sannigoのアラ還日記

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『どうする家康』がよりおもしろく視聴できるように!徳川家康の年表をかんたんにまとめてみた

🕖2022/08/08    🔄202306/26

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

現在家康公とゆかりのある浜松では、2023年放送の大河ドラマ『どうする家康』の放送にむけて、地域活性化を図るため官民あげて大きくもりあがっているところです。

 

もちろん、大河ドラマファンのアラ還世代の私だって、「徳川家康ゆかりの地」浜松~家康プロジェクト推進協議会」で発信してくれる『浜松の魅力』や『大河ドラマ館情報』さらにイベント情報などを参考に来年の放送を心待ちにしているんです。

 

6月25日には、吹き出す汗を拭きながら『大河ドラマ館』期待と希望の応援メッセージプロジェクト」第1弾に参加、チョークを使って直虎ちゃんや家康くんのイラストとキャストの皆さまへ届くように!と祈りながらメッセージも添えて。

 

かなり広いキャンパスならぬアスファルトにチョークで何かしら描くなんて初めてのことでしたが、とても気持ちよかった。

 

最近よく流れるCMじゃないけど、「バッターボックスには立ってみなくちゃわからない」ってことです。

 

ただ、29日に「家康の散歩道」を歩くため浜松城に再び寄ったので、ドラマ館建設現場ものぞいたところ、あんなにあったたくさんのメッセージはすっかり消えてなくなっていたのにはちょっとびっくりでした(笑)

 

が、気を取り直して、今回8月6日は『Yes!家康プロジェクト 浜松 特別講演会~大河ドラマ「どうする家康」の制作秘話や朝ドラ等を活用した地域振興についての特別講演会』が開かれると同居人から誘われてアラ還ながら出かけたら、本当に秘話中の秘話的なお話まで聞けて大変うれしゅうございました。

 

ニノさんが、ドラマ「マイファミリー」・映画「TANG タング」へ出演依頼のお話を「2020年は嵐だけの思い出でいっぱいにしたい」と断られていたように、マツジュンも大河出演のオファーに対して2021年の年頭まで返事をされなかったとのこと。やっぱり、嵐ってすごいんだなーと感動!

 

しかも、とても貴重な『出演者一覧』もいただいてしまい、「どうする家康」がますます楽しみになってきました。

 

ちなみに、応援メッセージイベント第2弾が決定したようで、今度は大河ドラマ館内の土間部分にメッセージを描くとのこと。ムフフフ、今度は消えないぞ!

 

開催日は9月18日(日)、今日もツイッターで参加者募集してましたんで、ご希望の方は「どうする家康」で検索してみては?今度はどんなイラストやメッセージを書こうかいろいろ模索中です。

 

ってことで、「おんな城主直虎」「麒麟が来る」につづいて浜松がゆかりの地ということで、勝手に盛り上がって現在必死で徳川家康を勉強中です。

 

知れば知るほど、現在の平和な日本の礎はこの家康くんが築いてくれたんだなと、そのお人柄(ブラックな部分も含み)に惚れ込んでいます。

 

こちらのブログにも「家康の散歩道」を実際に歩いたり、車で訪ねたりしたレポートもアップしています。

 

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今回は、『どうする家康』がよりおもしろく視聴できるように!徳川家康の年表をかんたんにまとめてみたのでアップしていきます。

 

ちょっと見えづらいですが浜松城公園にある徳川家康像

 

 

 

徳川家康公の年表

 

 

 
年齢 西暦 和暦 主な出来事 出来ごと
岡崎城 0 1542 天文11年 誕生 12月26日午前4時ごろ 三河岡崎城城主松平広忠と於大(伝通院)の間に誕生。幼名は竹千代
人質として 19歳までの12年間は駿府城
6 1547 天文16年 織田家の人質となる 10月、今川家の人質となるため城を出て向かう途中尾張の戸田康光に連れ去られ、銭千貫で織田信秀に売り渡される。信秀は竹千代を万松寺に預けここで信長と親しくなる。※現在は父広忠が織田信秀に敗れて織田家に人質に出されたのが事実のよう
8 1549 天文18年 父松平広忠死す 父広忠が家臣の岩松八弥に斬り殺される
      今川氏の人質となる 11月、信長の庶兄信広と交換で今川義元の人質となり岡崎に戻る。わずか10日ほどで駿河へと送られ11年ほど過ごす
      太原雪斎に軍学を学ぶ

