sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

お茶畑が広がる牧之原台地の丘陵地、急勾配の坂を登れば堅固な守りの『勝間田城跡』

🕖2023/05/29  🔄2023/11/21

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回はお茶畑の新緑が目にやさしい牧之原台地にあり、この地域を治めていた豪族・勝間田氏が15世紀中頃に築城したと考えられる『勝間田城跡』を訪ねてみました。

 

この『勝間田城』ですが、「お城として牧之原市で1位、静岡県で7位の観光名所」なんていう文言をネット上で発見してからというもの、実は私ったら興味津々だったのです。

 

ただ、いつものさわやかウォーキングの『島田市ばらの丘公園散策と、蓬莱橋ぼんぼり祭りを訪ねて』のコース約10.5kmを、約4時間半をかけて歩いてからだったので、急な勾配の坂はきつかった!見どころは「五重の堀切跡」で、もこもこと五重になっている堀切は初めて見ました。

 

梅雨入する前の青空の下、戦国時代以前の原型を残した山城を、自然を満喫しながら歩くことができるなんて、まさに平和な時代だからこそ。ふくらはぎの痛みに絶えてでも出かけた価値アリの『勝間田城』でした。では、さっそく詳しくみていきましょう。

 

うっそうとした本曲輪にある『勝間田城址』の石碑と案内板

 

 

静岡県史跡 『勝間田城』

 

勝間田城は、この地域を治めていた豪族・勝間田氏が15世紀中頃に築城したと考えられる戦国時代以前の原型を残した貴重な山城です(1983年2月25日県指定史跡文化財)。

 

『勝間田城跡』として、ここ数年できれいに造営されたのかしら?かなり新しい感じです。天気が良ければ「富士山」に「静岡飛行場」も見えるらしいです。(見えなかったけど・・・)

 

 

場所:静岡県牧之原市勝田2185-2


《アクセス》


電車・バス:JR金谷駅よりしずてつジャストラインバス[静波海岸入り口行き]乗車→20分→[中島バス停]下車、徒歩20分

車:東名牧の原ICより車で15分
駐車場:第一駐車場は5台分あります(牧之原市勝田2174-3)第二駐車場は大きな広場になっています。
WC:あります(無料パンフレットもここに用意されています)

御城印:1枚300円(税込)から種類もいくつかあります
 販売場所:牧之原市史料館(牧之原市相良275-2)9:00~16:00、月曜・祝日の翌日・年末年始休み。ちなみに私は牧之原市勝間の『扇松堂菓子店』さんで購入しました。

 

勝間田城の御城印、こちらは300円のノーマルタイプです

 

勝間田城は牧之原台地に連なる尾根標高100〜130m程にあり、牧之原台地から駿河湾に注ぐ勝間田川最上流部に位置します。その規模は東西200m、南北300m、総面積は12,695平方メートルに及びます。

 

尾根の最上部に「本曲輪」・「二の曲輪」・「三の曲輪」という3つの主要区画があり、周囲の稜線にも曲輪や堀切、土塁、空堀などが残っています。東方を向いて配置された堀・土塁・曲輪は、今川氏に対する備えといえるでしょう。

 

1476年(文明8年)、駿河の守護今川義忠に対し、横地氏と共に対抗するも、義忠に攻められ落城しました。

 

1985年度から何度か発掘調査が行われ、多くの遺構(建物跡・井戸・堀)や、遺物(土器・木筒・古銭等)が検出されたそうです。これらから築城過程、建物の配置、城内生活の実態を知ることができたとのこと。発掘された出土品には1476年(文明8年)頃の物もあるとか。

 

発掘された木筒に書かれた文章からは、笠原を姓とする武将の存在や、池田衆と呼ばれる土着の兵力まで城内に在城していたこと、籾や竹を調達して食料や武器・建物に利用していたことなどが推測できるそうです。

 

南区域は本曲輪を中心にけっこう狭小、逆に幅10m程の大堀切を挟む北区域にある二の曲輪・三の曲輪はそれぞれの一区画が広く、外部には土塁を巡らしてあり守りが堅固な印象です。

 

パンフレットによると、北区域は南区域より後代改修の可能性が考えられるとのことです。戦国時代に遠江に侵攻した武田氏によって、北の曲輪(二の丸)一帯が改修されたのでは?といわれています。

 

現在の勝間田城跡には縄張りがほぼそのまま現存しており、中世山城と戦国時代の山城、それぞれの特徴がよくわかる遺構です。

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

散策スタートです!

