sannigoのアラ還日記

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家康公が浜松城にいた頃に弓の稽古に励んだという『宗源院』は今川義元と関係が深い

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の徳川家康ゆかりのお寺は、38歳で生涯を閉じた築山御前が眠る『西来院』から歩いて約5分と近い『宗源院』です。こちら『宗源院』の東南一帯にある的場で、浜松城にいた頃の家康公は弓の稽古に励んだといいます。

 

たぬきおやじと称されることが多い家康公ですが、実は「海道一の弓取り」(東海道一の優れた武士)と呼ばれ、毎日弓を引くことを死ぬまで続け、鉄砲の腕と同様に、射芸も優秀だったと伝わります。きっと、こちらでの弓の稽古にも熱が入っていたことでしょう。

 

『宗源院』は普済寺13派のうちに数えられる歴史の古い寺院で、境内には三方ヶ原の戦いの際に奮戦し討死した成瀬正義や外山小作、遠藤右近など徳川方の武将のお墓があります。また、今川義元ら直筆の市指定文化財『今川公判物』も保管されているそうです。

 

歴史の古い『宝蔵山宗源院』本堂

 

 

『宗源院(そうげんいん)』

 

『宗源院』の東南一帯には的場があたそうで、徳川家康が岡崎城から浜松城に入った際には、山門前に的場を構築し、弓の稽古に励んだといわれます。また、浜松市指定文化財指定の寺宝今川義元と今川氏真の判物(安堵状)でも有名です。

 

 

場所:中区蜆塚1丁目20-1

 

《アクセス》


バス・電車:JR浜松駅から遠鉄バス[広沢 医療センター]行き[広沢小学校]バス停下車、徒歩約5分

      遠鉄電車[遠州病院駅]から約23分

車:東名高速道路[浜松西IC]から20分

  東名高速道路[浜松IC]から約30分

駐車場:あります ※車で行くと入口はどこだ?駐車場は?と迷いますが、山門前の道を右奥に入っていくと数台分の駐車場があります。

拝観:自由

御朱印:いただけます

 

宗源院は宝蔵山(ほうぞうざん)と号する曹洞宗のお寺で、築山御前の廟がある西来院の直ぐ側にあり徒歩約5分くらいで到着します。

 

宗源院前の案内板と、境内にある宗源院の沿革が書かれた案内板

 

宝蔵山宗源院の創建は古く、1416年(応永23年)15世紀に華蔵義曇(けぞうぎどん)禅師の弟子にあたる在天弘雲和尚が開山したのが始まりとされ、開基は吉良氏です。普済寺十三派の在天派に属し、ご本尊は虚空蔵菩薩、釈迦牟尼佛、普賢菩薩の三尊です。

 

当初は大鱸山宗源院と称し、浜松荘の領主吉良家と関係が深く、境内も出城としての機能を備えていたとされます。

 

室町時代に入ると駿河守護職の今川家が庇護し、特に今川義元は自らが開基となり七堂伽藍を寄進し境内を整備、1556年(弘治2年)には寺領300石を与えています。住職は3万石の格式で待遇され、登城の際は駕籠に乗籠する特権が与えられていたそうです。

 

そうした今川家との関係を裏付ける資料として、この寺には浜松市の文化財に指定されている今川義元とその子である氏真の判物が残されています。

 

また、1572年(元亀3年)の三方原の戦いにあたって兵火に遭い、さらに、江戸時代中期に講堂を失いました。明治に至っては失火で全焼するなどあって、現本堂の再建は大正13年になります。

 

今川家の人質として過ごした時期が長い徳川家康公のことを今でも、「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」と詠んだ俳句通りに「我慢強い」だとか「苦労して」とか言われます。

 

ところが、人質という言葉通りの暮らし方をしていたわけではないことは、家康幼少期の「石合戦」や「鷹狩り」の自由奔放にのびのびと過ごしていると思われるエピソードからも、ナイーブというよりわんぱくなイメージからも想像できます。

 

家康公にとっての今川義元は「育ての親」ともいうべき存在で、自由に過ごすことができた駿府時代、興津の清見寺を訪ねることも多く、住職だった太原雪斎(今川義元の軍師だった)から学んだ術が家康の人生に大きく影響したことはあまりにもよく知られています。

 

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では、さっそく『山門』から参道を進み『宗源院』をお参りしていきましょう。

 

山門・参道

 

山門と参道

 

住宅街にあるお寺さんとは思えないほど、緑が多くのんびりとした雰囲気に包まれています。新緑の香りに包まれながら参道の石段を進めます。登りきるとそこが『宗源院』の境内です。右手には『お稲荷さん』に続いて、立派な『鐘楼』があります。

 

鐘楼・梵鐘

 

立派な鐘楼と、迫力ある大きな梵鐘です。

 

本堂

 

『宗源院』の立派な本堂と、由緒がありそうな扁額

 

本堂手前には摩尼車(まにぐるま)があったので、お賽銭を入れてぐるりと1回転させました。1回転させることで「お経を1巻読んだと同じ功徳が得られる」とのことでした。

 

本堂の左側には『不動堂』があり、続いて「家康の散歩道」の案内板があります。

 

不動堂

 

『不動堂』から左手へ回ると武将たちのお墓への案内板があります

 

