sannigoのアラ還日記

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車で浜松『家康の散歩道』合戦ルートを回ったら家康のしたことがわかる

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

現在放送中の脚本三谷幸喜で人気の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、源頼朝の最後の時が描かれ、いよいよタイトル通り2代将軍源頼家と13人の家臣が集結しての第2ステージが始まったようで毎週楽しみで仕方ありません。

 

これまで泣き虫で優しかった小四郎が、これからは激化した権力闘争の中で有力御家人を次々と排除していき、やがて鎌倉幕府の第2代執権になるまでの残酷さが描かれるかと思うとドキドキします。

 

ですが、2023年放送予定の『どうする家康』で描かれる若い頃の家康は、居住地浜松で青壮年期の17年間を過ごしていることもあって余計に興味津々です。

 

さらに、「どうする家康」(作:古沢良太)では、主役の徳川家康を嵐のマツジュンこと松本潤が演じることで大きな話題になっているためか、地元では市内の小中学生にドラマ館の入場券をプレゼントする計画もあるほど盛り上がっています。

 

そこで、今回は「どうする家康」にちなみ、徳川家康にゆかりの深い地”浜松”の『家康の散歩道』《合戦ルート》を、アラ還世代の私が楽ちんに回れるように勝手にアレンジして実際に回ってみた《車を利用したルート》を詳しく解説していきます。

 

実際に合戦ルートを回ることで、これまで知らなかった家康のしたことがいろいろわかってくるのでおすすめです。

 

ただ、浜松『家康の散歩道』合戦コースを回る前に、家康のとって最大の敗戦といわれる三方ヶ原の合戦についての説明が欲しいですよね。ってことで、『三方ヶ原の合戦』から始めましょう。

 

野面積みがはっきりとわかる浜松城のようす

 

 

 

『三方ヶ原の合戦』

 

家康の生涯最大の敗戦とも言えるのが元亀三年(1572年)の三方ヶ原の合戦で、当時家康は31歳です。

 

南下してきた武田軍2万7千に対するのは徳川1万2千。天下に名のとどろく武田騎馬軍団に多勢に無勢。無惨に敗走することになります。

 

この時多くの部下を失い、命からがら逃げかえってきた家康は、その憔悴した姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れぬようにしたといわれています。その像が正式名「徳川家康三方ヶ原戦没画像」といい、通称はその形相から「顰(しかみ)像」と呼ばれています。

 

現在は名古屋市の徳川美術館に所蔵されています。

 

ただし、このしかみ像は2016年3月「三方ヶ原の合戦後の姿」を否定する以下の文章が徳川美術館の紀要(研究論文集)に掲載されました。

 

「三方ヶ原の合戦後の姿」を否定する文章

・もともと尾張にあったものではなく、1780年に紀州徳川家から嫁いできた姫が持ってきたもの

・18世紀には「家康の絵」としてしか認識されていなくて明治以降は「長谷合戦の絵」とされていた

・昭和11年の新聞記事で徳川美術館の創設者の徳川義親が初めて「三方ヶ原敗戦の絵」とした

 

これらの理由から、この絵は「三方ヶ原敗戦後の姿」という従来の見識は、昭和11年以前の史料的根拠がなく、昭和11年以降に作られた逸話という可能性があるとのことで現在は展示されていないようです。

 

が、この画像を基にして制作された石像が岡崎公園にありますし、また、徳川家康公顕彰400年記念事業の一環として、徳川家康が生涯「戒め」のため座右から離さなかったといわれるこのしかみ像を、時代考証や装束や装飾の細部にわたって忠実に立体復元した等身大の作品が、今回の『家康の散歩道』合戦コースに登場する「浜松市博物館」に展示されているので間近で見ることができます。

 

そのしかみ像のレプリカを見れるだけでも、今回の合戦コースで蜆塚公園と隣接した「浜松市博物館」を訪れる価値があるのでは?と思うのは私だけではないのでは?

