sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

『高天神城』攻略の起点とされた『横須賀城跡』で全国的に珍しい『玉石積み』の石垣を見てきた

<このブログにはプロモーションが含まれています>

こんにちは!お久しぶりのsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

7月~8月は多分熱中症対策のためでしょうが『さわやかウォーキング』が休止中だったこともあり、暑さに弱いアラ還の私はクーラーと仲良くひっそりと引きこもっていました。

 

なのですが、記録的に暑かった今年の夏(毎年言ってない?)も少しずつ暑さも和らぎ、念願の『さわやかウォーキング』も再開しました。そろそろ、このアラ還日記もGWにでかけ想像を超えるスケールが印象的だった『横須賀城跡』の記事から再開していこうと思います。

 

静岡県掛川市にある『横須賀城跡』は、レトロな街並みや、三熊野神社大祭で知られる遠州横須賀に残されています。

 

徳川家康が『高天神城』攻略の起点とした『横須賀城』は、現在当時が偲ばれる石垣、堀、土塁なども残り、公園として整備されています。三層四階だった天守閣は残っていないものの思ったよりもずっと広くて高低差も多少あるため、運動不足解消にもなります。(出かけるようでしたら動きやすい服装をおすすめします)

 

東遠江の要衝だった「高天神城を制するものは遠州を制す」と言われた『高天神城』が武田勝頼によって陥落すると、家康は高天神城を奪還するため『馬伏塚城』の大須賀康高(徳川二十将の1人)に、馬伏塚城を廃し『高天神城』から西にわずか10km足らずの場所に『横須賀城』の築城を命じます。

 

1580年(天正8年)、家康は完成した『横須賀城』に本陣を移し、小笠山砦など『高天神城』の周りに6つの砦を築いて包囲、『高天神城』への補給路を断つ兵糧攻めで奪回の攻撃を始め、ついに翌年3月22日には見事に『高天神城』の奪還を果たすのです。

 

そんな難攻不落の名城といわれた『高天神城』を落とすために築かれた『横須賀城跡』を訪ねて、歴史と自然を思い切り味わってみませんか?

 

また、『横須賀城』の「不開門」が城跡の北西にある『撰要寺』に、「町番所」が『市役所大須賀支所北側』に、それぞれ移築され現存しているそうです。

 

さらに、『横須賀城』の「しゃち瓦」と「鬼瓦」は、掛川市文化財に指定され『恩高寺』(静岡県掛川市西大渕1262)にあり、家康公ゆかりの袋井市の『油山寺』(

https://www.sannigo.work/entry/230127/Yusanji)には「旧御殿の一部」が移築されているそうです。(横須賀城 - Wikipediaより)歴史好きさんやお城好きさんなら立ち寄ってみる価値あり!かも・・・。

 

横須賀城跡

 

横須賀城天守台跡にある「横須賀城址」と書かれた石碑

 

 

『横須賀城』は徳川家康が『高天神城』攻略の起点とした名城で、徳川勢が守る『高天神城』を武田氏が襲来したことがきっかけで築かれ、その後280年余年に渡り横須賀藩の中心だったお城です。

 

また、横須賀城は、山城と平城を合わせ持った平山城と呼ばれ、近世の政治の場としての面もあることから、二重の城郭要素を持っているともいわれます。

 

普通ひとつしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたいます。

 

全国的にも珍しい自然石を積んだ「玉石積み」と呼ばれる丸い石を用いた玉石垣が一部現存、復元されており当時の面影を感じられます。他にも曲輪、天守台、土塁、三日月堀なども遺構として残されています。

 

 

場所:静岡県掛川市西大渕5383

 

《アクセス》

 

バス・電車:JR袋井駅より③番乗り場から[秋葉中遠線]「大東支所行き」または「横須賀車庫前行き」で約30分、[七軒町]バス停下車で徒歩約5分

車:東名高速道路[掛川IC]より車で約30分
駐車場:無料駐車場があります。横須賀公園駐車場(西側/三の丸前)と、横須賀公園第二駐車場(南側/城趾入口)が利用できます。それぞれ5台ほど駐車できます。

WC:横須賀公園駐車場(三の丸前)にあります。

御朱印:いただけます。 ※掛川市観光ビジターセンター(掛川駅南口構内)で1枚300円で購入できます。

 

