sannigoのアラ還日記

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家康ゆかりの街浜松の『西来院』と『太刀洗の池』で築山御前を偲ぶ

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

家康ゆかりの街浜松で、ぜひ訪ねていただいて戦国時代の悲劇の女性として描かれることの多い徳川家康の正室「築山御前(瀬名)」を、偲んでいただけたらうれしい2つのスポットをご紹介しましょう。

 

 

ちょっと悲しげな紫色の紫陽花がよく似合う西来院

 

 

 

西来院(せいらいいん)

 

 

☑場所は中区広沢2丁目10-1 

閑静な住宅地の一角にあり、長藤の名所としても親しまれています。藤のシーズンには長藤を楽しみに市民が憩います。

 

閑静な住宅地の一角にある西来院には、戦国時代の悲劇の女性として知られる徳川家康の正室、築山御前の廟堂(月窟廟)がひっそりと置かれています。

 

築山殿を祀る月窟廟(げっくつびょう)

 

正長元年(1428年)に月窓義運禅師が自力で開山し、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を本尊とする西来院。

 

墓苑には、築山殿を祀る月窟廟(げっくつびょう)の近くに、徳川家康の異父弟・松平三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓もあります。

 

境内の森は、野鳥の鳴き声が聞こえ自然あふれる景観です。毎年4月上旬から5月上旬には本堂前の庭の長藤が咲き誇り、訪れる市民の目を楽しませているそうです。

 

あじさいの季節にでかけた私には、閑静な森の中にひっそりと置かれ悲しみに包まれている月窟廟には、ちょっと悲しげな”あじさい”がよく似合うと感じられました。

 

戦国時代の悲劇

 

三河の岡崎城主、松平氏の嫡男として生まれた家康は、子供の頃、父の松平広忠が庇護を受けていた今川氏に人質に出されていました。

 

駿府城の今川義元のもとで元服し、義元の「元」をもらい元信と名を改めた2年後の1557年(弘治3年)、義元の姪の築山殿(瀬名姫)と結婚。翌年には長男「信康」が生まれ、さらに翌年にも長女「亀姫」が誕生しています。

 

じつは、亀姫誕生の約半月前には桶狭間の戦いが起こっています。永禄3年(1560年)織田信長が築山御前と血縁関係にあった今川義元を奇襲して討ち取ったのが『桶狭間の戦い』です。

 

松平元康(後の徳川家康)は、今川軍の三河勢の先鋒として先行し、今川方の拠点「大高城」に兵糧入りしていたといいます。今川義元が討たれたことを知った松平元康は、戦場を離れ駿府には帰らず岡崎城を目指します。

 

一時、岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せますが、ここも取り囲まれてしまいます。前途を悲観した元安は祖先の墓前で切腹して果てようとしましたが、この寺の13代住職の登誉天室が「厭離穢土(えんりえど/おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」と説き、切腹を思いとどまらせたといいいます。

 

「厭離穢土 欣求浄土」すなわち、「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という意味でした。

 

切腹を思いとどまった元康は、その教えを書した旗を立て寺僧とともに奮戦し、郎党を退散させたのです。以降、元康はこの「厭離穢土 欣求浄土」という言葉を馬印として掲げるようになったとのこと。

 

戦国時代、徳川家康が馬印に用いたことでもよく知られるこの逸話は、山岡荘八の著書「徳川家康」、およびNHK大河ドラマ「徳川家康」によってよく知られています。

 

※「厭離穢土」とは、この娑婆(しゃば)世界を「穢れた国土」として、それを厭(いと)い離れるという意味で、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味。「欣求浄土」とは、仏教で極楽浄土を心から願い求めること。

 

こうして元康は難を逃れることができ、今川軍の城代山田景勝が捨てて逃げた三河岡崎城、自分が生まれた岡崎城にたどり着きました。やっと元康は今川氏から独立して岡崎城の城主となり、松平氏の旧領回復を始めることができたのです。

 

岡崎城に入った元康は、なかなか駿府には帰ることができませんでした。駿府で生まれたばかりの2人の赤ちゃんを抱えた築山御前は、家康の裏切りによりいつ殺されてもおかしくない状況に置かれます。

 

徳川家康に改名

 

元康は、永禄5年(1562)築山御前の叔父にあたる義元を討った尾張の織田信長と同盟を結び、三河の統一に乗り出した元康は、翌年今川義元からもらった「元」の字を捨て家康と名を改めます。改名によって今川家からの独立を宣言した家康は、今川家から見れば敵将の信長と手を結んだ憎き敵になったのです。

 

家康の裏切りにより今川家の本拠地駿府で暮らす妻子は、今川方からいつ殺されてもおかしくない状況でした。が、この時家康からの使者が現れます。家康は、今川義元の義理の弟の子供と築山御前を人質交換することで、築山御前の命を救います。家臣の石川数正が母子を救出し岡崎へと連れ帰りました。

 

岡崎城入りした築山御前

 