 

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ところで、徳川家康というと戦国武将としての人気は、常連上位の織田信長や上杉謙信、伊達政宗、真田幸村などと比べると少し足りないのかもしれません。

 

徳川家康とは言わずと知れた「約260年間戦争のない時代を作った人」です。有名な狂句「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」を詠んだと伝えられるほど忍耐力の強い人。

 

織田家や今川家の人質生活が長かったおかげで培われた忍耐力は抜群で、この忍耐力によって戦国の乱世を生き抜き、のちに天下統一を果たしたといわれています。

 

一方では、短気で戦いの場でイライラすると愛用の軍配(ぐんぱい)を噛む癖があり、軍配は歯型でいっぱいだったとも。

 

主食の麦飯、焼き魚や野菜の煮物、納豆などの食べ物を見ても、「健康志向」が強く「倹約家」というイメージもあり、薬草にもくわしく自ら生薬を調合していたり、戦場では石鹸を怪我を負った家来に使って感染症を防いたそうです。

 

それなのに人気がない理由は、徳川家康ってどんな人かがいまひとつ知られていないからってこともあるのでは?ってことで、徳川家康が竹千代と呼ばれる幼少期から徳川家康になるまでを追記しておきます。

 

 

徳川家康が竹千代と呼ばれる幼少期から徳川家康になるまで

 

天文11年(1542年)岡崎城内で城主だった松平広忠の嫡子として生まれた家康。天文16年(1547年)竹千代(幼名)6歳の頃、今川家の人質に出されます。しかし、同行していた家臣の裏切りに合い織田家の人質になります。

 

天文18年(1549年)3月、家康が織田家の捕虜となっている間に父は家臣に殺害され、岡崎城を接収した今川義元によって織田信秀の子息・織田信広と人質交換され、再び今川家に戻る家康。

 

天文24年(1555年)、14歳になった家康は今川義元のもとで元服し幼名の竹千代から「松平次郎三郎元信(元信)」という名になり、さらに今川義元の姪にあたるとされる瀬名姫(のちの築山御前)と結婚し、「元康」に改名しています。

 

松平家は今川家の一門とされ、今川家は織田家とは対立関係にあったのですが、家康は徐々に織田信長と同盟関係となって勢力を拡大していくことになります。

 

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、家康(当時は松平元康)は、尾張の今川方の大高城を出て三河国岡崎の大樹寺に駐屯、その後も今川方として織田家と抗争を続けます。

 

が、桶狭間の戦い翌年には今川家を見限り、織田信長と同盟を結び、永禄6年(1563年)には家康の長男信康と織田信長の長女徳姫と婚約、その年には松平元康から家康に改名します。

 

そして、永禄9年(1566年)には三河国を平定し朝廷より「徳川」への改正勅許を受け「徳川家康」となります。

 

では、いよいよ徳川家康にゆかりの深い地”浜松”の『家康の散歩道』《合戦ルート》を始めていきます。

 

徳川家康にゆかりの深い地”浜松”の『家康の散歩道』《合戦ルート》

 

スタートは犀ヶ崖資料館の駐車場から始めましょう。

 

  ↓ ①まですぐ

 

①『犀ヶ崖古戦場』

 

鬱蒼とした深さ15mほどの崖が残されているが実際は40mほどの深い崖だった

 

☑場所は中区鹿谷町25 浜松城の北側約1kmにある断がい

武田信玄に一矢報いた古戦場跡

 

犀ヶ崖古戦場には、徳川家康が犀ヶ崖の急襲で戦士した武田軍の兵士を供養するため始めた「遠州大念仏」の史料を展示している『犀ヶ崖資料館』もあり、駐車できるスペースもあります。

 

犀ヶ崖資料館では、「三方ヶ原の戦い」「遠州大念仏」についての理解を深め、郷土に伝わる文化遺産を後世に残していくことを目的としているということで、徳川家康、三方ヶ原の戦い、遠州大念仏をわかりやすく解説したビデオやジオラマ、遠州大念仏で使われる太鼓などの展示物が用意されています。

 