『横須賀城』は『高天神城』を奪還するため築かれた

 

高天神城跡にある『高天神社』

 

静岡県掛川市にある『高天神城』は、徳川家康と武田信玄・勝頼が激闘を重ねた山城で眼下には下小笠川などの中小の河川が流れ天然の堀となり、尾根は三方が断崖絶壁で一方は尾根続きという天然の要害で「難攻不落の城」と呼ばれていました。

 

『高天神城』からは遠州灘まで見渡すことができ、小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地で重要な城であったためか、徳川と武田が激しい争奪戦を繰り広げたことで知られます。

 

関連記事>>

www.sannigo.work

 

一方『横須賀城』は小笠山の南を通る浜筋道の押さえであると同時に、海上交通の押さえであったと考えられます。

 

「高天神城を制するものは遠州を制す」といわれた高天神城、今川氏の滅亡後に徳川家康の持城となり、小笠原氏助が城主となっていました。

 

武田氏による高天神城攻めは、一般的には1571年(元亀2年)の武田信玄による攻撃が最初で、その攻撃を徳川家康が死守し、武田勢は余儀なく退却させられたとされています。

 

ですが、最近の研究ではこの時期に信玄による三河・遠江への侵略はなく、この年の信玄による高天神城攻略はなかったのではないかという説もあり、1571年(元亀2年)の武田信玄による攻撃は、高天神城の堅固な要害を比喩する伝承ではないかと思われます。

 

1572年(元亀3年)信玄は、家康・信長と断交。武田軍は徳川領の東三河と遠江に攻め込み、信玄率いる本隊が高天神城を攻めると城主の小笠原氏助は降伏して開城。高天神城は武田の城となります。

 

ところが、そのまま西進した武田軍ですがなぜか甲斐に戻ります。翌年信玄の病死が知られるところになると氏助は徳川に帰参、家康は高天神城を取り戻したのです。

 

信玄が亡くなりホッとしたのもつかの間、信玄の遺志を受け継いだ息子の武田勝頼が1574年(天正2年)2万の大軍で高天神城を攻め込みます。

 

城主の氏助は勝頼と和平交渉をし時間を稼ぎつつ、家康に援軍を要請。本丸と曲輪だけを残すのみになるまでよく戦ったのですが、ついに降伏開城し武田方の城となったのです。

 

ところが、信長にできる武将と評された勝頼ですが、翌年の天正3年には『長篠の戦い』で織田・徳川連合軍に大敗します。すぐに家康は高天神城を攻めますが、勝頼は『長篠の戦い』での大敗からわずか3ヶ月なのに、約1万3千の兵を率いて救援、兵糧を入れることに成功します。

 

横須賀城築城

 

鯉のぼりが風に揺れる現在の『横須賀城跡』

 

一方、家康は、1578年(天正6年)水運の拠点であった高天神城を奪還すべく、横須賀城築城を大須賀康高に命じ、1580年(天正8年)横須賀城が完成。これは東からの侵攻を防御するため南部の城として必要だったからでしょう。

 

家康は横須賀城を拠点として、1581年(天正9年)勝頼に奪われた高天神城を攻め落城させます。この合戦で初代城主となった大須賀康高をはじめ、その配下の者も多くの武功を挙げ「横須賀党」と呼ばれたそうです。

 

また、この年大須賀康高により『撰要寺』(掛川市山崎1305)が創建され、境内には横須賀初代城主大須賀康高と2代城主大須賀忠政の墓碑(高さ約4m)をはじめ、小笠原一族の五重塔や本多利長一族(康重、康紀、忠利)などの合計45基墓碑群があり、1983年(昭和58年)に静岡県指定史跡に指定されています。また、『横須賀城』の不開門がこちらの『撰要寺』に移築され現存しています。

 

武田氏が滅び、織田信長が『本能寺の変』で命を落とすと、天下は豊臣秀吉の手に移る形勢となり、家康は秀吉と和睦後1568年(天正14年)浜松から駿府に居城を移し、小田原攻めの後1590年(天正18年)に関東に移封されます。

 

家康は江戸につながる街道沿いに有力な家臣を配置し関東の宿場、城下町の発展させ、直轄地には有能な家臣や代官などを抜擢し効率的な検地などで統治し、関東を大きく発展させ天下人へと階段を登り詰めます。