 

第一駐車場にあるWC、こちらには無料のパンフ、杖まで用意されていてありがたい

 

では、駐車場に車を停めて、しっかりと帽子をかぶり水分を補給しながら、きれいに舗装された(㊟軽自動車も通れそうだけど車では行けません)広い結構な勾配のある坂道を上っていきましょう。

 

左は勝間田城の案内板、右はさすがのお茶の産地「これ」で運ぶのね

 

右側の広場にはお墓がいくつか並んでいます。もしかして墓地なの?って感じですが、」とりあえず上っていきます。右側に「出曲輪」の「的場」がありました。

 

左は出曲輪の看板、右は苔むした石垣

 

舗装した道路が終わり、土の道をさらに進むとやっと広めの平面にたどり着きます。ここが西区域のかなり広めの「三の曲輪」と「西三の曲輪」です。「馬洗場」もあります。

 

①三の曲輪

 

真っ直ぐな木々の中を進むとそこに『三の曲輪』

 

新緑が美しい土塁と「勝俣城址夜討沿革」の石碑

 

三の曲輪は勝間田城の中で一番広い曲輪です。火災にあったと思われる堀立柱建物跡、木筒が出土したのは「馬洗場(水場)」で、井戸が確認されているそうです。

 

続いて広めの「二の曲輪」が広がっています。


②二の曲輪

 

二の曲輪は広いし、ベンチもあって眺望もきくお弁当食べても良さそう
礎石跡、礎石建物を平面復元したものもあります


二の曲輪には複数棟の建物が存在していたとのことで、そのうちの一棟は丈夫な構造の建物だったことがわかる礎石跡を見ることができます。また、この礎石建物を平面復元したものが展示されています。

 

ー二の曲輪土塁ー
曲輪を平坦に造成した際の廃土が硬く積み重ねられていました。土塁を挟み、二の曲輪よりも三の曲輪が2m程低い、段違いの地形です。

 

③大堀切

 

大堀切を横切ります。

 

大堀切を横切ると、右側に「北尾根曲輪」があります。

 

④北尾根曲輪

 

こんなに目立たない階段を上って「本曲輪」へ、右は「勝間田氏についての案内板」

 

前方のこんもりとした丘に「本曲輪」の看板が見えます。どこに登り口があるのかしら?と探すと、草のかげに階段が見えます。転倒しないように気をつけながら「本曲輪」に上がります。


⑤本曲輪

 

勝間田長清の歌碑と、意外と狭い本曲輪

 

思ったよりずっと狭い感じの「本曲輪」が広がります。本曲輪は四方を小規模な曲輪と堀切で囲み防御しています。『勝間田神社』、『勝間田城址』と掘られた石碑、勝間田長清の歌碑があります。

 

ー勝間田神社ー

 

勝間田氏を偲ぶ「勝間田神社」と、「勝間田城址」と書かれた石碑

 

「本曲輪」を降りて「東尾根曲輪」へ、もっと先にすすめば東尾根まで出ることもできるようです。

 

ー本曲輪土塁ー

 

「城跡寄進の碑」と、犀ヶ崖並みに深い「本曲輪土塁」

 

本曲輪造成時の廃土を内側から周囲に盛り、高さ2m以上の厚い強固な土塁が築かれています。

 

⑥東尾根曲輪

 

勝間田城跡からの眺望もおすすめ

 

「東尾根曲輪」の少し高い位置から景色を眺めましょう。遠くに富士山や静岡空港が見えたら、誰もがきっと心が洗われることでしょう。

 

鋭く切り込まれた5重の堀切は、東方向からの敵兵侵入を防ぎます。東尾根曲輪では、柵に囲まれた物見台が発見されているそうです。見どころなのに、写真がない!申し訳ありません。


本曲輪の神社脇から「南尾根曲輪」に出ることができます。

 

⑦南尾根曲輪

 

牧之原台地へ通じる最高所が南端曲輪です。平野が「く」の字状に見える土塁は曲輪の西半分を占めます。

 

⑧腰曲輪

 

本曲輪から「腰曲輪」にも行けそうでしたが、今回は挑戦できず(今回も「さわやかウォーキング」で約10.5km歩いたあとのふくらはぎ痛のため)残念でした。次回機会があったら行ってみたいです。

 

参照元:勝間田城パンフレット・案内板

 

勝間田氏の里

 

勝間田氏ゆかりの地として、勝間田川流域には現在も勝俣、勝間、勝田などの地名が多く残っているそうです。

 

勝間田川中流域に小仁田薬師堂(こにたやくしどう)・長興寺・中村(穴ヶ谷)城、下流域・河口部には龍眼山砦(りゅうげんさんとりで)・清浄寺(しょうじょうじ)、石雲院(せきうんいん/坂口谷川上流)があります。

 

雲海山清浄寺(しょうじょうじ)

 

場所:牧之原市道場68

 

勝間田氏一族の墓所とされる石塔群(市指定文化財)がある清浄寺は、時宗の道場として一遍上人の弟子”恵法上人”が1282年(弘安5年)に開いたお寺と伝わっています。石塔には南北朝期に建てられた時宗の法名を刻むものがあります。

