sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

浜松市有玉北町の良縁がかなうお寺『宝玉山龍秀院』が家康公にゆかりがあるとは知らなんだ

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

日々「暑い!暑い!」と言っていたのもいつしか「涼しい!気持ちいい」に変わり、ついに今朝は「寒い!毛布出さなくちゃ」と。たったの数週間でこんなに気温って変わる?これまでもこんなだった?と誰かに尋ねてみたいアラ還です。

 

今回の「家康公ゆかりの地」は、普段ウォーキングする範囲にあるお寺さんなのに、徳川家康とのつながりがあるなんて知らなかったため立ち寄ることのなかった遠州三十三観音霊場28番札所の『龍秀院』さん。

 

先日参加した「えんてつレール&ウォーク JR東海さわやかウォーキング」~家康公ゆかりの地『旧鈴木家屋敷跡』のコース~のパンフには、”家康公が浜松城主の際に龍秀院の五世琢翁宗珉和尚が茶会などの催しに幾度か招かれ家康公との親交が深かったといわれています”と記され、家康公のにわかファンである私も大喜びでお参りさせてもらったのが『宝玉山龍秀院』です。

 

”開創以来火事にあったことがないという稀有な存在で、古文書も無傷のまま多数残っている”と浜松市の公式サイトで案内されているように、今回御朱印をいただくためお声がけさせていただいたかなりお話好きと思える親切なご住職も、「ここは織田信長の時代からあるお寺なんだよ」と教えてくださり、かなり歴史あるお寺さんだと感動してしまいました。

 

ご本尊は釈迦牟尼仏、キャッチコピーの「良縁がかなう」根拠はここに祀られている『千手観音』が縁結びに大変なご利益があって、特に再婚の方の縁結びに霊験あらたかといわれているからのようです。

 

 

家康公とゆかりのある『龍秀院』本堂

 

 

良縁がかなうお寺『宝玉山龍秀院』

 

お寺のパンフレットによると、『龍秀院』は1521年(大永元年・室町時代・今から約500年前)後柏原天皇のとき、当時二世機堂宗鑑和尚(きどうそうかんおしょう)によって開かれた曹洞宗のお寺です。

 

『龍秀院』の千手観音は良縁観音と呼ばれ、篤い信仰を集めています。特に再婚の方の縁結びに霊験あらたかといわれているとのことです。

 

 

場所:静岡県浜松市有玉北町653番地

 

<アクセス>

 

電車・バス:遠鉄電車[積志駅]から徒歩約11分

      遠鉄電車[さぎの宮駅]から徒歩約14分

車:東名高速道路[三方原スマートIC]より約5分

  新東名高速道路[浜松浜北IC]より約20分

御朱印:いただけます。(300円)

龍秀寺の御朱印

 

『宝玉山龍秀院』を開山された宗鑑和尚は、現在の愛知県木曽川河口付近の村の出身と伝わるそうで、宗鑑和尚が6歳のとき、大きな台風が襲来、全村が海へ押し流されるという大災害が起き、父母共々家ごと濁流に飲みこまれたそうです。

 

その時、たまたま目の前を流れていく木切れに夢中でつかまった宗艦和尚だけは、ただ一人岸へ打ち上げられて助かったそうです。実はその木切れは単なる木切れではなく、千手観音様を祀った厨子だったからこそ和尚は助かったのだとされます。

 

この宗鑑和尚が観音様に助けられた霊験に驚いて出家を決意し、12歳の時、あの家康公が「和尚眠るべし」と言い名付けられた『遠州可睡斎』の潜龍慧湛(せんりゅうえたん)について出家。26歳の時観音様の御恩に報いるため、また父母の冥福を祈って仏事を行うため一寺を建立し、慧湛をご開山に迎え、自らは二世になって『宝玉山龍秀院』と名付けたのが始まりとのことです。

 

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ご住職がおっしゃった通り『龍秀院』が開かれた1521年は、信長というよりもその父親の織田信秀がまだ家督を譲られる前で信秀が10歳のころの室町時代。まだ、信長の祖父にあたる織田信定が、織田家の勢力の拡大のきっかけを作った『勝幡城』を築いた頃で、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と、津島神社の門前町として栄えていた津島を支配したころのようです。

 

徳川家康を中心として歴史をここ1年で必死に学んでいる私にとっては、その前の時代に開山されたお寺さんがこんなご近所にあったことにびっくり!長い歴史の延長線の上に現在の私達が生きていること、いや生かされていることに改めて感じ入っています。

 

徳川家菩提所

 

