sannigoのアラ還日記

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家康が鯛の天ぷらで食あたりを起こしたという藤枝の『田中城』の下屋敷を訪れてみた

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

いよいよGWの5/3~5/5まで行なわれる『浜松まつり』が近づいてきました。5/5に開催を予定されている『騎馬武者行列』通称「松潤行列」の観覧参加申し込み者が多いという理由で、定員2万人から2万2千人に増やし、応募締切も本日24日まで延長していました。

 

驚いたことに、申込者数や倍率は明らかにしない!とのこと。27日から当せんの結果が通知されるそうなので、今は楽しみに待っているところですが、家康好きが止まらないアラ還は、今度は浜松を飛び出し藤枝市の『田中城跡』を訪ねてきました。

 

『田中城』といえば、徳川家康の死因ともいわれる鯛の天ぷらを食したお城としてよく知られ、小説やドラマでも何回となく描かれているため、その名をよく知られるお城です。また、徳川家康が鷹狩でよく訪れ、こよなく愛したお城ともいわれます。


直径600mの同心円形で縄張りをした、日本で唯一の円郭式城郭で、周囲を湿地帯で囲まれ攻めにくく守りやすい堅城でした。その形から亀城、亀甲状とも呼ばれています。作ったのは今川家でしたが、その後、武田家、豊臣家を経て徳川家の手に渡ったお城で、江戸時代になると駿府城の西の守りの要として譜代大名が城主となっています。

 

田中城は、志太地域の政治・経済・文化の中心となり、明治4年の廃藩置県で閉城するまでの約350年間、時代とともに引き継がれたお城でした。

 

壮年期から晩年までの家康とのゆかりがとても深い田中城、『田中城下屋敷跡』の駐車場に車を停めて、六間川を渡り西側にある『三日月堀跡』(西益津小学校脇)や、『本丸跡』などまでお出かけになるとよくわかりますが、周囲の道が円を描くようにカーブしています。他ではなかなか見られないので実際に歩いてみることをおすすめします。

 

鷹狩をこよなく愛する家康が何度も訪ねた田中城

 

 

田中城下屋敷跡

 

田中城は今から500年ほど前、この地の豪族・一色氏が今川氏の命を受け、その屋敷を拡大して城としたのが始まりといわれ、当時は徳一色城(とくのいっしきじょう)と呼ばれていたそうです。

 

また、大御所になった徳川家康が、1607年(慶長12年)に江戸から駿府に移られてから、大好きな鷹狩りをこの田中城周辺でしばしば行い、亡くなるまでの7年間で15回以上も訪れたお城です。

 

1616年(元和2年)1月21日、鷹狩りで田中城に立ち寄った家康が腹痛に見舞われます。一説によると、好物の鯛の天ぷらを食べ過ぎたと言われていますが、実際は胃がんだったのでは?ともいわれます。

 

『徳川実紀』によると、数日田中城に滞留後、24日には駿府に戻り養生します。が、4月17日75歳で波乱万丈の生涯を閉じました。

 

田中城の南東隅にあたるこの下屋敷跡は、一色氏やその子孫古沢氏の屋敷跡だとも伝えられています。しかし、江戸時代後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、築山・泉水・茶屋等を設けて四季の景色を楽しんだといわれます。

 

平成4年度から8年度にかけて、下屋敷跡の庭園を復元するとともに、田中城にゆかりのある当時の建物がここに移築・復元されました。城にあった建物の実物が現在まで残されることは珍しく、歴史的価値の高い貴重な文化財といえます。

 

 

場所:静岡県藤枝市田中1丁目7-20

 

《アクセス》


電車・バス:JR[西焼津駅]から静鉄バス[五十海・大住線]→[六間川]バス停下車 徒歩4分
車:東名高速道路[焼津IC]から8分
駐車場:あります

開場時間:9:00~17:00
休場日:月曜日、祝日の翌日、12/28~1/4
入場料:無料
御城印:いただけます(2種類)300円

 

