sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

家康ゆかりの街浜松の『西来院』と『太刀洗の池』で築山御前を偲ぶ

🕖2022/11/11   🔄2023/06/19

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

現在放映中のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、これまでは有村架純さん演じる家康の正室築山殿は夫である家康を最も理解し、互いに助け合っている様子が微笑ましく描かれてきました。

 

ですが、第22回あたりから歩き巫女千代との接触が描かれ、ついに第23回では築山殿の内通を、長男信康の妻五徳(織田信長の娘)が父織田信長に涙ながらに密告してしまいました。

 

信長は、家康の実の叔父である水野信元が武田家と内通しているといいがかりをつけ、見せしめなのか?家康に処分を迫り、ついには、信元は家康家臣の平岩親吉の刀により息絶えてしまいます。

 

いよいよ築山殿と信康の悲劇への序章なのか、家康が侍女・於愛(広瀬アリス)に癒やされている間に、一方の信康は長篠の戦い以来心が乱れ、罪もない僧侶を手にかけてしまう。信康を心配する築山殿は、母として秘めたる心の内を愛息に打ち明けます。

 

築山殿は、門番・侍女を新しく入れ替え、千代に「頭を連れて参れ」と命じます。千代が連れてきたのは、唐の医師「滅敬(めっけい)」と名乗る、どう見ても甲斐の田辺誠一演じる「穴山梅雪」でした。そろり、そろりと「あの時」が近づいているのを感じます。

 

そこで、今回は、家康ゆかりの街浜松で、ぜひ訪ねていただいて戦国時代の悲劇の女性として描かれる徳川家康の正室「築山御前(瀬名)」を、偲んでいただけたらうれしい2つのスポットをご紹介しましょう。

 

ちょっと悲しげな紫色の紫陽花がよく似合う西来院

 

 

西来院(せいらいいん)

 

閑静な住宅地の一角にある西来院には、戦国時代の悲劇の女性として知られる徳川家康の正室、築山御前の廟堂(月窟廟)がひっそりと置かれています。

 

閑静な住宅地の一角にあり、長藤の名所としても親しまれています。藤のシーズンには長藤を楽しみに市民が憩います。

 

 

☑場所は中区広沢2丁目10-1 

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR浜松駅から遠鉄バス[広沢・医療センター方面行き]乗車約15分、[広沢一丁目」で下車、徒歩約8分

車:東名高速道路[浜松西IC]から26分

駐車場:ありません

営業時間:9:00~15:00

 

あじさいが映える白い『西来院』



楠1本彫りの釈迦牟尼如来を祀る本堂、扉には葵の御紋が入っています

 

西来院は正長元年(1428年)に月窓義運禅師が自力で開山し、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を本尊とする曹洞宗の寺院です。山号は高松山です。

 

戦時中に空襲で焼失したため本堂はコンクリートで再建され、ご本尊は楠1本彫りの釈迦牟尼如来が祀られています。

 

参道を進めるとまず目に入ってくるのが『六地蔵尊堂宇』。見事なあじさいを眺めながら進めるとかわいらしいお地蔵さまと、藤の花を謳った歌碑があります。

 

六地蔵堂宇と、築山御前の説明板

 

かわいらしいお地蔵さんと、藤の花を謳った歌碑があります

 

本堂の前には、シーズンには藤の清々しい香りで心洗われそうな『藤棚』があります。

 

4月中ごろから見頃を迎える藤棚と、西来院の説明板

 

本堂でお参りを済ませたら、『築山御前 月窟廟』と書かれた石碑のある本堂左脇の入口から墓苑に入っていきます。入口は自然があふれているので見逃さないようにしましょう。

 

『築山御前 月窟廟』と書かれた石碑の右側が墓苑の入口です。

 

入口から少し進むと、静かな森にひっそりと築山御前のお墓『月窟廟』があります。本当にひっそりとしたイメージで、お花が唯一のなぐさめかと思うと悲しくなります。

「あなたのおかげで今の世があります。」と思わず伝えてしまいました。

 

本当にひっそりしていて、寂しそうなイメージです。

 

墓苑には、築山殿を祀る月窟廟(げっくつびょう)の近くに、徳川家康の異父弟・松平三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓もあります。

 

こちらが徳川家康の異父弟の『松平三郎康俊』のお墓です、

 

松平三郎康俊は、於大の方(家康の母/松嶋菜々子)と、於大の方が再婚した久松長家(リリーフランキー)との間に生まれ、いわゆる久松三兄弟の中子にあたります。

 

