sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

家康の側室 阿茶局 が預けられ、家康もたびたび訪れた浜松の『鈴木家』って?

🕖2022/12/07  🔄2023/04/13

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の家康公ゆかりの地浜松は、正室2人、側室は19人にも及んだといわれる家康公、その晩年を支えたといわれる「阿茶局」、さらに阿茶局が預けられていたという、浜松市東区の『鈴木家』についていろいろと調べてみました。

 

まずは、才知に優れ、甲冑に身を包み、徳川家康とともに戦場を駆け抜け、大阪冬の陣では豊臣方との交渉にあたった「阿茶局」からはじめましょう。

 

徳川家康公の石像[写真AC]

 

 

 

家康の晩年を支えた「阿茶局」

 

阿茶局は徳川家康の側室で、名は須和(すわ)、しばしば戦場にも従い、大阪冬の陣では和睦の使者を務めた才知に優れた女性です。

 

徳川家康には、今川義元の親類・関口氏純の娘で、武田家に通じて織田信長の怒りを買い殺害されたとされる「築山殿」と、豊臣秀吉から持ちかけられた政略結婚に応じた形での正室秀吉の妹「朝日姫」の、生涯で2人の正室がいました。側室は、はっきり確認できるだけでも阿茶の局(1555年∼1637年)ら8人がおり、19人とも、それ以上ともいわれます。

 

中でも甲冑に身を包み、徳川家康とともに戦場を駆け抜け、大阪冬の陣では豊臣方との交渉にあたった「阿茶局」はひときわ異彩を放った女性です。

 

阿茶局は甲斐武田家家臣の飯田直政の娘で、弟は飯田又左衛門。武田信玄の異母弟でありながら今川家で育った「一条信龍(いちじょうのぶたつ)」に仕えた神尾忠重(かみおただしげ)に嫁ぎます。

 

阿茶局の父も、神尾忠重を通じて今川家につながるために、阿茶局を神尾家に嫁がせたと推測されます。

 

神尾忠重との間に二男(神尾守世、神尾守繁)をもうけますが、1577年(天正5年)に死別した後、1579年(天正7年)25歳の頃に家康に召され側室になりました。同じ頃長男の神尾守世が、徳川家の三男「長丸(ちょうまる)」の小姓に召し抱えられていることから、阿茶局が早い時期から家康の信頼を得ていたことがうかがえます。

 

1579年といえば家康にとって、正室の築山御前と嫡男の信康を見捨てるという苦しい決断をした年でした。人生最悪とも思えるこの時期に、出会ったのが「阿茶局」です。中には徳川家康に最も愛された女性として、この「阿茶局」を挙げている書物もあります。

 

家康の女性の好みはというと、結果論からいうと「出産経験者」や「未亡人」「元侍女」。決して美人が多かったわけでなく、むしろ女中顔で、丈夫で健康、生命力にあふれた女性という感じになります。側室ですから、まずは子を生んでもらわなくては!それなら、一度出産経験があるほうが確率が高いとの判断だったのでしょう。

 

そこへいくと阿茶局は、「出産経験者」で「未亡人」、武家育ちで馬にも乗りこなすたくましい女性、家康好みの女性だったかもしれません。

 

阿茶局は、戦場にも幾度となく馬に乗り家康に同行、小牧・長久手の陣中では一度懐妊するも流産しています。

 

1589年(天正17年)に38歳で亡くなった西郷局の替わりに、10歳の徳川秀忠と松平忠吉を養育しています。側室の務めというべき家康の子どもを授かることはなかった阿茶局ですが、家康からは特別な待遇を受けていました。

 

才知に優れ、家康の信頼も厚い阿茶局は、奥向きの諸事一切(家康が着用する装束の手配など)を家康より任されており、1614年(慶長19年)大阪冬の陣では常高院(じょうこういん/浅井三姉妹の一人初)や、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)と会見して和睦の成立に尽力するなど表舞台でも活躍、晩年の家康を支え「秘書」のような役割を果たしていたのではないでしょうか?