左が田中城御城印、右は冠木門と本丸櫓

 

冠木門

 

入り口冠木門は、1/20の縮尺で描かれた当時の図面をもとに復元されたものだそうです。

 

田中城本丸櫓(市指定有形文化財)

 

田中城本丸櫓

 

この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に残っていたといわれます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭(おちん)」と呼ばれる2階建ての建物があったことが記録に残っており、これが該当するもののようです。

 

明治維新によって、田中城には高橋伊勢守政晃(まさあき/泥船)が入りました。村山氏はその配下にあり、しかも泥船の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住居としたそうです。

 

また、泥舟はこの建物を「光風贅月楼(こうふうぜうげつどう)」と名付け、扁額を掲げています。屋根はもとは杮葺(こけらぶき)であったようです。

 

田中城内より移築した建造物のなかで、昔から最もよく知られている建物が、この本丸櫓だそうです。

 

茶室(市指定有形文化財)

 

西側の四畳半の間が茶室・東側には給仕口のついた六畳の待合が接続している『茶室』

 

この茶室は、明治33年頃、千歳の村松家にあったものを上伝馬の奥野氏が譲り受け、屋敷内に移築・改造したといわれています。下屋敷の庭園にあった「茶室」とみられます。

 

建物はきゃしゃな造りの数寄屋建築で、西側の四畳半の間が茶室・東側には給仕口のついた六畳の待合が接続しています。

 

仲間部屋・厩(ちゅうげんべや・うまや/市指定有形文化財)

 

 

左が仲間部屋、右が等身大の作り物の馬が居る厩

 

大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてきましたが、調査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだとわかったそうです。

 

仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には、城主・本多家の家紋(立葵紋)が刻まれていました。また、解体にあたって「安政六年」(1589年)と書かれた板材が見出されており、建築年代もその頃と推定されます。

 

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長楽寺村郷蔵(ちょうらくじむらごうぐら/市指定有形文化財)

 

長楽寺村郷蔵

 

郷蔵(ごうぐら)とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には村ごとに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷きの小部屋に2人1組で泊まり込み、夜番をしました。

 

長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切り取り移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであったとみられます。

 

長楽寺村郷蔵は、市内に現存する唯一の郷蔵であり、貴重な建築物です。また、建築した時の年月と村役人(庄屋)の名が柱に書き付けられています。

[天保十四卯歳九月建替 長楽寺村 庄屋恵助 同断 八郎右衛門](1843年)

 

下屋敷庭園跡

 

左が下屋敷の『築山』、右が庭にある『家康お手植えのミカン』

 

江戸時代後期の田中城絵図によると、下屋敷には築山や泉水、茶屋や稲荷社がありました。築山は四季を通じて景色がよく月見を楽しんだといいます。泉水には多くのカキツバタが生えていたそうです。

 

しかし、明治・大正・昭和と時代が移るにつれて下屋敷の姿も変わりました。南側にあった築山は平らにされ、泉水も埋められて畑となりました。さらに、六間川の改修によって下屋敷跡は昔の半分程の広さになりました。

 

亀石(かめいし)

 

江戸時代後期の下屋敷には鶴石と亀石が置かれていたと伝えられますが、今は『亀石』のみ

 

江戸時代後期、下屋敷には鶴石と亀石が置かれていたと伝えられています。鶴石の所在は不明ですが、昭和42年六間川水路改修小路の際に大小2つの亀石が発見されました。

 

大きいほうの亀石はかつて下屋敷庭園内・中ノ島の西側岸辺に土留め(護岸)の大石として泉水に浸かって置かれていたようです。

 

徳川家康と田中城

 

田中城をめぐる、今川、武田、徳川三氏の激しい攻防戦は、戦国時代の藤枝の特筆すべき事がらのようです。

 

田中城は藤枝宿から東へ、東海道の近くに位置し、初め徳一色城と呼ばれ今川方に属していましたが、1568年(永禄12年)12月、駿河に侵攻した武田信玄の攻撃を受けます。

