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大河ドラマ『どうする家康』が好調だからでしょうか?最近は歴史番組はもちろん、普段から放送しているクイズ番組まで”徳川家康に関する出題”が多く、にわか家康ファンとしては楽しみが増えてウホウホしています。
そこで、徳川家康という人物を一番印象づけるために登場する肖像画や銅像ですが、銅像に関してはほとんどの場合が、静岡市の駿府城公園の左手に鷹を載せている銅像です。たまに見かける浜松城の若かりし頃の家康像は、とてもハンサムなのですが鷹なし(笑)
やはり、徳川家康といえば『鷹狩り』というイメージが強いからでしょうね。ということで、今回は徳川家康の趣味としてよく話題に上がる『鷹狩り』と『薬づくり』について調べてみました。
家康と鷹狩り
鷹狩りとは、鷹や鷲などを訓練して行う狩りの一種です。たまに、鷹を鉄砲で撃つことと思っている方もいらっしゃるようですが、それは間違い!
鷹狩りとは古くからある狩猟の一種で、守や林、草原などにいる獲物を犬や人(勢子/せこ)が追い立てます。
獲物の動物が驚いて飛び上がったり姿を見せたりすると、訓練された鷹を放して捕まえさせます。獲物を捕まえて地面に降りた鷹の所に、人が走って行き、餌を与えて獲物と引き換えるという狩りの方法です。
鷹狩りの歴史は古く、日本では西暦355年、仁徳天皇の時代から鷹が輸入され、朝廷を中心に公家の遊びとして親しまれました。最も盛んになったのが江戸時代ということですから、この頃の武士の楽しみの一つでもあったのでしょう。
家康は、人質時代から、将軍を引退して大御所と呼ばれるようになるまで、たびたび鷹狩りをおこなっています。
特に東海地方から関東に移ってきてからは、何度もでかけていたようです。そのせいか関東ではとても鷹狩りが盛んになったため、その名残りであちこちに「鷹」の字がつく地名が残っているほどです。
一説によると生涯でなんと!1,000回以上も鷹狩りを楽しんだと伝わり、日帰りだけではなく、1週間から、長い時は3ヶ月にも及んだといいます。まさに暇さえあれば鷹狩りに興じていたといっても過言ではないかもしれません。
あの 『大阪冬の陣』の帰り道にも鷹狩りを楽しんだという話もありますから。家康が生涯愛したものの一つであることは間違いないでしょう。きっと家康は、鷹狩りで雉(きじ)や雁(がん)、鴨(かも)などの鳥や、ウサギやキツネなど、さまざまな動物を捕まえたはずです。
家康が浜松城主だったころは、浜松周辺をはじめ、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東武)、尾張(愛知県西部)まで出かけたそうです。浜松を離れたあとも、現在の磐田市に「中泉御殿」を造り、10回近く鷹狩りの訪れたという記録が残っているそうです。
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1610年の冬には、すでに69歳の高齢でありながらも、中泉や駿府、田中など数ヶ所で鷹狩りをしています。鶴36羽と数え切れないほどの雁や鴨を捕まえたと伝えられます。
ですが、家康に限っては鷹狩りはただの楽しみではなかったようです。実はさまざまな目的があって鷹狩りを楽しんでいたようです。
江戸時代に書かれた本によると、「鷹狩りは遊びのためにやるのではない。知らない土地を歩き回るから地形がよくわかり、もし戦(いくさ)になればとても役に立つ。領地の視察にもなるし、早起きをして体を動かすので、健康にとてもよい」と言って、家康は家臣たちにも鷹狩りを勧めたそうです。
つまりは、鷹狩りに出かけるため、狩場とお城を往復することで、城内では見知ることができない情報も直接見聞きする機会になり、自分の領地と人びとの生活ぶりを知ることができると考えたのです。
ですから、早起きして体を動かす鷹狩りは「暑さや寒さをいとわず走り回り、病にかかることなし」と健康に良いことと家臣たちにも勧め、さらに、どこにいるかわからない獲物を捕まえるためには家臣たちを効率よく素早く動かす必要があり、家康は鷹狩りで戦の練習をしていたというのです。
獲物を敵に見立て、戦の実践的な訓練の場として鷹狩りを行っていたとは!家康というと、読書好きで、健康オタクなのですが、ああ見えて「海道一の弓取り」と呼ばれ、しかも、鉄砲の腕前も確かといいます。これもきっと人質時代からの鷹狩りで戦の腕を磨いていたからこそでしょう。
といっても、家康にとっては現在人気の『ゴルフ』のような感じで、単にアクティブなスポーツを趣味にしているだけだったとも考えられます。
家康の鷹狩りにまつわる伝承は、今でも家康が居住した浜松や駿府をはじめ、葛飾や平塚、岩槻など全国各地でたくさん残されています。
千葉県の船橋から東金に続く「東金御成街道」は家康が鷹狩りのために造らせたといいます。このように、現在の磐田にあった「中泉御殿」のような場所がいくつかあったようですね。