 

ちなみに、和睦が急がれた「大阪冬の陣」で交渉を主導していたのは、豊臣秀頼の母「淀殿」です。そこで、家康は女性同士での話し合いのほうが得策と考え、大坂の陣所に阿茶局を呼び寄せ、秀忠や本多忠勝と共に協議の場を設けます。

 

その結果、阿茶局は、交渉相手として京極高次の妻「常高院」を”和議のための豊臣側の代表”になるよう説得するため、戦火の中にある「大坂城」へ乗り込みます。このような経緯を経て、豊臣方は常高院と淀殿付きの「大蔵卿局」、徳川方は本多正信の嫡男「本多正純」と阿茶局が会談に臨んだのです。

 

この会見で徳川側は、秀頼の身の保障、及び淀殿を人質としない代わりに、大蔵卿局の息子「大野治長(おおのはるなが)」を人質にすること、大坂城の二の丸、三の丸を破壊し、城の惣堀(惣構えの最も外側の堀)を埋めるという条件を提示し、大野治長と織田有楽斎が秀頼と淀殿を説得します。翌日の会見では講和が成立し、阿茶局の和平交渉が実を結んだ形になりました。

 

1616年(元和2年)の家康の死後、阿茶局は徳川家康から賜った黄金2,000毎(2,000両)で「雲光院(うんこういん)」という寺院を創建します。家康の「自分の死後も秀忠を助けるように」という遺言から剃髪せず、在家のまま「雲光院」と号するようになり、1632年(寛永9年)の秀忠の没後に正式に剃髪したとされています。

 

1620年(元和6年)秀忠の五女和子(かずこ・まさこ/東福門院)が御水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内したときは、和子の母親代わりとして上洛。また1623年の皇女(のちの明正天皇/めいしょうてんのう)出産の際にも上洛して世話をしました。

 

それらの功績により御水尾天皇(ごみずのおてんのう)より従一位を授けられ、神尾一位局・一位尼と称されるようになりました。

 

そして、雲光院はそれまでの功績から、3代将軍「徳川家光」からも手厚い処遇を受け、また諸大名からも多く献上品を受けて、豊かな晩年を過ごしたと伝えられています。1637年(寛永14年)に83歳で死去し、雲光院(東京都江東区三好)に葬られました。

 

阿茶局が預けられたという『旧鈴木家屋敷』

 

 

 

場所:浜松市東区中郡町980

 

鈴木権右衛門家は室町時代から続く家柄で、万斛村(まんごくむら/現在の東区中郡町)に屋敷を構え、強い統率力を持っていた庄屋とされます。

 

徳川家康が浜松に入城し、遠江全域を支配する際には、万斛村とその周辺村々の代官としての役割を与えられてました。

 

鈴木家は江戸時代には浜松藩に200軒ほどあった庄屋の中でも、藩主に直接目通りできる「古独礼庄屋(こどくれいしょうや)」の地位にあり、古独礼庄屋でも「独礼総代(どくれいそうだい)という、より大きな権威を持っていました。

 

独礼総代として栄えた鈴木家屋敷の周囲には、堀がめぐらされており、現在も残る鈴木家の門は江戸時代初期に建てられたといわれます。この門をくぐることができたのは、特定の身分ある者だけだったとされています。

 

屋敷内の建物は建て替えが行われているため、門ほどの歴史はないのですが、庄屋屋敷の面影が今も残っています。

 

鈴木家は家康とのつながりも深く、1570年(元亀元年)に浜松城を築いて居城とした家康は、側室の阿茶局(あちゃのつぼね)を鈴木家に預けて、浜松在城中”鷹狩り”をした帰りなどに鈴木家をたびたび訪れ、阿茶局を寵愛したといわれます。

 

江戸時代後期の1819年(文政2年)に記された鈴木家に伝わる由緒書きには、「阿茶の局を預かっていたので、家康が度々来られた」と記されていますし、さらに、江戸時代の遠州の国学の基礎を開いたとされる内山真龍(またつ)が1792年に書いた「遠江国風土記伝」にも、家康が鈴木家を訪れたとの伝承があると記されているそうです。

 

また、屋敷の東側にある甘露寺を家康が訪れた際、本堂前庭の梅の古い樹をほめたとも伝わっています。

 

甘露寺の梅

 

家康が「未開紅甘露梅」と名付けて観梅した由緒ある寺の梅の木

 