ボランティアのガイドさんが常駐してくれているのか、私が出かけた日もビデオをかけてくれたり、八幡宮の大楠の洞、小豆餅や銭取の地名の由来、しかみ像の疑惑?などについてフレンドリーにお話してくれました。

 

犀ヶ崖とは、浜松城の北1キロ、三方原台地がき裂、陥没してできた長さ2キロ、深さ40メートル、幅50メートルの断崖のことです。現在も、将兵のうめき声が聞こえそうなほの暗い犀ヶ崖はその姿を残しています。

 

崖をのぞいてみるとあまり深さを感じないかもしれませんが、現在は15mほどの深さで保存されているためで、実際はその約3倍の深さだと思ってのぞいてみましょう。

 

元亀元年の三方ヶ原の合戦の時、数に勝る武田軍に徳川軍は総崩れになり、家康はなんとか浜松城に逃げ帰ることができました。

 

一方の武田軍は追撃をやめ、犀ヶ崖付近で陣を張りました。徳川軍は反撃に出るため”迫る武田軍を、この崖に白い布を張り「橋」がかかっているように見せかけ、夜になったころ、家康の部下「大久保忠世、天野康景)が、一矢報いようと鉄砲手16名を主に百余名ほどを編成し武田郡陣営の背後から鉄砲を打ち込み、武田軍を人馬もろとも谷底に落とす”という一計を案じます。この計画が見事に成功し、武田軍に大損害を与えたのがこの「犀ヶ崖」になります。

 

この土地に詳しくない武田勢は、思いがけない夜襲に慌て多数の戦死者を出し、崖下には人馬が山と積まれたそうです。

 

この付近を「布橋」というのは、このようにこの崖に布の橋を架し武田軍をみちびいたからだと伝えられています。

 

【布橋という地名の由来】

 

家康軍が武田軍に一矢報いるため、こっそりと深い崖の谷間に「橋」があると思わせるためにとても長い白布を張りました。

 

夜襲に慌てた武田軍がその白布を徳川軍の思惑通り「橋」と見間違えて突き進んだため、何人もの兵士が崖下に落ちたといわれます。

 

その逸話が「布橋」という地名の由来になったという言い伝えがあります。


【犀ヶ崖資料館】

 

犀ヶ崖の戦いのあと、転落死した将兵のうめき声が谷底から聞こえて、人々を苦しめました。戦死した武田の霊を慰めるため、2年後の天正2年(1574年)家康が宗円という僧を招き大念仏をあげたところ、その声がやんだといわれています。

 

犀ヶ崖資料館は、その宗円が庵したところと伝えられる旧宗円堂を、資料館として整備し遠州大念仏及び三方原合戦に関する資料を展示しています。

 

【遠州大念仏】

 

遠州地方の盆の独特な伝統行事で浜松市の無形民族文化財「遠州大念仏」が、2022年7月13日に3年ぶりに市内各地で催され、太鼓や笛などに合わせて念仏踊りが繰り広げられました。

 

遊行僧らが伝えた中世の踊り念仏が基になっている「遠州大念仏」は、三方ヶ原の合戦の戦死者を供養するため徳川家康が始めたという伝説が広く知られ、450年の歴史ある文化です。

 

中日新聞によると、江戸時代の最盛期には、県内約280の村々で行われていたと伝わります。が、現在保存会には浜松、磐田、袋井の3市68組が所属しているのに、2021年以降、2割以上に当たる16組が活動を休止しているとか。

 

コロナ禍によってここ2年間はほとんど活動できず、今年も開催したのは7割ほど。少子化に伴う手不足と冠婚葬祭の簡素化の影響で、保存会では休止がさらに増えることを懸念しているといいます。

 

今年の13日に浜松市浜北区の心宝寺を訪問したのは小林上組の約30人。

 

6月から練習を始め、三度がさや「心」の一文字が入った浴衣や法被、たすきなどの衣装に身を包み約1時間哀愁を帯びたリズムに乗り躍動感ある舞を披露したそうで、組では13、14の両日で7軒の家をめぐったようです。