1563年(永禄6年)、家康の命により今が鷲尾人質として駿河国に赴き、1568年(永禄11年)、武田信玄が駿河に侵攻した際、今川家に仕える三浦与一郎が武田家に転じる際に、康俊らを伴ったといいます。

 

武田信玄は喜んで、康俊を甲斐国に送って警護の下に置いたといいます。大河ドラマでは、勝頼と同じように大いに鍛えられていましたが・・・。

 

1570年(元亀元年)11月、家康の手配によって甲斐国から下山路を経由して三河国へ脱出することに成功。ただ、山岳部を大雪の中で踏破したために、両足の指を凍傷で失ってしまいました。家康は幼い頃からの忠節を賞し、「一文字の刀」と「当麻の脇差」を与えたといいます。

 

1583年(天正11年)駿河国の久能城を与えられ、1586年(天正14年)に久能にて死去しています。

 

『どうする家康』では、この松平三郎康俊を『なにわ男子』の長尾謙杜氏が演じて、大いに涙を誘い話題にもなりました。

 

築山殿は『おんな城主直虎』では井伊家の血筋を引いていると描かれていたからでしょうか、浜松に住まうものにとって『信康事件』は、格別な悲しみと切なさを感じさせます。※今川方に嫁いだ井伊直平(直虎の曾祖父)の娘(真矢みき)が、築山殿の実母といわれています。

 

西来院の境内の深い森は、住宅街にありながらも野鳥の鳴き声が聞こえ、自然あふれる景観です。毎年4月上旬から5月上旬には本堂前の庭の長藤が咲き誇り、訪れる市民の目を楽しませているそうです。

 

あじさいの季節にでかけた私には、閑静な森の中にひっそりと置かれ悲しみに包まれている月窟廟には、ちょっと悲しげな”あじさい”がよく似合うと感じられました。

 

戦国時代の悲劇

 

三河の岡崎城主、松平氏の嫡男として生まれた家康は、子供の頃、父の松平広忠が庇護を受けていた今川氏に人質に出されていました。

 

駿府城の今川義元のもとで元服し、義元の「元」をもらい元信と名を改めた2年後の1557年(弘治3年)、義元の姪の築山殿(瀬名姫)と結婚。翌年には長男「信康」が生まれ、さらに翌年にも長女「亀姫」が誕生しています。

 

じつは、亀姫誕生の約半月前には桶狭間の戦いが起こっています。永禄3年(1560年)織田信長が築山御前と血縁関係にあった今川義元を奇襲して討ち取ったのが『桶狭間の戦い』です。

 

松平元康(後の徳川家康)は、今川軍の三河勢の先鋒として先行し、今川方の拠点「大高城」に兵糧入りしていたといいます。今川義元が討たれたことを知った松平元康は、戦場を離れ駿府には帰らず岡崎城を目指します。

 

一時、岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せますが、ここも追手に取り囲まれてしまいます。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹して果てようとしましたが、この寺の13代住職の登誉天室が「厭離穢土(えんりえど/おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」と説き、切腹を思いとどまらせたといいいます。

 

「厭離穢土 欣求浄土」すなわち、「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という意味でした。

 

切腹を思いとどまった元康は、その教えを書した旗を立て寺僧とともに奮戦し、郎党を退散させたのです。以降、元康はこの「厭離穢土 欣求浄土」という言葉を馬印として掲げるようになったとのこと。

 

戦国時代、徳川家康が馬印に用いたことでもよく知られるこの逸話は、山岡荘八の著書「徳川家康」、およびNHK大河ドラマ「徳川家康」によってよく知られています。

 

※「厭離穢土」とは、この娑婆(しゃば)世界を「穢れた国土」として、それを厭(いと)い離れるという意味で、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味。「欣求浄土」とは、仏教で極楽浄土を心から願い求めること。

 

こうして元康は難を逃れることができ、今川軍の城代山田景勝が捨てて逃げた三河岡崎城、自分が生まれた岡崎城にたどり着きました。やっと元康は今川氏から独立して岡崎城の城主となり、松平氏の旧領回復を始めることができたのです。

 

岡崎城に入った元康は、なかなか駿府には帰ることができませんでした。駿府で生まれたばかりの2人の赤ちゃんを抱えた築山御前は、家康の裏切りによりいつ殺されてもおかしくない状況に置かれます。

 

徳川家康に改名

 

元康は、永禄5年(1562)築山御前の叔父にあたる義元を討った尾張の織田信長と同盟を結び、三河の統一に乗り出しました。

 

