<この記事にはAmazonのPRが含まれています>
こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりのお寺は、静岡では最も西の湖西市の市役所付近にある『妙立寺』です。
三河一向一揆の鎮圧後、三河統一を果たした徳川家康の来攻に備えるために、1567年(永禄10年)、今川氏真は宇津山城(入出)に加えて、その南方に国境防備の城、つまり『境目城』(吉美)の築城を始めます。
この境目の城『境目城』こそが、こちらの『妙立寺』の寺域を接収して作られたお城なんです。
『境目城』の遺構の大半は鉄道建設用として取り崩され、現在は宅地や畑になり、南西部の一角のみ当時の面影を残しているといいます。また、城址の一角の竹林の中には『妙立寺奥の院』があるそうで、せっかくなら訪ねてみたかったのですが、竹林いわゆる竹やぶが恐ろしくて、気の小さい私は行けませんでした。
そして、翌年、今度は家康による浜名湖西岸にあった宇津山城攻めの際には、『妙立寺』の境内に家康の本陣が置かれました。
徳川家康が27歳の頃、今川氏の勢力下にあった境目城と宇津山城を攻め落とし、その後の浜松進出の足がかりとしたのが、現在の湖西市にある『妙立寺』です。
戦乱の波に翻弄されながらも、現在も広々した境内には、国指定の重要文化財をはじめ、多くの文化財を伝える銅葺き入母屋造りの『本堂』や、攻撃合図に打ち鳴らしたと伝わる梵鐘、湖西市指定有形文化財の『山門』などがあります。これら歴史ある建物などを眺めにいらっしゃいませんか?
妙立寺(みょうりゅうじ)
妙立寺は日蓮宗の本山、山号は延兼山。南北朝時代の1386年(至徳3年)に開創された日蓮宗のお寺です。境内はとても広く、きれいに整備されスッキリとした印象です。
銅葺き入母屋造りの『本堂』は江戸時代中期の1747年(延享4年)建立で、国指定の重要文化財や、県・市指定文化財を多く今日に伝えています。
湖西市指定文化財の山門は、320年前の1665年(寛文5年)に移築された『妙立寺』で最古の建造物です。
場所:静岡県湖西市吉見2745
《アクセス》
電車・バス:JR[鷲津駅]から徒歩約32分
JR[鷲津駅]から湖西市コミュニティバス[白須賀鷲津線・鷲津循環線(西回り)で[市役所]バス停下車、徒歩約10分
車:東名高速道路[舘山寺スマートIC]より35分
駐車場:あります
御朱印:いただけます
妙立寺は1386年(至徳3年)、当地の有力者、佐原条慶と内藤金平が、日什上人(にちじゅう/南北朝時代の法華宗の僧)を古見の地に招き開いたのが始まりといわれています。
当初は吉美東郷の地にありましたが、1434年(永享6年)川尻に転居後、さらに1567年(永禄10年)『境目城』築城のため今川氏真に摂取され、換地として現在地に移りました。
中世は今川氏から庇護されますが、今川氏が衰退すると徳川家が庇護します。特に1586年(永禄11年)家康が宇津山城に侵攻した際には、妙立寺が本陣になり、寺の鐘を陣鐘代わりを果たしたことから、その鐘を浜松城へ持ち帰り、代わりに尾張薬師寺の梵鐘を奉納したそうです。
関連記事>>
1574年(天正2年)、家康は妙立寺を祈願所とし庇護し、その後三代将軍家光は寺領76石を与えたそうです。以来、江戸時代を通して歴代将軍から安堵の朱印を受けていました。
什門の名刹として、戦前に至るまで顕本法華宗本山でしたが、同宗は政府の意向により1941年日蓮宗、本門宗と合同したそうです。
妙立寺には寺宝が多いと冒頭でお伝えしました。以下のようなものが重要文化財に指定されています。
妙立寺の寺宝
【国指定重要文化財】
・紺紙金字法華経(こんしきんじほけきょう)(開結共)10巻
平安時代の1138年(保延4年)5月16日藤原基衡(ふじわらのもとひら/平安時代後期の豪族、奥羽州藤原氏第2代当主)が中尊寺に奉納したもの
【静岡県指定有形文化財】
・絹本著色仏涅槃図 (湖西市指定第一号の文化財)
【湖西市指定有形文化財】
