、有名なもの、そうでないもの、さらに家康の変わった趣味のことやさらに徳川家にたたる妖刀「村正」についてまで深堀りしていきます。

 

戦国時代の侍たちが戦に向かうようす[写真AC]

 

 

 

家康生涯最大の敗戦といわれる三方ヶ原の合戦での伝説

 

三方ヶ原の戦いとは、元亀3年12月22日(西暦1573年2月4日、450年前)、徳川軍11,000人と武田軍25,000人が三方原台地で行われた戦いです。

 

甲斐から信濃に入り、現愛の静岡県と長野県の県境の峠を越え、遠江の国に進軍した武田軍は北遠地方を次から次へと手中に収めます。

 

この間には、武田勢と家康の偵察隊との間にも戦いがあり、「木原畷(きわらなわて)の戦(現在の袋井市)」や「一言坂の戦(現在の磐田市)」といいます。

 

その後、苦戦の末に二俣城を開城させた武田軍は天竜川を渡り、大菩薩(現在の東区有玉西町)から三方原台地を西北に進みます。

 

家康は、直ちに浜松城を出て追撃しましたが、数がはるかに多い武田軍に徳川家康は総くずれとなり、家康も九死に一生を得てやっとのことで浜松城へ逃げ帰りました。

 

エピソード1《八幡宮と雲立ちの楠》

 

八幡宮にある樹齢1,000年超えで根回り15メートルの雲立ての楠

 

 

雲立ての楠の看板

 

三方ヶ原の合戦に敗れた家康が浜松城に向かい必死で逃げている時のお話です。

 

もう少しで城に着けると思っていた時に、家康を探す声があちこちから聞こえ武田信玄の追っ手が迫ってきていることを知ります。


「見つかってしまったらおしまいだ」と思ったときに目に飛び込んできたのが八幡宮の森でした。


源義家も武運を祈った八幡宮に逃げ込んだ家康。大きな楠の根元のほら穴に馬に乗ったまま身を隠しました。


武田軍の追っ手から逃れしばし秘策を練っていると、突然楠の上に光り輝く瑞雲が立ち上りました。すると、神霊が白馬にまたがり城の方へ飛び立っていくのが見えました。

 

ここで見た不思議な光景を吉兆だと感じた家康は無事に城に戻ることができ、この日からこの御神木の楠は「雲立ちの楠」と呼ばれるようになったそうです。

 

合戦の後、家康は八幡宮を徳川家代々の祈願所と決め、旗、弓、神馬を奉納したそうで、さらに駿府に移り住んだ後も名代に参拝させたと伝わります。

 

現在もこの樹齢1,000年超えで根回り15メートルもあるであろう「雲立ちの楠」が八幡宮の社殿前にそびえ立っています。

 

もちろん、家康公が身を隠したと伝わる根本の大きなほら穴も見ることができます。(入ることができないようにロープが張られていました)

 

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エピソード2《白尾(しらお)》

 

三方ヶ原の合戦の負けいくさで、家康は白尾にまたがり八幡神社へ。

 

そして楠のほら穴に馬に乗ったまま隠れましたが、馬のしっぽが外から少しだけ見えてしまっていたそうです。

 

村人が見つけて「お殿様、白尾が出ています。」と伝えました。家康はあわてて馬のしっぽを隠し、無事に武田軍の追手をのがれたそうです。

 

家康は、命を助けてくれたこの村人に恩賞として「白尾」の姓を授けたという言い伝えが今も残っています。

 

エピソード3《小豆餅と銭取》

 

家康が三方ヶ原の合戦で、武田軍に追われて逃げ帰る途中、おなかがすいて歩けなくなってしまいました。ふと見ると、小さな茶店でおいしそうな小豆餅を売っています。

 

さっそく店に入り、初めての鎧姿のお侍に驚いている茶店のおばあさんに「疲れた体には甘いものが一番」と小豆餅を一つ注文しました。

 

おばあさんからお茶と自慢の小豆餅を受け取り、あっという間に食べ終え、あまりの美味しさに二つ目を食べ終わり、三つ目を口に運んでいると、あたりが騒がしくなりそこまで武田勢がやって来たことに気づきます。

 

あわてて餅をくわえたまま逃げ出す家康におばあさんはびっくりして、「お代をお忘れです」と追いかけました。

 

どのくらい走ったでしょうか?やっと追いついたおばあさんは、見事に代金を受け取ったといわれています。

 