無事に岡崎入りした築山御前ですが、まだまだ苦労は続きます。最初の住まいは岡崎城外の屋敷でした。この屋敷に人工の山があったことから「築山御前」という呼び名がついたようです。

 

当時の岡崎城には家康の生母・於大の方が住んでいたそうで、今川方の血縁である築山御前はなかなか岡山城に入れなかったといいます。

 

そして、時は流れ永禄10年(1567年)5月には、たった9歳の長男・信康は、信長の娘・徳姫と結婚し、と徳姫が岡崎城に入ります。

 

築山御前が岡崎城に「城主の生母」として入ったのが1570年(元亀元年)。信長の後ろ盾を得て、家康が遠江に侵攻して今川氏を駆遂し浜松城に移ったのも同じ元亀元年。これは家康が浜松城へ入城するにあたり、岡崎城を信康に譲ったためです。

 

このとき、岡崎城の城代となった跡取りの信康はまだ12歳の子どもです。築山御前が岡崎城に残ったのはそのためだったかもしれません。それから6年後、信康と徳姫の間に第一子が生まれます。

 

浜松城の家康は?というと、1574年(天正2年)2月浜松城内で家康に仕えていた”側室・お万の方”との間に次男於義丸(後の結城秀康)が、敷地郡宇布見(現在の浜松市西区宇布見)の中村家で生まれます。その時の胞衣(えな/後産)を埋めた胞衣塚が今も残されています。

 

詳しくはこちらの記事で>>

『家康ゆかりの街浜松』で巡りたいスポット国の重要文化財『中村家住宅』 - sannigoのアラ還日記

 

嫡男・信康に次ぐ男児の出生です。さらに、その5年後には西郷の局(於愛の方)に三男秀忠が誕生します。

 

そのことを知った築山御前は焦りを感じたのかもしれません。なぜなら、嫡男信康と徳姫の間に生まれたのは女の子が2人。当時の武家では女子は跡取りになれませんでした。そこで、築山御前は信康の跡取りを欲しいと考えた築山御前は、徳姫のことを考えずに側室を迎えるよう信康に勧めたそうです。

 

築山御前38歳の若さで生涯を閉じる

 

そして、悲劇が起きたのが天正7年(1579年)のことでした。織田信長が、家康に、築山殿と信康が武田氏に内通しているとして、2人の処刑を要求、家康はこれに従ったため徳川家康の正室・築山御前は8月29日38歳の若さで佐鳴湖に近い小籔村(浜松市中区富塚)で生涯を閉じました。

 

徳川家の将来を危惧した家臣岡本時仲と野中重政によって自害を迫られますが、築山御前が自害を拒んだため独断によって首を切られ殺害されたと伝わります。

 

それまでの経緯には諸説ありますが、長男信康の正妻である織田信長の娘徳姫が、「姑と夫が武田に通じている」などを訴えた『12か条の訴状』を父の信長に送ったため、信長が激昂したといわれています。

 

この『12か条の訴状』が織田信長の元に届いたのは、奇しくも家康の三男が生まれた頃と前後しているとか。

 

信長と家康は同盟関係でしたが、武田信玄亡きあと、破竹の勢いで天下を統一しつつあった信長とは、実質的には主従関係にありました。信長に逆らえば身を滅ぼし徳川家が破滅することが目に見えていた家康にとっては苦渋の決断だったことでしょう。断腸の思いで腹心の家臣に2人の殺害を命じたといいます。

 

その後、9月15日には二俣城(浜松市北区天竜)にて、家康の嫡男信康が自害しています。享年21歳。母である築山御前を先に殺害したのは、我が子の自害を知った母親が取り乱し、何か事を起こすのを懸念したためのようです。

 

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太刀洗の池

 

 

☑中区佐鳴台5丁目6-1 

 

築山御前の首を切った野中重政が刀を洗ったといわれる池があったのは浜松医療センターが建つあたり。浜松医療センター前に史跡碑(太刀洗の池跡)と説明板があります。

⚠先日(2022年10月29日)こちらを訪ねてみたのですが、現在浜松医療センターが絶賛工事中で説明板さえ見付けられませんでした。

 

徳川家康の正室・築山御前(つきやまごぜんー瀬名姫)が、長男松平信康の正室である徳姫(織田信長の娘)が信長に送った築山御前と信康の罪を訴える『十二ヶ条の訴状』によって岡崎城から浜松城に向かう途中、小籔村の佐鳴湖畔「富塚御前谷」で、徳川家康の命により、家康の家臣・野中重政に殺害されたのは天正7年(1579)8月29日。

 

落とされた首級は、首検分のため岡崎城に運ばれたと伝わります。往時には史跡碑の南側に池があったそうです。築山御前38歳の時のことで、家康との間に生まれた嫡男信康も9月15日に二俣城で切腹しています。築山御前の遺骸は浜松の西来院に葬られたほか、愛知県岡崎市の八柱神社に築山御前首塚があるそうです。

 

築山御前が武田勝頼と内通していたとは考えづらいことから、冤罪であったことはほぼ確実のようですが、いろいろな説があるようではっきりしません。

 

他にも徳姫と築山御前の不仲、あるいは家康と信康の不仲、はたまた築山御前と滅敬(めっけい)という唐人の医師と密通していたなどの説があるけれども、真相は定かではないようです。

 

築山御前は遠江国井伊家の血筋を引いている?