 

ただ、残念ながら毎年15日に犀ヶ崖資料館でおこなわれる奉納念仏は、今年も中止されました。が、10月には2年延期となっている保存会の記念大会は、開催を予定しているそうです。

 

  ↓ ②まで約20m(徒歩約1分)

 

②『本多肥後守忠真(ほんだひごのかみただざね)の碑

 

犀ヶ崖資料館の敷地内の東にある本多肥後守忠真の戦功の碑

 

☑場所は中区鹿谷町25-10 犀ヶ崖資料館の敷地内東側

三方ヶ原の合戦で、殿(しんがり)をつとめ討ち死にした英雄本多忠真の碑。

 

犀ヶ崖資料館の敷地内の東に、本多肥後守忠真の戦功の碑があります。後に「徳川四天王」の1人として名高い本多忠勝は、忠真の甥にあたる人物です。

 

武田家との戦いで敗戦が濃厚になった際、忠真は主君家康公の命を守るため、自ら殿(しんがり)を申し出て、武田軍の猛攻撃を食い止め、徳川本陣の後退を守りきりましたが、刀一本で敵中に斬り込み討ち死にしたといわれています。

 

碑文の題字は16代家達公によるもので、石碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたことや本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。

 

★2023年放送予定の大河ドラマ「どうする家康」では、本多忠真をあの犯人役が似合う役者波岡一喜さんが演じます★

 

  ↓ ③まで約50m(徒歩約1分)

 

③『夏目次郎左衛門吉信の碑』

 

家康の身代わりとして武田軍の前に立ちふさがり討死した夏目次郎左衛門吉信の碑

 

☑場所は中区布橋2丁目 犀ヶ崖古戦場の一角、道路脇に石碑が建てられている

家康公の身代わりとなった勇敢な家臣の碑

 

夏目次郎左衛門吉信は、1563年(永禄6年)の三河一向一揆のときに捕らえられ、処刑されるところを家康の寛大な処置によって助けられました。

 

以来この恩義を忘れることがなかった吉信は、三方ヶ原の合戦の際敗走中の主君家康の身代わりとして武田軍の前に立ちふさがり討ち死にしたといわれています。

 

★2023年放送予定の大河ドラマ「どうする家康」では、夏目吉信を甲本雅裕さんが演じます★

 

  ↓ ④まで約1.2km(車で約3分・徒歩約15分)

 

④『普済寺(ふさいじ)』

 

☑場所は中区広沢1丁目2-1 

三方ヶ原の戦いでは徳川家康のよって焼かれた寺

 

普済寺は遠州における曹洞宗の古刹。天竜川以西の曹洞宗寺院は普済寺の流れをくんでいるものが多いそうです。

 

当初は現在の中区寺島町付近にありましたが、現在の場所へ移転し、広沢山普済寺と山寺号を改めました。古くから由緒ある寺として徳川氏の保護をうけ、家康も客殿を寄進しました。

 

三方ヶ原の戦い当時、浜松城が炎上したかのように見せかけるため、戦略上家康の命令で、火が放たれ伽藍が炎上、その後天正10年(1582)に七堂伽藍が再建されました。

 

が、明治30年(1897)火災にあい、その建物も昭和20年(1945)戦災を被り、その後昭和39年(1964)に再建されています。

 

江戸時代初期に建立されたといわれる山門、また旗本気賀近藤氏の陣屋門を移築した参道入口の総門、境内にある江戸中期建立の石橋などは見ごたえがあります。

 

再来院や宗源院は末寺にあたります。ちなみに、日本3大稲荷の愛知県豊川市の「豊川稲荷」も、浜松市普済寺の末寺になります。

※日本3大稲荷は、伏見稲荷大社(京都市)、祐徳稲荷神社(佐賀県)、そして豊川稲荷(愛知県)の3社。

 

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  ↓ ⑤まで約370m(車で約1分・徒歩約5分)

 

⑤『西来院(せいらいいん)』

 