元康は、翌年今川義元からもらった「元」の字を捨て『家康』と名を改めます。改名によって今川家からの独立を宣言した家康は、今川家から見れば敵将の信長と手を結んだ憎き敵になったのです。

 

家康の裏切りにより今川家の本拠地駿府で暮らす妻子は、今川方からいつ殺されてもおかしくない状況でした。が、この時家康からの使者が現れます。家康は、今川義元の義理の弟の子供と築山御前を人質交換することで、築山御前の命を救います。家臣の石川数正が母子を救出し岡崎へと連れ帰りました。

 

岡崎城入りした築山御前

 

無事に岡崎入りした築山御前ですが、まだまだ苦労は続きます。最初の住まいは岡崎城外の屋敷でした。この屋敷に人工の山があったことから「築山御前」という呼び名がついたようです。

 

当時の岡崎城には家康の生母・於大の方が住んでいたそうで、今川方の血縁である築山御前はなかなか城に入れなかったといいます。

 

そして、時は流れ永禄10年(1567年)5月には、たった9歳の長男・信康は、信長の娘・徳姫と結婚し、徳姫が岡崎城に入ります。

 

築山御前が岡崎城に「城主の生母」として入ったのが1570年(元亀元年)。信長の後ろ盾を得て、家康が遠江に侵攻して今川氏を駆遂し浜松城に移ったのも同じ元亀元年。

 

これは家康が浜松城へ入城するにあたり、岡崎城を信康に譲ったためです。このとき、岡崎城の城代となった跡取りの信康はまだ12歳の子どもです。築山御前が岡崎城に残ったのはそのためだったかもしれません。

 

それから6年後、信康と徳姫の間に第一子が生まれますので、最初は仲良く暮らしていたと思われます。

 

浜松城の家康は?というと、1574年(天正2年)2月浜松城内で家康に仕えていた”側室・お万の方”との間に次男於義丸(後の結城秀康)が、敷地郡宇布見(現在の浜松市西区宇布見)の中村家で生まれます。その時の胞衣(えな/後産)を埋めた胞衣塚が今も残されています。

 

詳しくはこちらの記事で>>

『家康ゆかりの街浜松』で巡りたいスポット国の重要文化財『中村家住宅』 - sannigoのアラ還日記

 

嫡男・信康に次ぐ男児の出生です。ところが家康はこの次男の出生をあまり喜ばなかったとか。於義丸が双子で生まれたことや、築山殿の嫉妬が怖かったからだとか、諸説あるようです。

 

さらに、その5年後の1579年(天正7年)には西郷の局(於愛の方)に三男秀忠(江戸幕府二代将軍)が誕生します。そのことを知った築山御前は焦りを感じたのかもしれません。

 

なぜなら、嫡男信康と徳姫の間に生まれたのは女の子が2人。当時の武家では女子は跡取りになれませんでした。そこで、築山御前は信康の跡取りを欲しいと考えた築山御前は、徳姫のことを考えずに側室を迎えるよう信康に勧めたともいわれます。

 

築山殿 - Wikipediaによると、以下のように『大岡弥四郎事件』に、築山殿もこの謀反計画に加担していた記述が『岡崎東泉記』に遺されているようです。

 

天正3年(1575年)、信康の家臣大岡弥四郎らが武田勝頼に内通して謀反を企んだことが発覚し処刑される事件が起きたが、『岡崎東泉記』『石川正西聞見集』によれば築山殿もこの謀反計画に加担していたという。

当時、甲斐国の口寄せ巫女が岡崎領に大勢来ており、それにつけ込んで勝頼が巫女を懐柔して築山殿に取り入らせ、徳姫を勝頼の味方にすれば築山殿を勝頼の妻とし信康を勝頼の嫡男にして天下を譲り受けるという託宣を巫女に述べさせた。

さらに築山殿の屋敷に出入りしていた西慶という唐人医をこの談合に巻き込み、弥四郎らを大将分として勝頼から所領を与える判物が出されたとしている。

 

大河ドラマでは、ちょっと時間がずれるようですが、このウイキペディアに書かれている通り、[甲斐国の口寄せ巫女が岡崎領に大勢来て]、[巫女を懐柔して築山殿に取り入らせ]、さらに[築山殿の屋敷に出入りしていた西慶という唐人医をこの談合に巻き込み]というところまで進んでいます。どうなるかはドラマ次第ですが。

 

築山御前38歳の若さで生涯を閉じる

 

そして、悲劇が起きたのが天正7年(1579年)のことでした。織田信長が、家康に、築山殿と信康が武田氏に内通しているとして、2人の処刑を要求したのです。

 