松平家の次の当主として、また、嫡男氏真の補佐役として育てようとした今川義元のもと、臨済寺で太原雪斎(たいげんせっさい)のもとで軍学を学ぶ

14 1555 弘治元年 元服 3月元服し、今川義元の「元」の字を拝領し松平元信と改める
15 1556 弘治2年 墓参りで岡崎へ 岡崎城の三の丸に蓄えられた兵糧や武具を見せられいつの日か岡崎に戻り家臣たちに報いることを決意する
16 1557 弘治3年 築山殿と結婚 正月、元信は今川市の一族の娘築山殿と結婚し、この機に元康と改める
17 1558 永禄2年 初陣 今川義元の命により初陣。織田氏に寝返った三河寺部城主・鈴木日向守(寺部城)を攻める。
18 1559 永禄元年 信康誕生 3月5日駿府にて築山殿との間に信康が生まれる
19 1560 永禄3年 亀姫誕生 3月5日亀姫が生まれる
      桶狭間の戦い 5月に桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を奇襲し討ち取る
織田信長との同盟
 岡崎城
20 1561 永禄4年 岡崎城に戻る 人質生活終了、三河平定に着手
21 1562 永禄5年 清州同盟 正月、清州城を訪問し織田信長と同盟を結ぶ。この同盟を「清洲同盟」と呼ぶ
22 1563 永禄6年 家康と改名 今川義元の元の字を名前から消し、祖父清康の康という字をもらい家康と改名。今川からの完全な独立。9月、三河一向一揆が勃発し苦戦する
23 1564 永禄7年 三河国統一 2月、一向一揆を平定し、東三河・奥三河を平定し三河国をほぼ統一
25 1566 永禄9年 徳川へ改名 12月、朝廷から従五位下三河守の叙任を受け徳川に改姓。これに伴って、新田氏系統の清和源氏であることも公認
26 1567 永禄10年 遠江侵攻 遠江侵攻
28 1569 永禄12年 今川氏実を掛川城から退去 5月、今川氏実は掛川城を退去し、駿府城の修復完成まで伊豆戸倉城に在城する
29 1570 元亀元年 姉川の戦い参戦 8月9日、浅井氏が織田氏よりも朝倉氏を選んだことによって起きた戦い。徳川連合が浅井・朝倉連合を破る
浜松城
      岡崎から浜松へ 岡崎から遠江国の引間に移り「浜松」と改名、浜松城を建設し浜松城に入る。家康29歳
30 1571 元亀2年 従五位上  
31 1572 元亀3年 一言坂の戦い 二俣城の戦い  無敵の甲州勢2万7千の大軍を率いて甲斐の武田信玄が上洛すべく出兵。信長から遠江を捨て信玄との戦いは避けよという命を受けた。
      三方ヶ原の戦い 12月、浜松城を無視して進撃する武田軍に「武門の意地」と、三方ヶ原の祝田の坂を下る際に背後から攻撃を仕掛けたが、逆に待ち伏せされ武田信玄に大敗する。家康を撃破した信玄は京都へ向かって攻め上がるが途中病で倒れる。信玄の死により武田軍は甲斐へと引き上げる。
32 1573 天正元年 長篠城を攻略 9月、三河長篠城を攻略
33 1574 天正2年 正五位下  
34 1575 天正3年 長篠・設楽原の戦い 5月、長篠城を巡っての戦い。織田・家康連合軍3万8千対武田勝頼1万5千。連合軍が設楽原に空掘を彫り、馬防柵を設け武田軍を破る
      二俣城奪還 長篠の戦いで武田軍を破った勢いで二俣城を奪還
35 1576 天正5年 駿河に侵入 8月、駿河に侵入
36 1577 天正4年 勝頼軍と戦う 8月、勝頼軍と横須賀で戦う
38 1579 天正7年 築山御前殺害
8月、武田家への内通疑惑がかけられた長男・信康と正室・築山御前の処刑を信長に命じられた家康家臣が築山御前を遠州富塚で殺害。信康は二俣城(現浜松市天竜区)で切腹。
      信康切腹
      西郷の局が秀忠出産 側室西郷の局が秀忠(後の2代将軍)を出産
40 1581 天正9年 高天神城奪回 3月、高天神城を攻略し、遠江を平定
41 1582 天正10年 武田勝頼を滅ぼす 織田・徳川連合軍は武田勝頼を攻め滅ぼす。家康は駿河一国を与えられ三河・遠江・駿河三国の主となる
      信長殺害され、苦難の伊賀越え 6月、本能寺の変。信長が明智光秀の謀反で殺害される。家康は服部半蔵の案内で「伊賀越え」で岡崎へ戻り、光秀を討つ準備をするが、秀吉が光秀を討ち後継者争いに勝ち残った
43 1584 天正12年 小牧・長久手の戦い 4月、家康と秀吉による最初で最後の直接対決「小牧長久手の戦い」が始まる。攻めあぐねた秀吉が信雄(のぶかつ)と和議を結んだため、戦う理由がなくなり家康も秀吉と和議を結ぶ。12月、次男の於義丸(秀康)を人質として送る
44 1585 天正13年 豊臣秀吉関白になる 豊臣秀吉が名実ともに天下人となる。家康はどうしても秀吉に従おうとしないため、何度もさまざまな手で攻められる。
      駿府築城に着手 7月、駿府築城に着手する