38歳で生涯を閉じた戦国時代の悲劇の女性、家康公の正室築山御前が眠る西来院

 

☑場所は中区広沢2丁目10-1 閑静な住宅地の一角、藤の名所として知られる。

38歳で生涯を閉じた戦国時代の悲劇の女性、家康公の正室築山御前が眠る寺

 

家康公の正室・築山御前の霊廟月窟廟がおかれている

 

正長元年(1428年)に開山し、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を本尊とする西来院には、謀反の疑いから佐鳴湖畔で38歳の若さで生涯を閉じることになった家康公の正室・築山御前の霊廟月窟廟(げっくつびょう)がおかれています。

 

その近くには、家康公の異父弟の松平源三郎康俊の他、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓もあります。

 

緑豊かな本堂前庭には藤棚もあり、毎年4月中旬〜4月下旬には美しく咲き誇り、訪れる人々の目を楽しませています。

 

三河の岡崎城主、松平氏の嫡男として生まれた家康は、子供の頃、父の松平広忠が庇護を受けていた今川氏に人質に出されていました。

 

駿府城の今川義元のもとで元服し、義元の姪(義元の義妹と一族の有力な家臣・関口親永との間に生まれた)の築山殿(瀬名姫)と結婚し、長男「信康」と長女「亀姫」をもうけます。

 

永禄3年(1560年)織田信長が義元を奇襲し討ち取った桶狭間の戦いの際、家康は軍の先鋒をつとめていましたが生還し、これを機に岡崎城に帰り城主となり武将として独立しました。

 

永禄5年(1562年)尾張の織田信長と同盟を結ぶと、永禄10年(1567年)長男の信康は信長の娘、徳姫と結婚。信長という後ろ盾を得て、家康は遠江に侵攻して今川氏を駆遂し、浜松城に戻ります。

 

このとき、岡崎城の城代となった跡取りの信康とともに、築山殿は岡崎城に残りました。そして、悲劇が起きたのが天正7年(1579年)。

 

織田信長が、家康に「築山殿と信康が武田氏に内通している」として激怒、築山殿と信康2人の処刑を要求。家康はこれに従ったのです。

 

そのいきさつには諸説ありますが、徳姫が「姑と夫が武田に通じている」などと訴えた12ヶ条の訴状を父の信長に送り、信長が激昂したといわれています。

 

信長と家康は同盟関係でしたが、武田信玄亡きあと、破竹の勢いで天下統一しつつあった信長とは、実質的には主従関係にあった家康。

 

信長に逆らえば自身の破滅は目に見えていたことでしょう。家康にとっては苦渋の決断だったといえます。

 

築山殿は、井伊家の血筋を引いていました。今川方に嫁いだ井伊直平(直虎の曾祖父)の娘が、築山殿の実母巴といわれています。

 

★2017年放送の柴咲コウさん主演の大河ドラマ「おんな城主直虎」では、夫をやり込める築山殿を菜々緒さんが演じました★

★2023年放送予定の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の正妻築山殿を有村架純さんが演じる予定です★

 

  ↓ ⑥まで約400m(車で約2分、徒歩約5分)

 

⑥『宗源院(そうげんいん)』


☑場所は中区蜆塚1丁目20-1 山門の階段があります

徳川家ゆかりの武将が眠る古刹

 

宗源院は普済寺十三派のうちに数えられる在天派に属する歴史の古い曹洞宗の寺院で、家康が岡崎城から浜松城に入った際には、寺の東南一帯に的場を設けて弓の稽古に励んだといわれています。

 

室町後期には今川義元の庇護を受け、義元自身が開基としての役割を果たし再建を行っています。そうした関係を裏付ける資料として、この宗源院には浜松市の文化財に指定されている今川義元とその子である氏真の「今川公判物」も保管されているそうです。

 

また、三方ヶ原の戦いの際に、旗奉行として家康本陣を守り武田軍と戦い奮戦したのですが、武田氏の武将馬場信春隊の突入を防ぐために、後事を弟の成瀬正一に託し、家康の身代わりとして討ち死にした徳川家の武将成瀬正義の五重塔が墓苑にあります。