 

1581年(天正9年)高天神城が落城とともに廃城になると、横須賀城は遠江国南部地域を治める拠点として位置づけられます。近世を通じて石高2万5千石から5万5千石の譜代大名の居城となり、江戸幕府の老中を務めた城主もいました。

 

縄張り

 

天守台跡の手前にある横須賀城跡復興模型

 

横須賀城は山城と平城を合わせ持った平山城と呼ばれ、小笠山から西に延びる尾根を利用し築かれています。

 

現在北の丸の北東に松尾山があります。横須賀城築城当時は山城として松尾山に本丸が築かれていましたが、近世城郭として改修された際に中腹部に移動されたとのことです。

 

松尾山は小高い山になっていて、北の丸を見下ろす事ができる高い場所になっています。また松尾山の北東には多門櫓の跡が残されています。

 

多門櫓は、段の上に南北16.5km、東西4.5kの範囲の礎石上に建てられ、横須賀城の東側の重要な防備施設だったそうで、普段は武器倉庫として使用していたようです。

 

本丸を中心に東側に三の丸、西側に二の丸を配置し、外周部に堀を築き防備を固めています。

 

天守台

 

横須賀城天守台跡にある「横須賀城址」と書かれた石碑

 

本丸の北側に天守台跡があります。かつては、3重4階の天守を持つ大きな規模のお城だったであろうといわれる横須賀城。せっかくなら見たかった天守ですが、残念ながら1707年の東海地震で倒壊してからは再建されなかったようです。

 

天守台の周囲からは瓦や鯱瓦の頭部や、尾の部分が出土しているとか・・・。天守台の周囲には低い石垣が築かれ、東南隅には天守台へのスロープが築かれています。

 

本丸

 

『横須賀城』に残される「本丸跡土坑群」

 

本丸には小さな曲輪が数段あリ、スロープと階段で登っていきます。小さな曲輪を重ねることで、本丸への防備を高めているのではないでしょうか。

 

当時は櫓門が建てられていた場所ですから、本丸へ至る最も重要な防備が必要な場所だったはずです。

 

本丸跡土坑群

 

土杭とはいろいろな用途のために地面に掘られた穴の事です。この土杭からは、17世紀から18世紀初頭にかけての陶磁器類などが出土しています。(昭和63年度発掘調査の案内板より)

 

土塁跡

 

『横須賀城』本丸の「土塁跡」

 

土塁とは、外敵の潜入を防ぐために小高く築かれた土手の事です。当時の絵図を見ると、この土塁の上には白壁の塀があったようです。(昭和63年度発掘調査の案内板より)

 

二の丸

 

かなり広大な平地が広がる『横須賀城』二の丸跡

 

『横須賀城』二の丸跡の「案内板」

 

こちらの「二の丸跡」には広大な平地が広がっています。当時は二の丸に御殿が建てられ、西側には御朱印蔵、武器蔵、土蔵などの建物があり、城主の住居や執務を行う場所だったことがわかっていると案内板に書かれています。

 

三の丸

 

三の丸跡も広大な広場になっている

 

三の丸跡の案内板

 

現在三の丸跡も広大な平地が広がっています。横須賀城三の丸は11代城主井上正利によて築かれたと案内板に書かれています。

 

江戸時代に作成された絵図や記録から、南東隅に太鼓櫓、西側に牛池、東に東外堀があり、その中に複数棟の建物があったことが判明しています。

廃城後も堀の跡などが残されたましたが、昭和30年代に東外堀が石垣をそのままにして埋め立てられました。地形の変化が著しい場所ですが、発掘調査では、牛池の落ち込み、東外堀を護岸する石垣や太鼓櫓などの建物に葺かれた瓦が見つかっています。

(横須賀城三の丸跡の案内板より)

 

当時三の丸の南側に、枡形虎口の東大手門があったそうで、横須賀城の正門とされていたようです。

 

北の丸

 

北の丸の米蔵跡のようす

 

北の丸の武器倉庫などがあった場所

 

本丸の北側にある北の丸は武器の倉庫が複数建てられていたと考えられています。また、一時期は城主の側室が住んでいたともいわれています。

 