家康公が浜松城在城のおりに、龍秀院の五世琢翁宗珉和尚(たくおうそうみんおしょう)が茶会などの催しに幾度か招かれ家康公との親交が深かったといわれています。また、家康公に説法をし、それを気に入られ25石6斗7升の寺領が下賜されたという記録が残っているとのことです。

 

また、今回のウォーキングコースで立ち寄った「旧鈴木家屋敷跡」は、こちらの龍秀院さんから約2.7km。現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』で登場した家康が最も愛したといわれる側室の阿茶局を預けていたといわれ、家康公もたびたび訪ねたと伝わります。また家康公が阿茶局と一緒に梅の花を眺めたと伝わるのが近くにある「甘露寺」です。

 

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では、さっそくお参りしていきましょう。まず参道の入口には「曹洞宗 龍秀院」と記された茶色の大きな石碑が立っています。

 

龍秀院の入口には「曹洞宗 龍秀院」と記されたきれいな石碑が立っています

 

参道を歩いていくと、そこには瓦葺きの立派な「開運門」が見えてきます。この「開運門」をくぐると不思議と運が開けるとのことで、しっかりと帽子を脱いでお辞儀をしてからくぐらせていただきました。

 

開運門(山門・一級寺宝)

 

この門をくぐると不思議と運が開けるという「開運門」

 

この山門は、宝暦四年(今から260年前)当院十世秦賢良峰和尚様代に建てられた小ぶりながら唐(から)様式を伝えた貴重な建物ということで、歴史を感じさせる門になっています。

 

ちなみに「開運門」という名前は、昔からこの山門をくぐると不思議によい運が開けるというので「開運門」と呼ばれるようになったと案内板に書かれていました。

 

せっかくですので、何かしらの不都合がない方は、ぜひこの縁起の良い山門をくぐって、観音様をお参りしていきましょう。真夏にはうれしい緑豊かな境内を進んでいくと、大きな枝垂れいちょうが見えます。

 

枝垂れ(しだれ)いちょう(樹齢約200年・一級記念樹)

 

見上げた「枝垂れいちょう」と案内板

 

枝垂れいちょうは、18158年(文化15年)当院十六世、大興東仙和尚(だいこうとうせんおしょう)様が京都・伏見稲荷大社から伏見稲荷ご分霊を龍秀院へお迎えした記念に植樹したもので、樹齢約200年の古木だそうです。

~昭和62年10月に浜松市保存樹に指定されています~

 

こちらにでかけた9月18日のウォーキングの道中、いちょうが街路樹として植えてある歩道ではかわいらしい銀杏(ぎんなん)の実がたくさん転がっているのを見かけました。

 

いちょうの実が踏み潰されてしまうとかなりの悪臭を発しますが、落ちたばかりの実は「さくらんぼ」の黄色いタイプみたいで、めっちゃ愛らしいのです。しかも、きれいに洗って煎った「ぎんなん」はビールやお酒にもピッタリ!ちなみにいちょうの葉を本に挟んでおくと防虫効果があるそうです。

 

これから秋が深まるにつれ、こちらの枝垂れいちょうも黄色く色づいて秋から冬への季節に彩りを添えてくれることでしょう。その頃にまたウォーキングしながら訪ねてみたい場所がひとつ増えて、これからの寒い季節が楽しみになってきました。

 

最後に

 

こちらの歴史の深い『龍秀院』さんを訪ねてみて、自身の住まいにこんなにも近い場所に、家康公が平和な時代を築くために必死でがんばっていた戦国時代、そして平和になった現代までの景色を眺めていたであろうお寺さんがあったことに驚きました。

 

残暑が厳しかったこの日、さわやかウォーキングに2ヶ月いや3ヶ月ぶりに参加してかなりの汗をかくほど暑かったにもかかわらず、境内は深い緑が茂り一休みして暑さを凌ぐことができて助かりました。

 

優しくてお話が好きそうなご住職には御朱印を待つ間、扇風機のある涼しい場所へ案内していただき、心から感謝しています。その節はありがとうございました。

 

家康公が17年間を過ごした浜松ですもの、興味を持って調べればまだまだ他にもゆかりの場所はありそうです。これからの涼しい季節は『家康ゆかりの地』をめぐるのにちょうどいい季節です。

 

この夏かなりの勢いで育った草も徐々に枯れるでしょう。そうすれば山の中のお城跡も訪ねやすいですし、何よりアラ還の体力消耗が少なくて済みますから・・・春までが絶好のチャンス!

 

食欲の秋を満喫しつつ、健康に気をつけながらあちこちと『ゆかりの地』を歩きまわりたいですね。まずは転ばないこと!これ大事ですから。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。