この時以来、家康が茶店で餅を食べた場所の地名を「小豆餅」、おばあさんが代金を受け取った場所の地名は「銭取」と呼ぶようになり、現在もこの地名は残されています。

 

エピソード4《小粥(おがい)》

 

三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗。家康が命からがら逃げているうちにすっかりお腹が空いてしまい、ある農家に飛び込み食べ物を求めました。

 

農家の老夫婦は「今煮ているのは粗末なお米の粥で、とてもお殿様に上げるものはございません。」と、断りました。

 

が、家康は「空腹にまずいものなし。一杯くれ。」と、家康はおかゆをもらい何杯も食べました。おなかがいっぱいになった家康は「いずれ恩返しする」と言い残し、走り去っていったのです。

 

のちに天下を取った家康は、この老夫婦におかゆをごちそうになったお礼にと「小粥」の名字を与えました。後にその小粥家は庄屋をつとめ、家は代々栄えました。

 

小粥の家紋は丸に二引き。これは家康が粥を食べたとき、茶碗の上に箸を置いた形だと伝わります。

 

 

 

エピソード5《そうめん谷》

 

戦国時代の夏の終り頃、戦いに負けた徳川家康は家臣を連れて逃げていました。

 

庄内村の和田(現在の浜松市西区庄和町)まで駆け抜けてきた汗まみれの家康、木陰で休んでいると、朝から何も食べていないことを思い出し、急激にお腹が空きました。

 

すると、それを見ていた村人たちが、仕事の合間に食べようとに持参した冷たい谷川で冷やしたおいしそうなそうめんを家康に差し出しました。

 

食べ方を教わり食べた家康は、おいしいと大喜びして「何という食べ物だ」と百姓に聞きます。「そうめんといいます。百姓にとって暑い夏に一番の食べ物でこの地の名物です」と答えたそうです。

 

それ以来、その近くの谷を「そうめん谷」と呼ぶようになったそうです。

 

エピソード6《浜松の門松の竹は斜め》

 

徳川家康にとって、生涯最大の敗北を味わったとされる三方原の戦いは、浜松では珍しい雪が舞う年末に行われました。

 

武田信玄軍に負けて、10日もしないうちに新年を迎えました。今年こそはと決意を新たにした家康のもとに、信玄から正月飾りの門松とともに一緒にこのような意味の句が届いたのです。

 

「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」

 

漢字を使うと「松枯れて 竹類いなき 明日かな」になり、意味としては「松平家(徳川家)はもうすぐ滅び、武田家の天下が明日にも来るだろう」となります。

 

家康の家臣たちは「新年そうそう縁起でもない」「無礼者め」などと騒然としました。そんな家臣たちを見て、家康が書き改めた句は

 

「まつかれで たけだくびなき あしたかな」

 

漢字で書き直した意味は「徳川家は枯れずに栄え続け、武田信玄軍の首は明日にもなくなり、滅びてしまうだろう」です。

 

書き直した句を読み上げると家臣たちからは歓声があがり、動揺は見事おさまったそうです。

 

さらに家康は、門松の竹の先を信玄の首に見立て、斜めに切り落とさせたそうです。その後、濁点を加えた句と竹の先を斜めに切り落とした門松を信玄に送り返しました。

 

この日以来、浜松では、門松の竹を斜めに切るようになったそうです。

 

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エピソード7《阿弥陀様が橋になる》

 

三方原の戦いで武田軍に大敗してしまった家康は、合戦場から命からがら抜け出し、数人の家来とともに馬に乗り曳馬の村(現在の浜松市中区曳馬の辺り)にたどり着きました。

 

浜松城まであと一歩、この川を渡る橋があったはずだ。と橋を目指し急ぎました。が、朝まであったはずの橋がありません。信玄軍に橋を焼き払われてしまったのです。

 

間近に迫ってくる武田軍を見て「無念だ」と天を仰ぎ、どうしたものかと考えていると、なんと近くにある常楽寺に祀られていた阿弥陀様が土手を上がってきました。

 

阿弥陀様は家康にほほえみかけると、川のこちらの岸から向こうの岸に、自分の体を横たえ橋になってくれたのです。

 

家康と家来たちは恐れ多いと思いながらも、この阿弥陀様の橋を渡り無事に城にたどり着くことができたそうです。

 

後に、家康公は阿弥陀様が橋になって助けてくれた場所に、「阿弥陀橋」と名付けた橋を架けたといわれています。

 