現在北の丸には、建物が建てられていた場所に石列が残されています。L字型になった石列の上に建物の仕切りの壁があったと考えられていて、絵図から北の丸には4棟の建物があったとされています。

 

たたき製防火水槽

 

北の丸の「たたき製防火水槽」

 

「たたき製防火水槽」に刻まれている菱形マークは城主西尾氏の火消し紋

 

(付近に立ち並んでいた米蔵用)

当時は、板の蓋があったと考えられ蓋用の窪みがあります。側面にある菱形マークは城主西尾氏の火消し紋です。

(たたき製防火水槽の案内板より)

 

三日月池

 

横須賀城の南側にある「三日月池」

 

横須賀城の南側(駐車場横)には三日月池があります。三日月池は横須賀城の内堀の名残で、唯一残された堀跡だそうです。

 

当時はこの三日月池のような内堀が横須賀城の周囲を取り囲んでいたと考えられます。

 

玉積みの石垣

 

『横須賀城』には全国的にも珍しい『玉石積み』の石垣がある

 

横須賀城本丸南側には、全国的にも珍しい『玉石積み』の石垣が築かれています。だんだんに積まれた自然石を積んだ「玉石積み」と呼ばれる丸い石を用いた玉石垣が一部現存、復元されています。これらの玉石は天竜川から運ばれたようです。

 

丸い石は河原にある角が取れた石です。丸い石を石垣に施工するのは、どんなプロでもただでさえ石垣施工は大変でしょうに、コロコロと転がって大変じゃないのかな?と想像します。

 

高い所では3m以上あるであろう場所もあり、鯉のぼりも揺れてなかなか壮観でした。ただ、鯉のぼりはGWの特別なイベントらしいので、普段は「玉石積み」だけでもお楽しみください。

 

明治維新とともに廃城となった横須賀城

 

横須賀城が廃城となるまでの288年間、なんと20代の城主を数えました。1868年(明治元年)20代城主西尾忠篤が明治維新の動乱のなか、安房国花房(現在の千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩は静岡藩に含まれることになり、1869年(明治2年8月)に廃城となります。

 

1873年(明治6年)には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられたのですが、城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国の史跡に指定され、残された城跡は現在国の指定文化財として整備が進められているそうです。

(掛川市観光情報より)

 

歴代の横須賀城主は?


1590年の家康の関東移封に伴い、翌年横須賀2代城主大須賀忠政は上総国に移され、豊臣氏の家臣である渡瀬氏、有馬氏が城主を努めます。

 

1600年(慶長5年)『関ヶ原の戦い』に勝利した家康は、3年後の1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。

 

1601年(慶長6年)には松平(大須賀)忠政が再び横須賀城主となり、以降譜代大名の居城となりました。江戸中期から1868年(明治元年)まで西尾氏8代の支配が続きました。

 

横須賀城の特徴

 

城の主要部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として築かれ、近世中期までに二の丸などの平城部分が拡張され、現在の横須賀城の姿になっているようです。

 

近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入り江と沼や深田に囲まれた天然の要害の池であり、この入り江には横須賀湊があったため物流の拠点になっていたとのこと。

 

横須賀湊は、1707年(宝永4年10月4日)の宝永大地震で地盤が隆起し、水深が減少したことで港湾機能を失い、その後衰退したと伝えられています。

 

また、横須賀築城当時この入り江は掛川城の外堀となっていた逆川の河口だったと考えられ、当時は横須賀城と掛川城は船で直接行き来できたと考えられているそうです。

 

現在船着門(復元?)を『清水邸庭園』(掛川市西尾斑5298-2)の駐車場で見ることができます。

 

『清水邸庭園』

 

『清水邸庭園』の駐車場で見ることができる「船着門」

 

風情のある「清水邸庭園」の入口

 

『清水邸庭園』の江戸中期に造られた「回遊式庭園」

 

『清水邸庭園』は横須賀藩の御用達の廻船問屋・清水八十郎(しみずやそろう/代々八十郎を襲名)が築いた庭園です。

 

清水八十郎は、伊勢国・一身田(いっしんでん/三重県津市)の出身。元禄年間から、江戸から横須賀湊にやって来た豪商・来家多七に仕え、横須賀派の御用商人・廻船問屋として発展しました。清水家の菩提寺は正覚寺ですが、その本山である専修寺も津の一身田にあるそうです。