 

山西と呼ばれる高草山以西の志太・益津(ましず)両郡域の支配をめぐって、今川・武田両氏は対立を続けましたが、今川氏真が小田原の北条氏を頼って、掛川城を退去したのち、永禄13年正月、信玄は山西を攻め、徳一色城を陥落させ、さらに遠州攻略の拠点としました。

 

1568年(永禄17年)暮れから、1582年(天正10年)の武田氏滅亡までの期間、駿河から遠江三河にかけての広い戦域で武田勢と徳川勢の血で血を洗う激しい攻防戦が展開されています。この間の戦いを『武徳戦争』と呼びます。

 

徳川家康が、武田方の重要な軍事拠点であったこの地を、1574年(天正2年)から7年半にわたり、断続的に5回以上責め続けます。

 

1575年(天正3年)6月、この田中城を攻撃し、以後、武田・徳川両氏の激しい攻防が繰り広げられました。

 

田中城は遠江諏訪原城(牧野城)・高天神城、駿河国久能城・持船城などを結ぶ城郭ネットワークの一環として重要な位置を占めていました。

 

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1581年(天正9年)3月、高天神城が陥落したのち、武田軍は劣勢となり、結局、翌年の1582年(天正10年)3月、田中城を守る依田信蕃(よだのぶしげ)が開城して、約8年もかかりやっと田中城は徳川の城となります。

 

家康は30代の壮年期に駿河・遠江の領有を巡り武田軍との壮絶な争奪戦を経験し、天下人への資質を養ったといえます。この激しい攻防線は家康の記憶に強くとどめられ、田中城を訪れるたびに、合戦に倒れた勇士を思い起こしていたといいます。

 

家康が関ヶ原の戦いに勝利した翌年1601年(慶長6年)3月、酒井忠利(酒井正親の三男)を田中城主として、ここに近世田中藩が始まりました。この時期、田中城は大規模な改修が行なわれています。

 

大阪夏の陣で豊臣秀頼が自害して豊臣氏が滅んだ翌年の1616年(元和2年)正月21日、家康は田中城で鷹狩を行い、翌日の丑の刻(御前2時過ぎ)に、発熱し痰を詰まらせました。

 

発病の原因について『元和年録』では、次のように記されています。

”すなわち、家康は京都より田中に来ていた。幕府の呉服御用達、茶屋四郎次郎清次の話す、都で流行っているという鯛をごま油で揚げ、にんにくをすりかけた料理を聞き、早速調理させたものを機嫌よく、いつもより多く食し、その夜、腹痛と食あたりをおこしました。”

 

家康の病報は駿府に注進されるとともに、江戸城の将軍徳川秀忠にも急報され、家康は万病円と銀液丹の服用などにより、小康を得て、24日駿府城に帰りました。この食あたりは、疼痛を伴う内臓疾患の前触れでした。

 

家康は慶長12年、修築された駿府城に移って以後、田中城を鷹狩りなどで20回以上訪れていますが、これが最後の訪問であったのみならず、将軍権威の誇示の場としての役割を果たした鷹狩りの最後の機会ともなりました。

 

家康は医薬に強い関心と深い知識をもっており、駿府城にほど近い北安東に御持木林(のちの御薬園)を開かせ、孫竹千代(家光)の病に、熱病に効く紫雪(しせつ)を与えて回復させたほどでした。

 

腹中に塊あって病む症状に対する家康の自己判断は寸白虫(すはくちゅう/条虫)によるとし、侍医の職務に忠実な片山宗哲の、老齢にによる病状の悪化を案ずる諌めを耳に入れることなく、常備薬の一つで強壮薬の万病円を服用し続けました。

 

その後、4月17日、枕頭で秀忠らの見守るなか亡くなりました。天寿75歳の大往生でした。死因は胃がんとされています。

 

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田中城の特徴

 

1. 難攻不落の田中城

 