 

境内には成瀬正義や三方ヶ原の合戦で旗手として討ち死にした外山小作、遠藤右近など徳川方の武将のお墓もあり、浜松城主松平伊豆守信祝が娘の多世姫のために建てたという墓もあります。


  ↓ ⑦まで約1.6km(車で約8分、徒歩約20分)

 

⑦『浜松市博物館』

 

時代考証や装束や装飾の細部にわたって忠実に立体復元した等身大の「しかみ像」が展示されている浜松市博物館

 

夏はセミが鳴き放題で自然がいっぱいの蜆塚公園内にある縄文時代の住居

 

☑場所は中区蜆塚4丁目22-1 
観覧料は有料で大人310円・高校生150円
※中学生以下の子どもは無料、70歳以上の方と各種障がい者手帳をお持ちの方と介添人1名は無料

浜松の歴史を伝える博物館で家康に関する史料も多くあります。

 

浜松市博物館は、昭和33年(1958年)浜松城天守閣内に浜松市立郷土博物館として開館、その後昭和54年(1979年)に現在地に移転し浜松市博物館と改称されました。

 

常時展示として、浜松の原始から近代までの数万年に及ぶ歴史が紹介されています。

 

入館してすぐに見られるナウマンゾウの骨格標本がでっかくて驚くかもしれませんが、これは約50万年前から1万5千年前まで中国北部や日本列島に生息していたナウマンゾウの骨が浜松でも発見されているからだそうです。

 

展示室内では懐かしい映像が流れていて、昭和30年代頃なのかしら?市民にとっては「こうだったね、ああだったね」と、うなずきながら楽しめる映像がてんこ盛りで、ついつい時間を忘れて見続けてしまいます。

 

忘れてはいけないのが、時代考証や装束や装飾の細部にわたって忠実に立体復元した等身大の「しかみ像」が展示されていること。

 

現在、ちょっとした話題でもある「そのしかみ像は三方ヶ原の戦いで敗戦したあと書かせたんじゃないみたいよ。もっとあとに書かれたみたいよ」なんていうことで、注目を浴びている「しかみ像」ですが、実際にご覧になってみてください。

 

私見ですが、確かに三方ヶ原の合戦当時31歳の青年だったことを考えると「老けている」という印象を持ってしまいましたが。いかがでしょう?

 

さらに、徳川家康公関連で代表的な資料として、「徳川十六将図(徳川四天王)」や「家康直筆の書状」なども見られます。

 

さらに、当時の「浜松城ジオラマ模型」では、浜松が「東海道の宿場町(城下町)」として栄えていた当時の様子を見ることができ、地元民なら当時から受け継がれているいくつかの地名を見つけて当時の風景を想像しながら現在と比べて楽しむこともできます。

 

今年は三方ヶ原の戦いから450年の年になるのを記念して、10月には特別展「三方ヶ原の戦いと家康伝承」も開催予定で盛り上がっているようです。

 

【蜆塚公園】

 

浜松市博物館(はまはく)のすぐ横には入場自由な蜆塚公園があります。

浜松市蜆塚公園は、国指定史跡蜆塚遺跡を中心とする公園で、自由に入園できる年中お散歩できるし、夏休みは蝉取り好きなお子様のパラダイスです。

 

蜆塚遺跡は、縄文時代後・晩期(約4,000~3,000年前)のムラの跡です。中央の広場を囲んで住居跡や墓地が並び貝塚も4ヶ所で見つかったそうです。

 

その貝塚の一つは発掘当時のまま保存され、今もガラス越しに貝殻の堆積やその間にはさまれている動物の骨や遺物を観察できます。

 

また、当時の姿を想像して建てられた復元家屋もあります。

 

西の一角には、浜松市西武の村櫛町から移築された江戸時代の民家「旧高山家住宅」もあり、昭和の農家生まれで大黒柱が太く藁葺き屋根で、ハリがしっかりと天井に見えるような築後100年くらいの家で育った私は、なんだか懐かしい気持ちで土間やかまどを見ることができました。