 

清水家とは江戸時代に廻船業を営み、遠州・横須賀藩の御用達を勤めるなどして栄えた旧家です。また、「八十様にはおよびもないがせめてなりたや殿様に」と俗謡にも歌われたほどの繁栄をみたといいます。

 

屋敷の南に広がる回遊式庭園は江戸中期に造られたものを再現したもの、平成3年「静岡県みずべ百選」に選出された、湧水を巧みに取り入れ、水の豊かさ、清らかさが映える江戸時代中期の名園です。清水家が行政に寄付したものを公開しているそうです。

 

ちなみに、現在こちらの「湧水亭」では、美しい庭園を眺めながらお茶を楽しむことができるそうです。もちろん有料ですが・・・。

 

関連記事>>

www.sannigo.work

 

『撰要寺』

 

横須賀城跡を尋ねるなら、せっかくですので横須賀城の北西にある『撰要寺』も訪ねてみませんか?『横須賀城』の「不開門」が城跡の北西にある『撰要寺』に、「町番所」が『市役所大須賀支所北側』に、それぞれ移築され現存しているそうですから。

 

 


場所:静岡県掛川市山崎1305

 

《アクセス》

 

バス・電車:[JR袋井駅]からバスで約20分

車:東名高速道路[掛川IC]より約30分

駐車場:ありません。横須賀城の駐車場から歩けば約7分で行けます。

 

1581年(天正9年)、横須賀城初代城主大須賀康高が応声教院(現在の菊川市)17世岌屋春阿上人を召喚し創建された浄土宗の寺院です当時は入江が近く境内から太平洋が一望できた景勝地だったことから山号を景江山と名付けられました。

 

1684年(天正12年)大須賀康高は寺領50石を寄進、以降、大須賀家の菩提寺として庇護され10万石の格式を得て遠州一の寺格とされました。

 

山門は横須賀城二の丸にあった不開門(特に城内で死者や罪人を送り出した事から不浄門と呼ばれた)を明治に入り横須賀城が廃城になった際、移築してきたものです。

 

1645年~1682年(正保2年~天和2年)横須賀城主本多利長が築いたものとされ、切妻、本瓦葺、三間一戸の数少ない横須賀城の遺構として貴重なことから、1973年(昭和48年)掛川市指定文化財に指定されています。また、不開門には丸に立葵の門が付けられているのが特徴です。

 

寺宝である『絹本著色真人図』(けんぽんちゃくしょくしんじんず)は、江戸時代後期、横須賀藩の絵師である大久保一丘が描いたもので、当時の洋風人物画として貴重な事から1977年(昭和52年)に静岡県指定文化財に指定されています。

 

\大好きな千田先生の本をAmazonで買うなら/

歴史を読み解く城歩き (朝日新書)

 

最後に

 

まず!『横須賀城跡』では全国的にも珍しい「玉石垣」を見ることができます。なので、せっかくお出かけになるのでしたらしっかりと目に焼き付けていただければと思います。

 

『横須賀城跡』では『高天神城跡』を訪れたときに感じた「攻めにくそう」的な感じは一切しませんし、GWだったせいか鯉のぼりが風に揺れていたりして、かなりのどかな印象を持ちました。

 

大須賀康高がここにこの横須賀城を築いた当時は、戦国の世を必死に生きる武士たちが刀や槍をカチャカチャ鳴らしながら歩いていたと思うと不思議な気持ちになります。

 

現在の「横須賀城跡公園」なら、お子様連れでもお弁当やサンドイッチを持ってハイキング気分で楽しめる場所ではないでしょうか?

 

また、横須賀湊を彷彿させる鈴木家船着門(当時のままかは不明)が見られる『清水邸庭園』をのんびりと散策して自然を堪能しつつ、おいしいお茶をいただくのもシニア世代ならではの楽しみ方かもしれません。

 

もちろん、横須賀城跡を尋ねるなら、せっかくですので横須賀城の北西にある『撰要寺』で『横須賀城』の「不開門」を、さらに「町番所」が現存する『市役所大須賀支所北側』も立ち寄ってみることをおすすめします。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。