家康がこれに従ったため徳川家康の正室・築山殿は、岡崎城から浜松城へ向かい佐鳴湖を舟で渡ると、待ち伏せしていた家康公の家臣により、8月29日38歳の若さで佐鳴湖に近い小籔村(浜松市中区富塚)で生涯を閉じました。

 

徳川家の将来を危惧した家臣岡本時仲と野中重政によって自害を迫られますが、築山御前が自害を拒んだため、独断によって首を切られ殺害されたと伝わります。

 

それまでの経緯には諸説あります。これまでは、長男信康の正妻である織田信長の娘徳姫が、「姑と夫が武田に通じている」などを訴えた『12か条の訴状』を父の信長に送ったため、信長が激昂し家康に2人の処分を命じたといわれます。

 

また、この『12か条の訴状』が織田信長の元に届いたのは、奇しくも家康の三男が生まれた頃と前後しているとか。

 

信長と家康は同盟関係でしたが、武田信玄亡きあと、鉄砲の威力もあり破竹の勢いで天下を統一しつつあった信長とは、実質的には主従関係にありました。

 

信長に逆らえば身を滅ぼし徳川家が破滅することが目に見えていた家康にとっては苦渋の決断だったことでしょう。断腸の思いで腹心の家臣に2人の殺害を命じたといいます。

 

その後、9月15日には二俣城(浜松市北区天竜)にて、家康の嫡男信康が自害しています。享年21歳。母である築山御前を先に殺害したのは、我が子の自害を知った母親が取り乱し、何か事を起こすのを懸念したためのようです。

 

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『護法山地蔵院』には築山御前が生前携えていたとされる秘伝『腹籠地蔵尊』が祀られている - sannigoのアラ還日記

 

太刀洗の池

 

築山御前の首を切った野中重政が刀を洗ったといわれる池があったのは、浜松医療センターが建つあたり。浜松医療センター駐車場脇に史跡碑(太刀洗の池跡)と説明板があります。

 

⚠先日(2022年10月29日)こちらを訪ねてみたのですが、現在浜松医療センターが絶賛工事中で説明板さえ見付けられませんでした。最近見つけたパンフレットによると令和6年1月まで工事予定になっていました。

 

 

場所:中区佐鳴台5丁目6-1 

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[浜松駅]から遠鉄バス[医療センター行き]乗車、約20分[医療センター]下車、すぐ

車:JR[浜松駅][高塚駅]から約4km

  東名高速道路[浜松IC]から約10km

駐車場:ありません

 

徳川家康の正室・築山殿(瀬名)が、長男松平信康の正室である徳姫(織田信長の娘)が信長に送った築山御前と信康の罪を訴える『十二ヶ条の訴状』によって、信長が激高し、家康に処分を命じたとされます。

 

岡崎城から浜松城に向かう途中、小籔村の佐鳴湖畔「富塚御前谷」で、徳川家康の命により、家康の家臣・野中重政に殺害されたのは天正7年(1579)8月29日。

 

落とされた首級は、首検分のため岡崎城に運ばれたと伝わります。往時にはこちらの史跡碑の南側に池があったそうです。今はもちろんありませんので探さないように!

 

築山御前38歳の時のことで、家康との間に生まれた嫡男信康も9月15日に二俣城で切腹しています。築山御前の遺骸は浜松の西来院に葬られたほか、愛知県岡崎市の八柱神社に築山御前首塚があるそうです。

 

築山御前が武田勝頼と内通していたとは考えづらいことから、冤罪であったことはほぼ確実のようですが、いろいろな説があるようではっきりしません。

 

他にも徳姫と築山御前の不仲、あるいは家康と信康の不仲、はたまた築山御前と滅敬(めっけい)という唐人の医師と密通していたなどの説があるけれども、真相は定かではないようです。

 

築山御前は遠江国井伊家の血筋を引いている?

 

ずばり!『おんな城主直虎』の中で、築山御前の母佐名は、元々井伊家の娘でした。ということは、築山御前は遠江国井伊家の血筋を引いていると言ってよいのではないでしょうか?