場所:浜松市東区中郡1026「遠州西ヶ崎駅」から徒歩5分

 

臨済宗法雨山甘露寺は、弘仁年間(810~824年)に内乱によって亡くなった武士や農民たちの霊を供養するために平安初期の822年に創建されたのが始まりとされています。観音堂や地蔵堂、弁財天などの他に塔頭(たっちゅう)12坊を擁し、真言宗の寺として栄えていたそうです。

 

平安末期の1172年に平重盛により七堂伽藍が整備され、かつては遠州の真言道場として栄えた大寺院でした。(1390年明徳元年に臨済宗寺院となり今に至ります)

 

その後、応仁の乱で全焼、江戸末期には中門と楼門を残して焼失しました。難を逃れた中門は、桃山時代の様式と技法をよく伝えるもので、市の文化財に指定されています。

 

桃山時代の様式と技法をよく伝えるもので、歴史的価値のある中門

 

現在、昔からの建造物として残っているのが上の写真の「中門」です。この中門は安土桃山様式の建築物で、浜松市の文化財に指定されています。軒を支える斗組(ますぐみ)や懸魚(げんぎょ)、左右の支柱などの飾り板などに特色があって歴史的価値を感じさせます。

 

この寺が応仁の乱で被害を受けたとしても、現在残っているこの中門は、家康が阿茶局を伴い、一緒にくぐった当時のままの可能性があります。家康と阿茶局、賀茂真淵などが使ったと思われる門を、今でも通ることができるのは、感動です。

 

甘露寺(浜松市東区中郡町)では、毎年寒さがゆるむ新春に梅の花が咲き、初夏を迎えころ実ができます。寺には古くから梅の木が植えられていました。戦国時代や江戸時代には境内に梅園が広がり、多くの人が訪れたそうです。

 

中でも有名なのが、浜松城在城中の徳川家康です。家康は甘露寺のすぐ近くにあった庄屋の鈴木家に、側室の阿茶局(あちゃのつぼね)を預けていました。

 

阿茶局は家康の信頼が厚く、豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いをはじめ、数々の戦に連れて行かれた記録が残っています。大坂冬の陣の際、徳川方の和睦の使者として豊臣方との交渉にあたったことも知られています。

 

家康は阿茶局を連れて、梅を見るために何度となく甘露寺を訪れたそうです。本堂の前の庭にあった古い梅の木を鑑賞するのが、特にお気に入りだったそうで、その美しさに感動し「未開紅甘露梅(いまだひらかずかんろのこうばい)と名付けました。

 

新しい年を迎える時期になると「甘露寺の梅の花はまだ咲かないか。見事な紅梅を早く見たいものだ」と心待ちにしていたそうです。

 

江戸時代の中ごろには日本を代表する国学者の賀茂真淵(かものまぶち)が、甘露寺に来ました。当時の遠州地方を代表する国学者や歌人が鑑賞しながら歌会を催したのです。

 

馬渕は「いかばかり 咲くやこの花ながめけん 言葉の匂い これもえならぬ」と歌を詠みました。

 

甘露寺は、長い歴史の中で何度か火災などの災いにあい、多くの物を失いました。家康が訪れた建物や梅園、家康が感動した梅の木などは今は見ることができません。

 

家康の感動した梅の木を見ることはできませんが、中門の前に梅の木が植えられています。

 

引用元:遠州  歴史のとびら183 浜松歴史のとびら

 

どうして鈴木家に預けたの?

 

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたあとも、1568年(永禄11年)には家康は遠江へ侵攻して翌年氏真の立てこもった掛川城を開城させ、今川氏は事実上滅亡しました。

 

徳川家康は1570年(元亀1年)に浜松城入城し、本格的な遠江の経営に乗り出すも、この後10年にわたり、武田信玄・勝頼父子と、三方ヶ原や長篠の戦い、高天神城や二俣城をめぐる攻防など、遠江を中心に抗争を繰り返していました。

 

1579年(天正7年)阿茶局が25歳の頃に家康に召され側室になったということですから、まだ地元には今川勢が残っているかもしれない時代です。家康は浜松各地の実力者を巧みに利用しながら、地の確保に全力を傾けたといいます。

 

