sannigoのアラ還日記

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遠江侵攻を始めた徳川家康が最初に攻めた『宇津山城』は正太寺からの宇津山城跡散策コースがおすすめ

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の徳川家康ゆかりの城は、遠江侵攻を始めた家康が最初に攻めたという湖西市の正太寺鼻にある『宇津山(うづやま)城跡』、ちょうどツツジがきれいな今なら城跡までの険しい山道も楽しいのでは?と考え思い切って訪ねてみました。

 

ふもとの正太寺の駐車場に車を停めて、正太寺をお参りしてからは散策コースをツツジを眺めながら進み、険しい山道でしたが曲輪や土塁、西側頂上の石垣も確認できたし頂上から美しい浜名湖も眺めることができて「余は満足じゃ!」です。

 

浜名湖の清々しい景色を眺めながら、徳川軍はここをどうやって攻め落としたのかな?と、周りは浜名湖に囲まれ陸続きは西側のみ、攻めるなら船で来て崖を登ったか?もしくは西側の陸続きから攻めてこの傾斜のきびしい坂を登ったのか?でも、高さ2mの土塁や石垣もあるし、曲輪もあったのだから。などと、戦法を考えつつ少し汗ばみながら頂上の城跡までの散策は楽しかったです。

 

「整備があまり進んでいないようで、麓の正太寺境内からの『宇津山城跡散策コース』は雑草や竹で覆われている」なんて口コミもあったので、正直少し心配でした。

 

ところが、ツツジを楽しむ方が増える時期だからでしょうか?『散策コース』はきれいに整備され(ほんの一部階段がくずれていたけど)、順路通りに滑らないように気をつけて登れば、息切れする以外は何の問題もなく頂上までたどり着くことができます。

 

草が生えたり山道は険しいですが、お花見しながら楽しく登れる『宇津山城跡』

 

 

宇津山城跡

 

浜名湖の西岸、湖西市入出から浜名湖に湖に突き出た半島状の土地に東西二つの城跡があります。高山の城跡を宇津山古城、正太寺鼻の城跡が宇津山城と称されています。

 

北、東、南側は浜名湖で陸続きは西側のみ、自然の地形を活かした山城です。宇津山城は西の山頂を中心として南北に曲輪を連ねた曲輪群で構成されています。

 

現在も宇津山城跡には、山頂から南北に連なる曲輪群は北側部分に石積の土塁が西から北、そして東側を巡った曲輪があり、この城の最大の見所になっています。

 

曲輪や高さ2mほどの土塁、石垣、船隠し場などが残り、山頂は浜名湖の美しさを堪能できる眺望スポットです。

 

 

 

場所:静岡県湖西市入出800

 

《アクセス》


電車・バス:天浜線[地波田駅]から徒歩約30分
      天浜線[地波田駅]からバスに乗り[入出]バス停下車、約6分
      正太寺より山を登って約10分

車:東名高速道路[三ヶ日IC]から15分
駐車場:正太寺参拝者専用の広い駐車場があります。

 

左が駐車場付近の『正太寺』入り口、右が正太寺本堂

 

麓の正太寺境内からの『宇津山城跡散策コース』は、少し階段は続きますが、藤やツツジが咲く4月中旬から下旬はお花見をしながら楽しく登ることができます。途中からは舗装された道路を歩くこともできるので、正太寺の散策コース入口からは約10分で城跡にたどり着くことができます。

 

『正太寺』左側の”宇津山城跡散策コース”の順路通りに進みます

 

正太寺の東側から山頂の曲輪(現在は墓地)まで続く舗装された車道で登ることもできるようですが、”お花見の方はご遠慮ください”的な案内板がありましたし、かなりの急坂のようですから歩くのが無難かもしれません。

 

左の写真のような階段を登ってくと、右の写真のような塗装された道路に出ます

 

おすすめは、駐車場に車を停めてから『正太寺』をまずお参りしてから、正太寺の左側の『宇津山城跡散策コース』から順路通りに階段を進み墓地に出ます。舗装された道路を経由しながら山道を進むと山頂には曲輪群が残り説明板もあります。

 

左が『宇津山城跡』の案内板、右が鳥居とどなたかの石像

 

説明板から足元のよくない山道に入ると、高さ1m程の石垣が20mほど残っていて見どころです。少し進むと「宇津山城跡」と書かれた木の看板がありますので、ここから浜名湖を眺めるのが良いのではないでしょうか。

 

石垣跡があったり、頂上からは美しい浜名湖がながめられます

 