45 1586 天正14年 駿府城へ 5月、秀吉の妹・旭姫を娶る。後に母親も人質として送られる。10月、大坂城で秀吉と謁見、前夜秀吉から頼まれたように「ご愛用の陣羽織をください」と従う。
駿府城
46 1587 天正15年 従二位権大納言に叙任 8月、従二位権大納言に叙任
47 1588 天正16年 北条氏規に上洛を勧告 7月、北条氏規に上洛を勧告
江戸城
49 1590 天正18年 北条氏を滅ぼす 豊臣秀吉が北条氏の守る小田原城を囲み、家康は豊臣軍の先鋒として攻撃に参加。ついに関東を支配する北条氏が滅びる
      江戸城へ入城 8月、秀吉から北条氏の領地を与えられ江戸城へ入城。新田の開発、町作りに力を注ぐ
50 1591 天正19年 朝廷に黄金10枚献上 2月、朝廷に黄金10枚を献上する
51 1592 文禄元年 肥前名護屋城に出発 3月、朝鮮出兵のため、肥前名護屋城に出発
52 1593 文禄2年 大坂に帰着 8月、名護屋から大坂に帰着
55 1596 慶長元年 正二位内大臣に叙任 5月、正二位内大臣に叙任される
57 1598 慶長3年 五大老、五奉行間で誓書を交換 8月、五大老、五奉行間で誓書を交換。9月、前田利家とともに朝鮮の諸将に徴兵を命じる
      秀吉病に倒れる 9月18日、秀吉に跡継ぎである秀頼のことを頼まれる。すぐに秀吉は亡くなる
58 1599 慶長4年 前田利家没 秀吉の死後、石田三成らの文治派と加藤清正らの武断派と対立。対立を抑えていた前田利家が死に対立は激化する
      石田三成を助ける 石田三成が加藤清正らに追われ京都の家康屋敷に逃げ込んだところ、家康は三成を助け佐和山城へ逃がす
59 1600 慶長5年 会津へ向かう 6月、上杉景勝が豊臣家に謀反を起こすとして出兵。出兵1日目に伏見城に滞在した家康。人質時代からの家臣伏見城代鳥居元忠と今生の別れをし6月18日伏見城から会津へと向かう。7月19日三成がついに挙兵。伏見城は必死の抵抗もあり13日後に落城する
      関ヶ原の戦い 天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」。9月、激しい戦いで一進一退の攻防が続き、小早川秀秋の裏切りで大勢は決し、ついに家康の東軍が石田三成の西軍を破る。西軍は敗走するも三成は捕らえられ処刑された。
60 1601 慶長6年 二条城築城着手 家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課す
62 1603 慶長8年 江戸に幕府を開く 2月、家康は武家の頂点である征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。この年、家康は孫娘の千姫を豊臣秀頼の元に嫁がす。
      二条城完成 現在の二の丸の部分が完成、家康が初めて入城する
64 1605 慶長10年 征夷大将軍を秀忠に譲る 4月、征夷大将軍を秀忠(2代将軍)に譲り、豊臣家に政権を変換する意思がないことを示した。
65 1606 慶長11年 江戸城の大増築を開始 諸大名から石材を運送させ増築を始める。
駿府城
 隠居所
66 1607 慶長12年 駿府にふたたび戻る 2月、家康は駿府を「大御所政治」の拠点と定めて再び戻る。天正期の駿府城を拡張(三の丸)修復し、駿府の町割りや阿部川の治水事業に取り掛かる。現在の静岡市の市街地の原型が造られた。
70 1611 慶長16年 秀頼が二条城へ 3月、京都に上洛した家康は秀頼に二条城まであいさつに来るように要求。淀殿の反対はあったが、加藤清正のすすめで二条城へ来た秀頼と対面
      豊臣家に戦を仕掛ける 大坂城を出ず、淀殿を人質として出さない豊臣家についに戦を仕掛ける。鐘に刻まれた「国家安康」の文字が「家康」を切り裂く呪いの文言といって因縁をつけたことは有名
73 1614 慶長19年 大坂冬の陣 10月、家康が大坂城攻撃を諸大名に命じ大坂冬の陣が始まる。が、さすがに天下一の城、強固な堀は攻撃を阻み、真田幸村の猛攻にもさらされ攻め込むことがなかなかできない。そこで、「大坂城の外堀を埋めたてること」も講和の条件に入れ講和する。
      大坂城の内堀までも埋める 講和の条件は「外堀を埋める」だったが、家康は内堀までもどんどん埋めてしまう
74 1615 慶長20年/元和元年 大坂夏の陣 4月、外堀・内堀までも埋め立てられた大坂城は、徳川方の執拗な攻撃に絶えきれず落城。5月、秀頼と淀殿は自刃し秀吉の死から17年で豊臣家は滅亡した
75 1616 元和2年 享年75で息を引き取る 3月、太政大臣に任じられる。家康は成すべきことはすべて成し遂げた4月17日に鯛の天ぷらにあたって?駿府城で死去。死後、東照大権現の神号を与えられ神となる。享年75歳