 

徳川四天王の井伊直政が再興した井伊家ゆかりの地である「井伊谷宮」や「龍潭寺」も、浜松市では人気のスポットです。といいますのも、2017年放送の大河ドラマ『おんな城主直虎』の舞台になった場所だからなのです。

 

今川義元の義妹の佐名と、駿河今川家の有力な家臣・関口親永(せきぐちちかなが)との間に生まれた娘が、当時住んでいた地名から瀬名姫と呼ばれ、のちに家康の正室となった築山御前です。

 

『おんな城主直虎』でこの佐名を演じたのが、宝塚歌劇団雪組で日本初のエリザベートを演じた娘役さんの花總まりさんでした。マニアックですまぬ。

 

劇中で佐名は元々井伊家の娘。南渓和尚(小林薫)の妹であり、直平(前田吟)の娘です。直虎とも親戚同士でした。瀬名(築山御前)を演じたのが菜々緒さんで、今川家・駿府にその身を置きながら、直虎と文通をするほど良き友として描かれていたのは親戚同士だから。

 

井伊家が今川家に屈服した証として、佐名は今川義元の義妹になり関口親永と結婚後に瀬名が生まれたのです。瀬名の父関口親永は、はじめ遠江国二俣城に住み、のちに駿河国庵原郡瀬名村(現在の静岡市葵区瀬名)に住んだ今川氏に仕える家臣でした。

 

幼い頃から今川氏実(尾上松也)の妻になることを夢見ていた瀬名ですが、思いがけず徳川家康の妻になることを命じられるのです。瀬名が嫡男信康と亀姫を駿府で育てていたところ、家康が今川を裏切り殺されても仕方ないところを岡崎に逃れることができました。

 

が、瀬名の父や母はどうなったのでしょう?桶狭間の戦いから2年後、築山御前の父関口親永は駿府にて自害させられました。そして母の佐名も同じ時に自害しています。築山御前の両親も、築山御前、信康と同様に家康に殺されたといっても過言ではないのです。

 

築山御前は家康と同い年か、家康よりも歳も2歳年上の姉さん女房で気が合わなかったとも聞きます。『どうする家康』を見ていると、仲が悪いなんて想像もできません。

 

ただ、築山御前にしてみれば、もともと今川家の姫なのに、夫家康のせいで両親が死んだとなれば、気が合わないだけで済ませるような問題ではなかったのかもしれません。

 

ですが、ドラマの中では、すっかり三河の女で、家臣からの信頼も厚い築山殿、結局は愛する家康のため、徳川のため、信康のため、家臣のため、戦で苦しまなくて良い日々を求めていたからこそ、武田と内通したという流れになるのかしら?なんて、予想しています。

 

瀬名が結婚したかった今川氏真とは?

 

今川氏真は、一大勢力を築いた戦国大名・今川義元の嫡男として生まれます。家督を継ぎながらも父の死後、武田信玄と徳川家康による駿河侵攻で敗れて、戦国大名としての今川家を滅亡に導いた人物です。

 

その後、妻の実家・北条氏を頼り、なんだかんだとあって、蹴鞠ばかりをしていたお坊ちゃまは結局徳川に下り、かつての家臣・家康の庇護を受けて生きることになりました。

 

それでも「そんなの関係ねー」がごとく、屈辱を受けながらも今川を立て直そうとたくましく生き抜き、氏真以降の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕え家名を明治までつないでいます。

 

そんな氏真役の尾上松也も1年前は『鎌倉殿の13人』で、後白河上皇の孫・後鳥羽上皇を怪演されていました。って、なんだかえらく話が飛んでしまい申し訳ありません。

 

 

まとめ

 

今回は「徳川家康ゆかりの地浜松」で、戦国時代の悲劇の女性として知られる徳川家康の正室、築山御前の廟堂(月窟廟)がひっそりと置かれている『西来院』。

 

さらに、築山御前の首を切った野中重政が刀を洗ったといわれる池があった場所『太刀洗の池』を深堀りしてみました。

 

築山御前はそんなに悪い人ではなかったのに、徳川家康の天下取りの野望のせいで首をはねられて亡くなってしまった悲劇のヒロインとして捉えがちな遠州人の代表として、『西来院』と『大刀洗の池』を紹介文を綴ってみました。

 

「W大河の街 浜松」と銘打ったイベントが開催されるほど、『おんな城主直虎』を愛して止まない、家康の出世物語を早く観たい、そんな人々が多いこの浜松。

 

そこに住んでいる私は、『おんな城主直虎』に登場した人物みんなを「家康や信長、今川からめちゃくちゃひどい目にあったけどよくがんばった」って言いたい。

 

だけども、実は徳川家康も調べれば調べるほど、そんなに悪い人ではないのに「戦のない平和な時代」を目指したばっかりに、いろいろ迷惑かけちゃった人が多いなあって感じるのです。

 

そんなちょっと偏った紹介記事もいいんじゃない?ってことで、今回はこのへんでおしまい。最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。