《同心円形の縄張り》

戦(いくさ)をする時、敵は外周を大周りしなければならないが、味方は最短距離で移動でき守りやすいメリットがある。

 

《馬出曲輪(三日月堀)》

城内を見られにくく、敵を分散できて防御しやすい。

◯馬出(うまだし):ジンマが出撃する際のお城の出口
◯曲輪(くるわ):堀や石垣、土塁でで区切られた区画のこと
◯土塁:土を盛って作った防御用の土手のこと
◯三日月堀:馬出の外側を防御するための三日月形の堀(武田氏が築城する際によく用いられた形)

 

《六間川が外堀とつながっていた》

お城のすぐ近くを流れている六間川をせき止めると堀に水が貯まり攻めにくくできる。(浮きになった)
※堀・・敵の侵入を防ぐために地面を掘った溝のこと。

 

《周囲が湿田地帯》
ぬかるみが多く、人馬が足を取られるので攻めにくかった。

 

《上水道完備》
飲み水に困らないのでお城に籠もりやすい。

 

2. 平城


山城と違い交通や政治の拠点となりやすい。東海道に近く、大きな川(六間川)にも近かったため交通の便がとても良かった。

 

3. 素朴なお城


本丸に江戸時代前期には本丸御殿があったが、天守閣はなく、櫓だけが建てられていた。堀を掘った土で土塁を作り、松を植えただけの場所もあった。
※本丸・・お城の中心の区画のこと
※櫓・・遠くを見渡すための高い建物のこと

 

参照元:藤枝市観光協会発行パンフレット
    藤枝市史だより 平成20年11月1日発行・平成22年11月10日発行

 

信玄、信長、家康、秀吉がこの田中城に逗留したことがある?

 

まず、1570年(元亀元年)正月、今川氏家臣・長谷川正長の守る「徳之一色城」を武田信玄が攻略、配下の馬場信房(信春)に命じて武田流の馬出曲輪を有する城を築き田中城と命名。

 

織田信長が逗留したのは、『本能寺の変』直前の1582年(天正10年)4月14日と「当代記/「信長公記」を中心に他の記録資料を再編した二次資料で信憑性に欠ける部分もあるとされています)に記録があるようです。

 

豊臣秀吉は信長没後の1590年(天正18年)3月18日に田中城に逗留(家忠日記/松平家忠の日記)と記録されており、小田原攻めの途中で、3月27日には沼津に到着し、3月29日に進撃を開始し、山中城を攻撃しているといいます。

 

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最後に

 

今回は、地元浜松を飛び出し、高速を東へ向かい静岡県藤枝市の『田中城下屋敷跡』を訪ねてみました。

 

田中城といえば、家康が好物の鯛の天ぷらを食べすぎて食あたりした話や、江戸城から駿府城に移ったあとも大好きな鷹狩に何度もでかけた田中城として知られるお城です。

 

しかも、先回訪れた金谷の「諏訪原城」と同じく武田氏が築城する際によく用いた『三日月堀』や、同心円形で縄張りをした、日本で唯一の『円郭式城郭』という珍しいお城というので、かなり興味深いお城でした。今回よく整備された下屋敷跡を尋ねることができてうれしかったです。

 

実は、今回も『JRさわやかウォーキング』に参加し、フジの花がきれいな季節ということで、藤枝市内を10kmほど歩き回り蓮華寺公園の『藤まつり』を楽しみつつ、『勝草橋』も渡り、あの「藤枝梅安」の父親のお墓があるという『正定寺』を横目で眺めながら、無事ゴール!

 

運動不足からの痛むスネを引きずりながら、車で焼津まで移動、改めての『田中城下屋敷跡』見学で、本丸櫓の階段を登れなかったことが悔やまれます。

 

同居人いわく「いろんな資料があったよ」ということで、信玄、信長、家康、秀吉がこの田中城に逗留したことがあるという資料があったようです。見たかった!

 

ということで、今回はこのへんでおしまい。最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。