『不動堂』をお参りしてから、横の「家康の散歩道」の案内板通りに狭い場所を通り抜け、成瀬正義や外山小作、遠藤右近など徳川方の武将の墓所へと向かいます。

 

本堂左手奥の境内の墓標

 

案内どおりに進むと墓地に出ます

 

《成瀬正義のお墓》

 

左が成瀬藤蔵正義のお墓

 

境内には三方原の戦いの際、旗奉行として徳川家康の身代わりとなって戦死した成瀬藤蔵正義の墓標があります。

 

成瀬藤蔵正義は1535年(天文4年)正頼の長男として生まれます。元亀3年の『三方ヶ原の戦い』の際には、家康本陣の守護を担い、武田方の馬場信春隊が家康本陣に突入した際に、家康公の身代わりとなり交戦し討死にしたとされます。

 

正義ら忠臣たちの多くの討死により、家康公は浜松城まで逃げ帰る時間を稼ぐことができ、命からがら逃げ帰ることができたといえます。また、正義が戦死した場所は現在も『成瀬谷』と呼ばれています。

 

《外山小作・遠藤右近・千代子夫人のお墓》

 

左が遠藤右近、外山小作のお墓、右が小笠原源太夫の千代子夫人のお墓

 

三方原の戦いの際に徳川勢の旗手をつとめ、撤退戦の最中に討死にした外山小作正重、同じく三方原の戦いで討死にした遠藤右近、浜松城奉行職の小笠原源太夫の千代子夫人などの墓碑が建立されています。

 

《多世姫のお墓》

 

多世姫のお墓

 

また、浜松城主 松平伊豆守信祝の代に、三方原の戦い当時陣中で亡くなった一族の娘・多世姫(享年18歳)のために建てたというお墓もあります。

 

このお墓には、1731年(享保16年)1月8日と刻まれています。前年12月6日に亡くなった信祝の姫の墓が天神町北野山竜梅寺にあることから、信祝は愛娘の死から数代前の薄幸の姫の怨霊を感じ、供養をしたのではないかと推測されています。(浜松の史跡より)

 

武田方を欺いて救った忠節から、家康が一堂を献じ、堂宇をおいて供養させたといわれます。

 

このように今川義元と関係の深いこのお寺で、弓の稽古をしたり、人生において最大の敗戦といわれ多くの家臣を失った「三方原の戦い」での戦死者の墓所としたりと、今川家と家康の関係は決して悪くはなかったことも伺えます。

 

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最後に

 

今回訪ねた『宗源院』、あじさいの季節でもあり、新緑の香りに包まれながら、しっとりとした境内を、それほど強くない日差しの中でお参りできたのは何よりでした。

 

当然ながら、こちらの『宗源院』をお参りしたあとは5分ほど歩き、築山御前のお墓がある『西来院』で寂しそうに佇んでいる「月窟廟」をお参りして、さらに約5分ほど歩き三方ヶ原の戦いで兵火にあったという『普済寺』も訪ねています。

 

不思議なことに、この3つの寺院は、浜松城から西に一直線に並んでいますし、約400mほど間隔を空けて存在しています。何かしらの意味を探りたくなってしまいます。

 

「築山事件」、または「信康事件」と呼ばれる、徳川家康の命により、築山御前は38歳の若さで、佐鳴湖畔で家康公の家臣により殺害され、嫡男であったであろう信康は21歳で、二俣城で自刃(切腹)した歴史に残る悲劇。

 

これまでは、信康と結婚した徳姫(織田信長の長女)が、父の信長に「武田家と築山御前の内通の疑」を訴えたことにより信長の怒りを買い、信康と築山御前の処罰を家康に命じたとされていましたし、それを信じてこれまでお参りしてきました。

 

ところが、現在放映中の大河ドラマ『どうする家康』第24回「瀬名 覚醒」では、武田との内通といえども、「戦のない世」を目指した築山殿最大の謀反として描かれました。

 

戦のない世に賛同した武田家の穴山梅雪・お千代はもちろん、於大の方と久松長家夫妻、今川氏真と糸夫妻までが築山に大集合して、戦のない世大謀反プロジェクトが実行され驚きました。

 

そして、次回はいよいよ「はるかに遠い夢」と題して「信康事件」の全容が描かれるようです。

 

ただ、築山殿と信康の計画は勝頼に暴かれ、やがて信長にも知られ戦になることを想定しながらも、家康は妻子を逃そうと決意。一方築山殿は、五徳(徳姫)に「姑は悪女」だと訴える手紙を信長宛に書かせ、すべての責任を負おうとする。と予告されており、築山殿=悪女のイメージは完璧に封印されるようです。

 

「世相が変われば、歴史解釈も変わる」という今回の『どうする家康』で視聴者に伝えたい、訴えたいことは、まさに「戦は悪、平和が善」なのかも。

 

『戦国時代』で戦漬けの日々であっても、そこに生きる民の誰もが「戦のない平和な時代」を夢に見、戦の目的は平和だったという、まさに「戦うことがかっこいい戦国時代」をひっくり返すドラマなのかな?とやっと感じ始めています。こっちのほうが平和的でいいかもね。ってことで、今回はおしまい。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。