 

ずばり!『おんな城主直虎』の中で、築山御前の母佐名は、元々井伊家の娘でした。ということは、築山御前は遠江国井伊家の血筋を引いていると言ってよいのではないでしょうか?

 

徳川四天王の井伊直政が再興した井伊家ゆかりの地である「井伊谷宮」や「龍潭寺」も、浜松市では人気のスポットです。といいますのも、2017年放送の大河ドラマ『おんな城主直虎』の舞台になった場所だからなのです。

 

今川義元の義妹の佐名と、駿河今川家の有力な家臣・関口親永(せきぐちちかなが)との間に生まれた娘が、当時住んでいた地名から瀬名姫と呼ばれ、のちに家康の正室となった築山御前です。

 

『おんな城主直虎』でこの佐名を演じたのが、宝塚歌劇団雪組で日本初のエリザベートを演じた娘役さんの花總まりさんでした。マニアックですまぬ

 

劇中で佐名は元々井伊家の娘。南渓和尚(小林薫)の妹であり、直平(前田吟)の娘です。直虎とも親戚同士でした。瀬名(築山御前)を演じたのが菜々緒さんで、今川家・駿府にその身を置きながら、直虎と文通をするほど良き友として描かれていたのは親戚同士だから。

 

井伊家が今川家に屈服した証として、佐名は今川義元の義妹になり関口親永と結婚後に瀬名が生まれたのです。瀬名の父関口親永は、はじめ遠江国二俣城に住み、のちに駿河国庵原郡瀬名村(現在の静岡市葵区瀬名)に住んだ今川氏に仕える家臣でした。

 

幼い頃から今川氏実(尾上松也)の妻になることを夢見ていた瀬名ですが、思いがけず徳川家康の妻になることを命じられるのです。瀬名が嫡男信康と亀姫を駿府で育てていたところ、家康が今川を裏切り殺されても仕方ないところを岡崎に逃れることができました。

 

が、瀬名の父や母はどうなったのでしょう?桶狭間の戦いから2年後、築山御前の父関口親永は駿府にて自害させられました。そして母の佐名も同じ時に自害しています。築山御前の両親も、築山御前、信康と同様に家康に殺されたといっても過言ではないのです。

 

築山御前は家康よりも10歳も年上の姉さん女房で気が合わなかったとよく聞きますが、ウィキペディアでは同い年だったとされています。築山御前にしてみれば、気が合わないだけで済ませるような問題ではなかったのではないでしょうか?

 

瀬名が結婚したかった今川氏真とは?

 

今川氏真は、一大勢力を築いた戦国大名・今川義元の嫡男として生まれます。家督を継ぎながらも父の死後、武田信玄と徳川家康による駿河侵攻で敗れて、戦国大名としての今川家を滅亡に導いた人物です。

 

その後、妻の実家・北条氏を頼り、なんだかんだとあって、蹴鞠ばかりをしていたお坊ちゃまは結局徳川に下り、かつての家臣・家康の庇護を受けて生きることになりました。

 

それでも「そんなの関係ねー」がごとく、屈辱を受けながらも今川を立て直そうとたくましく生き抜き、氏真以降の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕え家名を明治までつないでいます。

 

そんな氏真役の尾上松也も今は『鎌倉殿の13人』で、後白河上皇の孫 後鳥羽上皇を怪演されています。って、なんだかえらく話が飛んでしまい申し訳ありません。

 

 

まとめ

 

今回は「徳川家康ゆかりの地浜松」で、戦国時代の悲劇の女性として知られる徳川家康の正室、築山御前の廟堂(月窟廟)がひっそりと置かれている『西来院』。

 

さらに、築山御前の首を切った野中重政が刀を洗ったといわれる池があった場所『太刀洗の池』を深堀りしてみました。

 

築山御前はそんなに悪い人ではなかったのに、徳川家康の天下取りの野望のせいで首をはねられて亡くなってしまった悲劇のヒロインとして捉えがちな遠州人の代表として、『西来院』と『大刀洗の池』を紹介文を綴ってみました。

 

「W大河の街 浜松」と銘打ったイベントが開催されるほど、『おんな城主直虎』を愛して止まない、家康の出世物語を早く観たい、そんな人々が多いこの浜松。

 

そこに住んでいる私は、『おんな城主直虎』に登場した人物みんなを「家康や信長、今川からめちゃくちゃひどい目にあったけどよくがんばった」って言いたい。

 

だけども、実は徳川家康も調べれば調べるほど、そんなに悪い人ではないのに「戦のない平和な時代」を目指したばっかりに、いろいろ迷惑かけちゃった人が多いなあって感じるのです。

 

そんなちょっと偏った紹介記事もいいんじゃない?ってことで、今回はこのへんでおしまい。最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。