 

 

Yes!家康プロジェクト 浜松 特別講演会

 

講演会の壇上には大きなスライドが置かれ、ドラマ館の建設状況も流してくれました

 

中日新聞に掲載された記事では「しっかり生涯描きたい」と題して、浜松市民が注目している三方ヶ原の戦いについて

 

NHKチーフプロデューサーの磯智明さんは、徳川家康が武田信玄と直接対決した三方ヶ原の戦いを物語に組み込む上で「なぜ家康が戦わざるを得なかったのか、どう思ったのかを描きたい」と強調。「この戦いは跡地が残っておらず、映像化するのが難しい。バーチャル表現を取り入れていきたい」と述べた。

引用元:広報浜松

 

とのことで、現在の技術の粋を極めた映像で「三方ヶ原の戦い」がどう描かれ、家康がどうして、京へ向かう信玄は浜松城を素通りするし、織田信長からも戦うな!岡崎に帰れ!といわれていたのに、無視できずについ負け戦に手を出してしまったかを早く見たくて仕方ありません。

 

 

まとめ

 

来年放送の大河ドラマ『どうする家康』をより楽しく見るため戦国時代を必死で勉強中なのですが、何度も登場する「〇〇の戦い」や、類似した戦国武将の名前が多くこんがらがってしまいます。

 

そこで、簡単に学研さんの子供用の本やネットを駆使して、オリジナルの「徳川家康の年表」を作ってみたのでここで発表してしまいました。

 

人はよく「家康は人質生活が長くて苦労が多かったから、辛抱強くなった」「戦(いくさ)や高齢で次々と亡くなっていく武将たちよりも長生きできたから」とか、徳川家康が天下人になれた理由を簡単に言いますが、辛抱強いだけであれほどの戦争を繰り返し経験し、家臣や国の人々のため戦のない平和な国にすることができるでしょうか?

 

徳川家康の年表をかんたんにまとめただけでも、その苦労と忍耐力の凄さだけでなく、大きな理想の形を現実のものとしてしっかりと形にしていく信念を持ち続けていたことに、やはり天下人になるような人は飛び抜けた何かを持って生まれてくるのだと確信しました。

 

戦国時代のマンガや小説やゲーム、ドラマ、映画などが面白いのも、平和ボケしている私達にとって、戦国時代に起きたことが現実離れしていて、経験したことがないことの連続だからではないでしょうか?

 

実際にこの時代に生きていたらきっとしんどいだろうし、1日を生き抜くだけでも血反吐を吐くような日々のはず、だからこそ神になれるほど学ぶもの、身につくものが多いんだろうと察します。が、やっぱり今のような平和な日々の中で、ドラマやマンガ、小説などで楽しむのが楽だし平和です。

 

このような平和な時代に導いてくれた家康くんに感謝です。ってことで、今回はこのへんでおしまい。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。