長い年月を経てどこにあったかわからなくなった「阿弥陀橋」は、その後「史跡 阿弥陀橋之跡」の石碑が建てられています。現在この石碑を見れるのは、浜松市中区高林5丁目です。

 

エピソード8《中泉寺山門の三つ葵の御紋が逆さ》

 

中日新聞の記事によると、磐田市中泉の中泉寺山門には、徳川家の家紋の三つ葵が掘られているそうです。

 

何か徳川家との深い縁でもあるのでしょうか。ところが、この御紋をよく見ると徳川家の家紋三つ葵が上下がさかさまになっているんです。

 

磐田市中泉(なかいずみ)にある中泉寺の創建は1562年(永禄5年)。開山した梅翁和尚が隠せいしていたころ、すぐ東側で徳川家康が78年(天正6年)ごろに砦として中泉御殿を造営し始めたとのこと。

 

この中泉御殿とは、家康が鷹狩りのおりに休憩・宿泊施設として築いた広大な城郭構えになっており、軍事的に利用されたことがわかる建物です。現在は磐田市中泉に『御殿遺跡公園』として、遺跡の一部が公園として公開されています。

 

御殿を訪れたついでだったのでしょう。たまたま中泉寺を訪ねた家康が梅翁和尚の徳を慕ったといいます。

 

第十九世紀の水野宏宗(こうしゅう)住職が記者に見せてくれた由来書きによると、家康から国家鎮護の道場として、本堂庫裏、山門鐘楼が寄進されたとあるそうで、「田畑を付し葵の紋許される」とあるそうです。

 

傷みの激しかった山門を修復したのは中泉寺先代で、1971年(昭和46年)の出来ごと。

 

御紋について当時修復工事をおこなった大工の「敬意を払って逆さにするものです」という助言があって、上下を逆さにしたそうです。

 

なるほど、葵の御紋は徳川家康が当時の梅翁和尚の徳を慕い寄進された山門にあり許されていたもの。多分当時は普通の向きだったのでは?

 

ところが、1971年に痛みが激しかった山門を修復工事した大工の「敬意を払って逆さにするもの」という一言で、葵の御紋が逆さになってしまい現在もそのままの姿ということになります。

 

家康が直接「御紋を逆さにしろ!」と命じたのなら面白かったのですが・・・。

 

現在の中泉寺は、山門からまっすぐ入った本堂の一番奥に位牌堂があります。一段高い場所にある梅翁和尚の木像の横に、家康の神号「大権現」の文字が入った「日光山東照大権現大相国会」の位牌も静かに並んでいるとのこと。

 

逆さの葵の御門に「日光山東照大権現大相国会」の位牌まであるのだから、立派に家康ゆかりの寺ではないだろうか!と記事は結んでいます。

 

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エピソード9《一言坂の戦い「挑燈野」》

 

浜松の今も残る地名に「布橋」があることは、先日の記事で紹介しましたが、じつは負け戦だった磐田の一言坂の戦いでも、同じように布橋を渡し武田軍を誘い込み沼地に落とすという戦法で負け戦から無事退却できたというエピソードが残されています。

 

負け戦の一言坂の戦から退却する徳川軍は、兵士に見せかけ藁で作った人形を石動と呼ばれた沼地に立てて、橋をこわして布橋を渡し、挑燈やのぼりで軍がいるように見せかけ武田軍を誘い込んで石動に落とし、見事退却に成功しているんです。

 

ここでは村人たちが戦死者達を弔い、その地を「挑燈野」と名付けたそうです。

 

それ以降この地に夏が近づくと、「万能蛍」と呼ばれる大きな蛍がこのあたりを飛んだことから、万能蛍は武田軍戦死者たちの魂だと伝えられていたといいます。

 

現在は「挑燈野の由来」と書かれた看板が、パチンコ屋さんの敷地内に立てられているそうです。

 

 

エピソード10《家康と三度栗》

 

家康は武田信玄軍との叩かに敗れ、命からがら戦場から逃れました。城に戻ろうとしたものの、いつの間にか家来と別れてしまいました。追っ手を振り切り一人になった時たどり着いたのが、園田の村です。

 

「ここまで逃げれば一安心。走り続けたおかげで、腹が減ってどうにもならん。」家康は目に入った農家に飛び込み、おばあさんに声を掛けました。「突然で悪いが、腹が減ってたまらん。なんでもいので食べ物を分けてくれ」

 