今川の勢力は桶狭間の戦い以降も残っていたといいますし、有力な庄屋には地元の動向などの情報も入ってくるため、側室を置くことで頻繁に訪問しやすくなるし、何より今川側の情報を集めたかったのかもしれません。

 

新聞の記事によると、地域を束ねる強い統率力を持っていた鈴木家は、「家康にとっては無視できない存在だったのでは」と地元のみなさんも推察しているとおり、この鈴木家も家康公に見事に利用されていたのかも知れません。

 

この「旧鈴木家」の古民家がカフェに変身中

 

この阿茶局が預けられ、家康が鷹狩りの帰りなどに訪れたという「旧鈴木家屋敷」は現在、約14000 m2の敷地に母屋や離れ、弓道場の的場などが残っていますが、2000年頃からは無人になり、2011年(平成23年)に浜松市に寄贈されたそうです。

 

2011年には地元の有志の皆さんが草刈りなどをして整備を始めました。浜松市は当初、建物を撤去する方針だったそうですが、地元の皆さんの動きを受けて保存、活用する方法を公募しました。

 

結果、4社が応募して、「母屋を改装して古民家カフェとする」松川電気(浜松市東区)の案が2021年2月に選ばれました。

 

カフェは11月以降にオープン予定で、来年の NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送を控えて、関係者や研究者の間でも、浜松での若き日の家康が、領民とどのように接して天下人の器量を備えていったのかなど、思いを巡らせる場となるようにと期待されています。

 

2023年4月13日追記

こちらの11月にオープンが予定されていたカフェですが、中日新聞によりますと、ついに、レストランや交流スペースとして生まれ変わり、『鈴松庵』として本格的に今月11日に営業を初めたそうです。おめでとうございます。パチパチ。

 

浜北区産のキノコを使ったスクランブルエッグや県内産マグロのマリネといったランチ(2,200円と2,970円)のほか、飲み物やケーキもあるそうです。また、弓道場は地域住民が集える交流スペースにして、『帰一庵』と名付け、住民に貸し出すそうです。

 

NPO 法人「旧鈴木家跡地活用保存会」の皆さんも、「300年続く幕府を開いた家康の基礎を作ったのは浜松。大河ドラマを機に多くの人がカフェに集い、歴史を振り返りつつ人間関係を築ける場所になれば」と話していたと中日新聞は伝えています。

 

浜松の本格米焼酎『阿茶局』

 

 

 

 

なんと!徳川家康ゆかりの地 浜松 には、家康が一番愛した側室ともいわれる「阿茶局」の名前を、商品名にした本格米焼酎『阿茶局』があるんです。残念ながら、現在は『在庫切れです。この商品の再入荷予定は立っておりません』とのことです。

 

民政と戦争に明け暮れている間にも、鈴木家に訪問して、美しく、かしこい「阿茶局」を寵愛してということです。

 

と、この本格米焼酎『阿茶局』の商品説明にも書かれています。

 

アルコール度25%、720mlで価格は1,018円(税込)。浜松市民ですから、そして決して飲めないタイプでもない私。ぜひ、花の舞さんに作っていただいて、一度だけでも飲んでみたいと思っています。

 

参照元:https://www.touken-world.jp/tips/46502/

 

まとめ

 

今回は、正室2人、側室は19人にも及んだといわれる家康公、その晩年を支えたといわれる「阿茶局」、さらに阿茶局が預けられていたという、浜松市東区の『旧鈴木家屋敷』についていろいろと調べてみました。

 

阿茶局は武家の娘ということもあり、家康に従って戦場へ赴く際も馬に乗っていたと伝わります。家康の装束を整ることから、大事な交渉ごとをまとめたりと、ぜひ!宝塚歌劇団で演目として候補に入れてもらいたいほどの、かっこいい女性のようです。

 

家康にとって、築山御前、嫡男信康を見捨てるという苦しい決断をしたときに出会った阿茶局は側室として、家康を励ましたり応援したんではないでしょうか?

 

当時の農民や今川家の動静の情報を得るためもあり、室町時代から強い統率力を持っていた庄屋に預けられ、鷹狩りの帰りに寄る家康を待つ阿茶局は、家康にとってどんなにかわらしく愛しい存在だったかしれません。

 

ってことで、今回はこのへんでおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。