歩きにくい山道を進みますので、木の根っこや大きな石につまづかないように注意しながら、水分補給しつつ登りましょう。

 

このようなかなり足元の悪い山道を進みます。武者走りも残っています。

 

宇津山城は、遠江侵攻を始めた徳川家康が最初に攻めたお城ともいわれています。戦国時代、遠江と三河の国境に位置したこの地は、徳川の遠江侵攻を食い止めようとする今川氏にとって重要な拠点でした。

 

しかしながら、力を強めた徳川勢の侵攻により、1568年(永禄11年)12月15日、宇津山城は落城しました。城を守っていた小原鎮実(しずざね)は城に火を放ち、船で浜名湖の対岸まで逃げ延びたといわれています。

 

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宇津山城の概要

 

宇津山城は、1506年(永正3年)から1527年(大永7年)の頃にかけて、遠州進出を図った今川氏親の命で家臣の長池親能が、正太寺の裏山を利用して築城されたとされます。

 

宇津山城は、三河国への侵攻をはかる今川氏が、浜名湖を利用した舟運の支配と三河国と遠江との国境を見張る目的で築いた山城です。城主には長池親能、次に小原親高が入り享禄年間以降は朝比奈泰長が入りました1555年(弘治元年)に氏泰が病没すると、その嫡男泰長が城主となります。

 

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、反今川を明らかにした徳川家康が三河国統一に向けて邁進。徳川方に誼(ぎ)を通じる土豪が多くなる中で、掛川朝比奈氏の分流であった泰長は、惣領家(一族の長)同様に今川氏への忠誠を貫こうとしていました。

 

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徳川家康の遠江国への侵攻を防ぐために改修が行なわれ、高山に物見ができる簡単な曲輪がつくられました。1562年(永禄5年)、朝比奈泰長は、今川氏から徳川氏へ転属・離反した三河国八名郡五本松城を襲うと城主西郷正勝を討ち取り、凶報によりかけつけた正勝の嫡男西郷元正をも討ち取っています。

 

泰長はこの年11月晦日に死去し、その跡を嫡子の孫太郎泰充が継ぎました。しかし、泰充は1566年(永禄9年)正月、城中における謡初め会にて、徳川に誼を通じていた弟の孫六郎真次に殺され、そのまま城主の座を奪われます。

 

しかし、1567年(永禄10年)正月、真次も今川氏真の命を受けた小原鎮実に討ち取られてしまいます。そして、今川方は、境目城(国境防備の城)を築き、宇津山城とともに家康の来攻に備えました。

 

1568年(永禄11年)12月、家康は酒井忠次を先鋒として、井伊谷三人衆の道案内により進軍し、土豪の佐原重吉、内藤三左衛門、松野三右衛門らと境目城を落としたのち、同月12日に遠江国に侵攻。

 

同月15日、小原鎮実が守る宇津山城を攻めると、小原鎮実の家老増田団右衛門が城より打って出るのですが討ち死にし、城主小原鎮実らは城に爆薬を仕掛け浜名湖から逃亡するのです。爆薬の量が少なく、酒井勢は爆発音に驚きましたが死傷者は出なかったとのこと。

 

ついに、1569年(永禄12年)宇津山城は落城しました。その後の今川家の滅亡によって宇津山城は、三河・遠江国境の押さえとしての意味合いが薄れ、宇津山城の戦略的地位は低くなりました。

 

ところが、1571年(元亀2年)武田信玄と徳川家康の対立が表面化すると、再び宇津山城の戦略的地位が注目され、家康は国境北部から侵入する武田軍に備えるため、松平家忠を城主として西に偏った防御ライン深く彫り込まれた堀切、湖岸端まで達する竪堀など、宇津山城最後の構えが整備したのです。

 

この時の石垣が現在城址に残っている石垣です。

 

1572年(元亀3年)には松平清善が1,000貫文を賜って城番に命じられます。しかし、1575年(天正3年)の長篠の戦いにより武田軍が敗れると、宇津山城の戦略的意味合いも失われ、宇津山城の歴史には閉じられましたが、時期は不明とされています。

 

現在、正太寺の背後に曲輪軍が残されていますが、ほとんどが私有地になっています。西側山頂部の曲輪跡や土塁側に築かれた石垣は見学することができるため、景色と合わせて見どころになっています。

 

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参照元:宇津山城 - Wikipedia

 

正太寺

 

『正太寺』は曹洞宗のお寺で、浜名湖を眼下におさめる風光明媚な景勝地

 

場所:静岡県湖西市入出800

 