 

  ↓ ⑧まで約600m(車で約6分、徒歩約8分)

 

⑧『太刀洗いの池』


☑中区佐鳴台5丁目6-1 野中重政が刀を洗ったといわれる池があったのは浜松医療センターが建つあたり。浜松医療センター前に史跡碑(太刀洗の池跡)と説明板あり。

家康公の正室・築山御前を切った太刀を洗った伝説の池

 

徳川家康の正室・築山御前(つきやまごぜんー瀬名姫)は、長男松平信康の正室である徳姫(織田信長の娘)が信長に送った築山御前と信康の罪を訴える十二ヶ条の訴状(家康公の正室・築山御前と家康の長男・信康が敵方武田と内通した疑いがあるという内容)により、激怒した信長の命令で、家康公が2人の処刑を家臣に命じこの地で果てたといわれています。

 

岡崎城から浜松城に向かうため佐鳴湖を船で渡った築山御前が、小籔村の佐鳴湖畔で待ち伏せていた家康公の家臣・野中重政により命を奪われたのは、天正7年(1579年)8月29日。往時には史跡碑の南側に池があったのだとか。

 

築山御前は当時38歳、あまりにも短い生涯を閉じました。今では、その刀の地を洗ったのが「大刀洗の池」、亡くなった場所は「富塚御前谷」と呼ばれています。

 

築山御前と家康の間に生まれた長男信康も、9月15日に二俣城(現浜松市天竜区)にて自刃(切腹)しました。享年21歳。

 

築山御前の遺骸は浜松広沢の西来院に葬られたほか、愛知県岡崎市の八柱神社に築山御前首塚があるそうです。

 

築山御前は今川家の一門の関口義広と今川義元の妹の間に生まれ、本名は瀬名。今川家の人質だった松平元信(徳川家康)と義元の命により結婚をし、長男信康を出産します。

 

後に信康と織田信長の長女・徳姫が結婚しますが、徳姫が信長に「武田家と築山御前の内通の疑」を訴えたことにより信長は激怒し、信康と築山御前の処罰を家康公に命じたとされます。

 

実際のところ、築山御前と松平信義が武田に内通していたとは考えづらいことから、冤罪だったのではと言われています。

 

なぜ?徳姫が信長に訴状を送ったのかは諸説あります。徳姫と築山御前の不仲、あるいは家康と信義の不仲、はたまた酒井忠次と信康の不仲などいろんな説があるのですが、真相ははっきりとはわからないようです。

 

  ↓ GOAL!!

 

参照元:家康の散歩道|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松|公式/浜松・浜名湖観光情報サイト~浜松だいすきネット~

 

 

いかがでしたでしょうか?車での移動が功を奏したのか?逆に散歩道なのに全然歩けてないじゃん!と思われるかはいろいろですが、けっきょく3,392歩、消費カロリー1,505Calでまわることができ、浜松が家康公ゆかりの地といわれる所以をいろいろ知ることができ、「世は満足である」でございます。

 

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放送開始が待ち遠しい大河ドラマ『どうする家康』、キャストが次々発表されています。

 

 

『どうする家康』キャスト発表されてます

 

2023年放送予定の大河ドラマ「どうする家康」作:古沢良太では、主役の徳川家康を嵐のマツジュンこと松本潤が演じることが大きな話題です。が、重要な役どころを演じるキャストも気になるところ。ここにすでに発表されたキャストも載せておきます。

 

家康の正室で謀反の疑いから佐鳴湖畔で38歳の若さで生涯を閉じる悲劇の女性「築山殿」を演じるのは、大河ドラマ初出演の有村架純だそうです。

 

「ただ勝つ」と名付けられた一番の武闘派本多忠勝を山田裕貴、二代将軍秀忠の母:於愛の方を広瀬アリス、服部半蔵を山田孝之

 