・大黒天立像(彫刻)
・今川氏真寺領安堵状
・今川氏真判物(古文書)
・山門
妙立寺『山門』
妙立寺山門は320年前の1665年(寛文5年)に移建され、こちらでは最古の建造物です。
形式は、二本の本柱の前後に四本の控柱を添えた四脚門。建築様式は鎌倉時代の栄朝より伝来した禅寺様を主軸とし、一部に天竺様の手法を加えています。
礎盤付きの粽柱(ちまきばしら)や藁座(わらざ)の手法などは禅寺様の意匠であり、肘木(ひじき)が本柱に挿込まれた挿肘木(さしひじき)や木鼻(きばな)の手法は禅寺様の意匠です。
正面中央に掲げる「延兼山」の篇額の背後にある菱格子欄間や、二重繁棰の木口の装飾は凝ったもので、屋根は本瓦葺で反りと勾配の釣合いは重厚な安定感をもっています。昭和5丸年11月30日 湖西市教育委員会(寺内説明板より)
関連記事>>
\<PR>『どうする家康』の本[後編]が登場/
縁起の良い鐘
徳川軍が攻撃合図に鐘楼の鐘を打ち鳴らしたところ勝利できたため、縁起の良い鐘として浜松城に運ぶ途中に、女河浦(浜名湖畔)で事故によって沈んだとも伝えられています。その代替に収められた梵鐘も、明治維新の時に換金されてしまったそうです。
6月10日の中日新聞の記事によると、国土地理院が浜名湖の推進を示した地図を作り直すため、約60年ぶりとなる湖底の調査を始めたそうです。猪鼻湖の沈んでいるとみられる旧日本陸軍の戦車や、浜名湖の水中遺跡に関する新たな発見に健の担当者も期待を寄せているとのこと。浜名湖に沈んだという梵鐘も見つかるかも!?
また、妙立寺にはトヨタの豊田佐吉翁が眠るお墓があり、妙立寺は豊田家の菩提寺です。豊田佐吉翁のゆかりの地として、お参りにみえる方も多いようです。
頂上からは視界が開け、浜名湖越しに舘山寺から富士山までが一望できるので、ついでに景色を楽しむのもいいですね。
関連記事>>
境目城
戦国時代には戦乱の波に翻弄され、徳川家康の遠江侵攻を防備するため、1567年(永禄10年)今川氏真は『妙立寺』の寺域を接収して『境目城』を国境防備の城、境目の城として築城します。
城普請には増田信濃守と水野惣兵衛があたり、換地として現在の妙立寺境内が与えられました。
翌年、徳川家康による浜名湖西岸にあった宇津山城攻めの際には、境内に家康の本陣が置かれました。軍旗を妙立寺境内の松の上に立てたといわれており、後年「旗建松碑」が建てられました。漢文調で記された碑は本堂横に残されています。
最後に
今回は家康が27歳の頃、三河一向一揆を無事鎮圧し三河統一を果たし、遠江国へ攻め入り、浜松城へ入城したころに登場する『妙立寺』を訪ねた時の記事になります。
今川氏の勢力下にあった境目城と宇津山城を攻め落とし、その後の浜松進出の足がかりにしたのですが、この境目城こそが『妙立寺』の寺域を接収して今川氏真が作ったお城なんです。
現在も、城址の一角の竹林の中には『妙立寺奥の院』の石碑?があるそうで、境目城が妙立寺の寺域だったことの証明になっているようです。
浜松入城後の家康は、武田信玄の侵攻に悩まされながらも、信長の援軍としても活躍したり、とにかく忙しい日々を送ったようです。
それでも、初めての築山殿公認の側室「西郡の方」に次女督姫(最終的に9人も子どもを産んだ)を産ませ、続いて、正室築山殿の侍女おこちゃ(のちのお万の方)を身ごもらせる暇もあったようで、雄踏の宇布見にある中村家住宅で次男の於義丸(後の結城秀康)を産ませています。
西郡の方のお墓があるのが、鷲津の『本興寺』、お万の方が於義丸を産んだのが雄踏町の宇布見の『中村家住宅』、1600年に設置されたのが湖西市新居町の『新居の関所』と、浜名湖周辺にはたくさんの「家康公ゆかりの地」があります。
ウナギを食べて、栄養をつけてから一気に回ってみるのはいかがでしょう?大丈夫!このくらいなら1日で回れますから。ってことで、今回はこのへんでおしまい。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。