山里の農家に、お侍さまが食べるような物など用意できるはずがありません。「貧しい農家ゆえ、残念ながらお口に合う物はございません。栗の実でも良かったらどうぞ」おばあさんは恐る恐る栗の実を差し出しました。

 

「おお、これは良い。早速いただくことにする」家康は、皮をむくのももどかしく、むさぼるように食べ始めました。気がつくと、たくさんあったはずの栗も残ったのは一つだけ。

 

「おいしい栗のおかげで命拾いした。今すぐお礼はできないが、大きな木に育ち、わしが食べた以上に実をつけて恩返ししてくれ」とつぶやきながら、庭先に栗の実を埋めました。

 

やがて、家康の埋めた栗の実から芽が出て、大きな栗の木になりました。すると、どうしたことでしょう。年に三度も花が咲き、実るようになったそうです。

 

続いて袋井市に伝わる話。

 

武田信玄軍との戦いに敗れた家康は、戦場を離れると、山の中に逃げ込みました。暗い山道をさまよううちに大谷の村に着きました。

 

「腹が減っては戦ができぬ。いつ敵に出くわすか分からない。今のうちに腹ごしらえをしよう。弁当を出せ。」家来が持ってきた弁当を開くと、箸がありません。縁起でもない。飯も食えないのか。箸をよこせ」。

 

驚いた家来は、急いで近くの栗の木の枝を折って箸を作りました。家康は弁当を食べ終えると、栗の木の箸を地面に突き刺して声を掛けました。「折って悪かった。わしは生き延びて天下を取る。枯れることなく芽を出し、年に一度といわず三度実がなる立派な木に育ってくれ」

 

家康が江戸幕府を開いた頃、箸から芽を出した栗の木は、本当に年に三度実る三度栗になったそうです。

 

引用・参照元:中日新聞 浜松 歴史のとびら

 

 

 

エピソード11《田草刈り 笠と蓑を借り百姓姿で命拾い》

 

ある夏の暑い日のことです。戦いに敗れた徳川家康は、伊左地村(今の浜松市西区伊左地町)にたどり着きました。

 

家康は大きな木を見つけると、やっとの思いで木陰に入りました。全身から吹き出る汗を拭い、「ようやく一息つける。散々な目にあったが、城に戻ればこっちのものだ」とつぶやきました。

 

一休みした家康が逃げてきた方を見ると、遠くから土煙が近づいてくるのに気付きました。「まずい。追っ手が来たようだ。身を隠そうにも田んぼが広がるばかり。もはやこれまでか」。

 

家康が途方に暮れていると、田んぼの草を取っていたお百姓さんと目が合いました。事情を察したお百姓さんは、暑さよけに使っていた笠と蓑を脱ぐと、「これで良かったら、急いでお着けください。一緒に草を取っていれば、どこから見ても百姓です」と声を掛けました。

 

家康は、言われるままに百姓の姿になると、お百姓さんに続いて田んぼに入り、草取りを始めました。

 

敵の兵は、あっという間に迫ってきたものの、草取りをする二人には目もくれずに通り過ぎていきました。「かたじけない。笠と蓑のおかげで命拾いした」

 

数年後のことです。お百姓さんの家に訪ねてきた侍が「お殿様が城に来るように仰せだ」と言いました。

 

村から出たことのないお百姓さんは、どうしてお殿様に呼び出されるのか思い当たることがありません。どきどきしながら城に出向きました。

 

深々と頭を下げているお百姓さんに、お殿様が「あの時はお世話になった」と声を掛けましたが、殿様とお会いした覚えがありません。戸惑うお百姓さんを見たお殿様は「笠と蓑を借りた者じゃ。お礼として、そちの家から声の届く全ての土地を与えよう」と重ねて声を掛けました。

 

お百姓さんは、家に帰ると「お殿様、ありがとうございます」とありったけの声を出して叫びました。

 

引用元:遠州 歴史のとびら

 

先日静岡のテレビ番組で、とある由緒ある”静岡のわさび漬け屋”の紹介をしていました。

 

実はこちらのわさび漬け屋さんの姓(名字)も、実は静岡の駿府城で長く暮らした家康が、天下人になり江戸から静岡に立ち戻った際「お礼に苗字帯刀を許す」ということで付けた名字がそのまんまお店の名前になっていました。

 

このような多くの伝説を知ってみると、家康という武将は苦労が多かったからでしょうか?身分の差など関係なくお世話になった人のことはしっかり覚えていて、約束通り天下を取った後にお礼をするような方だったのではないかと想像できます。

 