さらに、家康が同盟を結んだ常人はずれの織田信長をジャニーズの先輩岡田准一、信長の妹お市を北川景子、今川義元を野村萬斎、家康が一番苦手とするタイプの豊臣秀吉をムロツヨシ、戦国最強のレジェンド「心頭滅却すれば火もまた涼し」の武田信玄を阿部寛が演じることが発表されています。

 

家臣団のまとめ役で家康の叔父酒井忠次は大森南朋、文武に優れた若き武将に杉野遥亮、井伊家の御曹司井伊直政を板垣李光人、生涯家康を守り続ける鳥居元忠を音尾琢真、戦場で勇猛果敢な活躍をする大久保忠世を小手伸也、幼少から家康に付きそう平岩親吉を岡部大、古参の石川数正を松重豊などの出演者も続々発表され、只今期待値マックスな状態です。

 

まとめ


今回、犀ヶ崖から始まる浜松の家康公ゆかりの地を車でめぐるオリジナルの《合戦コース》でしたが、暑い7月中旬に回ったこともあり熱中症が心配なため体調最優先にしました(笑)

 

家康公が浜松で過ごした中で起きた生涯最大の敗戦は、「三方ヶ原の戦い」というのが定説です。

 

『普済寺(ふさいじ)』は、三方ヶ原の戦い当時、浜松城が炎上したかのように見せかけるため、戦略上家康の命令で火が放たれ伽藍が炎上したお寺です。

 

「遠州大念仏」は、犀ヶ崖の戦いにおける戦死者のうめき声を慰めるために、家康公が始めたという伝説があり、その資料や実際に「遠州大念仏」で使われる太鼓なども『犀ヶ崖資料館』には展示されています。

 

”布橋”という地名に残されるのは、「三方ヶ原の合戦」の反撃に出るため迫る武田軍に”崖に白い布を張り「橋」がかかっているように見せかけ、背後から鉄砲を打ち込み人馬もろとも谷底に落とす”という残酷な戦法。

 

幼い頃から人質として過ごしてきた家康は実は人情に厚く、「徳川四天王」をはじめとする家臣たちに愛され、尽くされ、護られたことで「江戸幕府」の礎を築いたことがわかるのが『夏目次郎左衛門吉信の碑』『本多肥後守忠真の碑』に『宗源院』。

 

さらに、家康公が命令して処罰された正室の築山御前が眠る『西来院』で霊廟月窟廟をお参りし、『太刀洗いの池』でその不幸を思うと、家康公にとってもどんなにか辛いことだっただろうかと察することができます。

 

それでも、家康が2人の処罰を決心したことには、戦国時代ゆえの理由がどれほどあったのかと考えさせられます。

 

『浜松市博物館』では、家康公の「しかみ像」のレプリカをじっくりご覧になれます。

 

レプリカにあふれる家康公の憔悴ぶりを見る限り、「三方ヶ原の戦い」での大敗に身も心もボロボロな状態に見えます。が、書かれた時期が不明な今は、「辛い人質時代を経て世界で唯一約260年間戦争のない時代を作った人」だって、こんなにつらそうな姿を晒しボロボロになることもあるのか!?と。

 

どんなに偉い人・成功した人でも、そこにたどり着くまでにはたくさんの失敗を繰り返し苦しみ嘆き悲しみ、それでも立ち上がっているんだと実感できます。

 

車で少しばかり地元の家安公ゆかりの地を回っただけでも、家康にとって生涯最大の敗戦『三方ヶ原の合戦』が、どれだけ家康公の学びとなり、いかにその後の戦乱がなくなり人々が平和に暮らし、文化もたくさん生まれ、日本にとって歴史上一番平和な時代ともいえる江戸時代の礎となったかを感じることができ、家康公のしたことが少しわかります。

 

今回、車で回った浜松『家康の散歩道』合戦ルートは、徳川家康のしたことがどれだけすごいことかを知ることができる『安・近・短コース』ではないでしょうか?

 

お時間があるときにでも、一度おでかけしてみてはいかがでしょう。ってことで、今回はこのへんでおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。