《アクセス》


電車・バス:天浜線[地波田駅]から徒歩約30分
      天浜線[地波田駅]からバスに乗り[入出]バス停下車、約6分
      正太寺より山を登って約10分

車:東名高速道路[三ヶ日IC]から15分

駐車場:参拝者専用の広いが駐車場あります。

御朱印:いただけます。

 

現在、宇津山城跡には正太寺が建立されています。正太寺は曹洞宗のお寺で、正太寺の裏庭には弘法大師88ヶ所巡りを模したミニ霊場「宇津山公園八十八ヶ所」があります。また、浜名湖を眼下におさめる風光明媚な景勝地としても知られています。

 

住職さんがいらっしゃれば、御朱印(受付・8:00~16:30/不在時は書き置き)もいただけるようです。

 

今回のように、『宇津山城跡散策コース』で頂上まで登らなくても、こちらの「正太寺」の境内からも、浜名湖を眼下に眺めることができるため、ドライブに疲れた時に景色を楽しむのもあり、お弁当をいただくのもありです。

 

正太寺の名物であるミヤマツツジは4月7日頃までが見頃、例年春のお彼岸頃から咲き始めます。ツツジや藤もありますので4月上旬~5月上旬も華やかです。もちろん、3月下旬にはソメイヨシノも咲き誇り、他にも木蓮や椿なども『正太寺』を彩るようです。

 

正太寺縁起

 

正太寺は、1467年(応仁元年)正太寺宿蘆寺二代の祖、受信大和尚の創建です。1529年(享禄2年)宇津山城主で今川氏親の家臣朝比奈紀伊守泰満により本堂が建立されました。以来、宇津山城歴代の城主の帰依により寺門は興隆し、1648年(慶安元年)徳川家光公よりご朱印を賜りました。

 

ご本尊の聖観世音菩薩は、807年(大同2年))浜名湖より出現、村民宇津山の中腹に堂宇を設けて観音堂となしたと伝えられ、後に、この観音さまを本尊に迎え正太寺が開創されました。

 

現在、正太寺には市の指定文化財に指定された宇都山古城図が保存されており、宇津山城主の五輪塔が残っています。

 

船隠し場の遺構

 

場所:静岡県湖西市入出800

 

《アクセス》

正太寺より山を登って約5分

駐車場:正太寺に広い駐車場があります。

 

浜名湖岸を通って山の裏側に回り込むと、船隠し場の遺構が残されています。兵士たちは火急のとき、この船隠し場の船を使って浜名湖へ脱出したといわれています。

※満潮時には、舟隠し場へ行くことができませんので、事前に干潮の時間をご確認ください。

 

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最後に

 

明日は、もう二十四節気の一つで第6番目にあたる『穀雨』です。穀物を育む雨の意味で、穀雨を過ぎると少しずつ夏が近づくといいます。この頃の雨は、あらゆる穀物を育てるということから百穀春雨(ひゃっこくはるさめ)とも呼ばれ、大地はうるおい、芽吹きの季節を迎えます。

 

先日東京周辺で雹が降ったと聞いてビックリしましたが、このように変わりやすい春の天気も安定し、少しづつ日差しが強くなってくる時期です。今ならまだあちこちの城跡や遊歩道にも草はそれほど生えていませんし、新緑やいろんなお花が美しい季節です。

 

今回ツツジの花が咲き誇るこの時期に家康ゆかりの「宇津山城跡」を訪ねて、改めて雑草がないことはとても歩きやすいことに気づきました。さらに、秋に葉が落ちた木々が遺構を覆い隠すこともないので、天守や石垣、石像などもよく見えます。

 

正太寺をお参りしてから、『宇津山城跡散策コース』の階段や坂道を登っていくのは、身体的にはツライですけど、かつて兵士や武将が歩いた道と思えば楽しいものです。

 

特に今回は家康が遠江に侵攻した際に、最初に攻め落とした城ということで興味もありましたし、浜名湖に突き出た半島状のところに築かれた城で、三方は浜名湖、陸続きは西側のみ。なかなか攻めにくいお城だったことがよくわかりました。

 

大河ドラマ『どうする家康』でも、いよいよ舞台は浜松に移って来ます。武田との攻防や、正室築山御前に長男信康との別れなど楽しみであり、あまり悲しく描かないでね、と祈りながら楽しみたいと思っています。

 

郷土の家康公ゆかりの神社仏閣や城郭などもまだまだありますので、週末や天気の良い日に訪ねていきますのでお楽しみに♪

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。