今この世の中は、かなり「コンプライアンス」に厳しい時代になってきました。

 

これまで家康は「忍」の人であまり華やかさがないせいか、『人気武将ランキング』では織田信長や真田幸村などには負けていました。ですが、今後の「人気の武将」の順位に変化が現れるのも近いかもしれません。

 

 

家康の趣味『鷹狩り』

 

家康の趣味といえるものに「鷹狩り」があります。家康は人質時代から、将軍を引退して大御所と呼ばれるようになるまで、たびたび鷹狩りをおこなっています。特に東海地方から関東に移ってきてからは、何度もでかけていたようです。

 

そのせいか関東ではとても鷹狩りが盛んになったため、その名残りであちこちに「鷹」の字がつく地名が残っています。

 

鷹狩りとは、鷹を使って小鳥やうさぎなどの小動物をとらえる狩りの一種で歴史は古く、日本では西暦355年、仁徳天皇の時代から鷹が輸入され、朝廷を中心に公家の遊びとして親しまれました。最も盛んになったのが江戸時代ということですから、この頃の武士の楽しみの一つでもあったのでしょう。

 

ですが、家康に限っては鷹狩りはただの楽しみではなかったようです。

 

江戸時代に書かれた本によると、「鷹狩りは遊びのためにやるのではない。知らない土地を歩き回るから地形がよくわかり、もし戦(いくさ)になればとても役に立つ。領地の視察にもなるし、早起きをして体を動かすので、健康にとてもよい」と言って、家康は家臣たちにも鷹狩りをすすめたといわれます。

 

最近NHKBSで放送された『どうする松本潤?徳川家康の大冒険』を見たところ、家康が熱心に取り組んでいたことは、乗馬に鷹狩り、最後に香木とされていました。

 

家康の時代の馬は「木曽馬」で、現在の馬と比べると一回り小さく足も短くがっしりしているそうです。

 

ただでさえ乗りこなすのがむずかしい馬、戦のときは両手を離して槍や刀で戦わなくてはならないためか、家康は70歳になっても1日として馬に乗らなかった日はなかったとか。健康で長生きできた秘訣だったかもしれません。

 

家康が香道にハマったのは50歳を過ぎてからということから、秀吉から関東移封を命じられ江戸に入城した頃から関が原の戦いに向かっていく時期という感じでしょうか。

 

天下取りのため、人を利益で釣ったり、殺めたりといろんな経験をした時期だったことを思えば、香木の香りで自身に向き合い「戦いのない平和の時代」をひたすら目指していたのかもしれません。

 

 

徳川家にたたる刀『村正(むらまさ)』

 

家康の祖父、松平清康は1535年(天文4年)に家臣によって殺されています。また、父の広忠もやはり家臣の手で殺されています。

 

この時に使われた刀は江戸時代の歴司書『松平家』や『徳川実紀』によると、「村正」という刀だといわれています。

 

「村正」とは、室町時代の村正という刀づくりの名人がつくった刀のこと。

 

さらに、家康の長男の信康が、織田信長の命令で自刃したときに使った刀も「村正」。家康自身も何回も「村正」でけがをしているそうです。

 

このような事から「村正」は、徳川家にたたる「妖刀」として誰もが知る刀となったのです。

 

そのために『大坂の陣』で家康と戦った豊臣方の武士たちは、好んで「村正」を使ったそうです。

 

それから約250年後、江戸幕府を倒そうと立ち上がった志士たちにもやはり「村正」という銘のある刀を使った者がいるとのことです。

 

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まとめ

 

今回も居住地浜松にゆかりの深い徳川家康について、「三方ヶ原の戦いでの伝説」や「趣味の薬作りや鷹狩り」、さらに徳川家にたたる妖刀「村正」など興味深いものを集めてみました。

 

家康について調べ物をした結果、家康は一言坂の戦いでも、三方ヶ原の戦いでも、布橋をかけて敵を誘いこみ沼や崖に落とすという戦法を使っていたことになっていることに気づきました。

 

三方ヶ原の戦いにしても、ボランティアのガイドさんに聞いた話では、実際にどこで戦ったのかはっきりしないし、まんじゅう食べて、そうめん食べて、大楠の洞に隠れて、お粥まで食べて、栗まで食べるって伝説が多すぎるのでは?とのこと。

 

今でいうところの「家康さんの伝説が渋滞していて、中々入ってこない」って感じます。が、まだまだ伝説はあるようです。楽しみに待っていてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。