続いて、鷹狩りと同様に家康の趣味としてよく知られる『薬づくり』についてお話しましょう。
家康と薬づくり
江戸時代に入り戦乱の世がおちつき平和な時代が訪れると、人びとの心に余裕が生まれさまざまな趣味を楽しむことが流行し始めます。
中でも、もっとも大名たちに好まれたのが、千利休(1521〜1591)が広めた茶道でした。大名たちは競って茶室を作ったり、高価な茶器を買い求めたりしました。
ところが、家康は、茶の湯や道具などにお金を使うような遊びには関心がなく、政治や歴史の書だけでなく、医学書・薬学書も愛読していたといい、江戸時代の『本佐録(ほんさろく)』によると、若い頃からの家康の趣味は薬づくりでした。
一説ではそれまでの経験からか「少しでも長生きして天下を取る」という思いから健康志向が強く、とくに薬に関する知識もかなりのものだったといいます。
先日の大河ドラマ『どうする家康』では、家康は「浜松城に入るように」と信長から指示され、岡崎城はまだ幼い長男信康にまかせ、しぶしぶ浜松に入城することにしました。まだ幼い信康夫婦のため岡崎に残る築山殿との別れを、家康が「一緒に行こうよ」と泣いて嘆く姿が描かれました。
そのシーンでは、築山殿から「これからは体調の悪い時はご自分で薬を作るんですよ」なんて厳しいことを言われつつ、薬研(やげん)といわれる薬づくりの道具を使ってのレクチャーを受けていましたっけ。
もしかしたら、その後の家康の趣味になる薬づくりは、築山殿から教わったものかもしれませんが、薬は普段はもちろん、戦(いくさ)の時にも、家臣達の病気や怪我のためとても大事なものだったでしょうし、健康オタクだったとも伝わる家康らしい趣味ではないでしょうか?
それに、家康は薬草の知識も豊富で、薬研を使って、自分で色々な薬草や薬になるものを粉にして混ぜ合わせ丸薬(がんやく)にし、家臣に渡したり、自らも多くの薬を服用していたようです。
家康のつくる薬のなかには、山芋のサンヤク(山薬)や杜仲茶で知られる杜仲の樹皮などの薬草にオットセイの陰茎や睾丸を乾燥させたカイクジン(海狗腎)を混ぜ合わせたものなどもあり、体に良いと評判だったと伝わります。
先日、ご紹介した『田中城』で、鯛の天ぷらを食べすぎて食あたりした時も、自身で作った強壮薬の『万病円』を服用し続けたと伝わります。
幕府を開く前から家康の侍医として仕えていた片山宗哲が、「万病円」のような大毒の薬を服用していては身体そのものを痛めてしまうから止めたほうが良い、という助言をしたものの家康は聞き入れず、逆にご機嫌を損ね、宗哲は信濃国に流されたというほどです。
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孫の家光が3歳で大病を発し侍医たちが調合する薬が全く効かなかったときにも、家康が駿府から熱病に効くという『紫雪(しせつ)』を持って見舞いに訪れ、この練薬を与えて回復させたといいます。
この話は後に家光の乳母だった春日局が日光に奉納した「東照大権現祝詞」に書かれているそうです。
参照元:家康とタカ狩り 狩り場巡り視察や健康増進:中日新聞しずおかWeb
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最後に
今回は徳川家康が浜松にで過ごした頃というよりは、駿府や江戸へ移ってからの趣味というべき『鷹狩り』について調べています。
一説では、生涯で1,000回以上も出かけたといわれ、浜松のお隣の磐田に『中泉御殿』という、鷹狩りのおりに利用する休憩・宿泊施設を築くほど鷹狩りが大好きなんです。
鷹狩りを現在も人気のゴルフと似ているとおっしゃる方もいらっしゃるように、野や山を歩き回ることから「健康的」ですし、さらに、狩場とお城を往復することで、城内では見知ることができない自分の領地と人びとの生活ぶりを知ることができると考えようです。
ですが、第一には「知らない土地を歩き回るから地形がよくわかり、もし戦になればとても役に立つ」という戦の訓練という意味があったのではないでしょうか。
そして、健康オタクとして「薬づくり」も趣味といわれますが、こちらも戦や普段の生活で自身はもちろん、家臣の怪我や病気に備えたことは言うまでもありません。
もちろん自身が田中城を訪れ、鯛の天ぷらを食してからの体調不良も、家康が生涯をかけて得てきた薬の知識通りの薬を服用し治療に務めていますし、かわいい孫の家光の大病も自身が調合した薬で治してしまっています。
結果、戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開きその後の戦のない平和な時代の礎を築いた家康、その人が愛した趣味「鷹狩り」、そして「薬づくり」も、結局は天下を取るために必要なことだったことがわかります。
ということで、今回はこのへんでおしまい。では、またです。