 

”遊行上人(一遍上人)が諸国布教の際、勝間田の庄にも立ち寄り、その風光を愛で、川崎・藤沢・戸塚・大磯などの神奈川県の地名を、お寺の周辺地区に移したと伝えれられるそうです。

 

龍眼山砦

 

場所:牧之原市静波96-1

室町時代末期、標高75m・比高70mの丘陵端に築かれた山城です。龍眼山砦南曲輪は現在は「榛原公園」として整備され、今でも土塁・堀切を見ることができます。

 

一般的には勝間田氏の属城とされていますが、城のつくりから武田氏が築いた城ではないかといわれます。

 

墓所山腹・砦からは、勝間田氏の海運拠点の川崎湊跡、海路とした駿河湾をながめることができるので、見張りと小山、滝堺両城のつなぎ城として築城したところでしょう。

 

頂上の展望台からは御前崎から伊豆半島、富士山が眺められ、眼下に市内の静波、細江地区のまつなみが一望できる絶景ポイントになっています。

 

勝間田氏とその武士団の居館位置はまだつかめていないそうです。勝間田川流域周辺に残る勝間田氏の足跡から、その動向を探索してみるのも楽しそうです。

 

勝間田氏一族

 

勝間田(勝田)氏は、牧之原市勝間田川流域(勝間田荘)を治めた在地領主として、平安時代末期保元の乱(1156年) 史料に初めて登場します。同族と考えられる横地氏と共に鎌倉時代に活躍しました。

 

しかし、応仁の乱(1467~1477年)以降、駿府守護の今川氏と対立し、1476年(文明8年)に今川義忠の攻撃で本拠である勝間田城が落城しました。

 

離散した勝間田氏一族は、現在の御殿場市印野などに移り住み、各地区の発展に尽力したそうで、御殿場には今も勝俣という名字が多いのはこういった皆さんの子孫さんが多いからかもしれません。

 

勝間田氏一族には鎌倉時代後期、歌人として名を成した「夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)」(全36巻17,350余首)を編纂した勝間田(藤原)長清などがいます。

 

伝説では相良維頼の娘の子が横地太郎家長で、その長男頼兼が横地を継ぎ、次男が勝間田氏を興したといわれているそうです。

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

最後に

 

今回の『勝間田城』には、徳川家康は登場してこなかったのですが、実は1571年(元亀2年)2月、武田信玄が大井川を越えて本格的に遠江に侵入を開始したといい、織田・徳川方への攻勢を強めています。

 

2月23日に信玄は、小山に対峙する敵方の砦である儘山砦(牧之原市細江字儘山)を攻撃するよう命じたといいます。すでに家康と絶交していたと考えられる信玄が、家康はまだ遠江全域を掌握できていないと考え、威圧したのかもしれません。

 

また、信玄は遠江小山の能満寺に城を築き、さらに馬場信春に命じて相良城を普請させたそうです。ド素人の私も、もしかしたらこの「勝間田城」も、この時遠江に侵攻した武田氏によって、北の曲輪(二の丸)一帯が改修されたのでは?と考えているのです。

ですから、勝手に「徳川家康ゆかりの城」の一つと思いこんで、今回この「勝間田城」を訪ねてみました。

 

<2023年11月21日追記>

11月12日(日)に勝間田小学校体育館で『勝間田城趾547年祭』静岡県指定史跡40周年記念 特別講演会 が開催されると知り、先着順とあったので早起きして参加させていただきました。

 

NHKBS『英雄たちの選択』などたくさんのメディアにも登場、もちろんたくさんの著書も出ている小和田先生の講演会ということで、たくさんの歴史ファンや地元の方が参加されていました。

 

『徳川家康と牧之原の城』というお題の講演会で最も私が楽しみにしていたのは「徳川家康はこの勝間田城を再利用したか?」という点です。

 

小和田先生曰く「勝間田城は15世紀中頃のお城ではありますが、以前の発掘調査で馬洗場から落城時の木に墨で書かれた文書や土器や茶器の焼き物も出土しています。東尾根などの発掘調査を改めて行えば、もしかしたら再利用や改築したなどの可能性もあるかもしれない。ぜひ発掘調査をお願いします」(メモは取りましたがうろ覚えのため間違っている可能性もあります)とおっしゃっていたような記憶があります。

 

これらのお言葉からは、もしかしたら勝間田城も家康ゆかりの城になりうるぞ!と、そんじょそこらのみかんよりずっと甘いみかんを購入し喜んで帰宅しました。

 

駐車場からの登り坂はけっこう勾配がきついですけど、ほんの10分~15分で戦国時代を思わせる城跡に立てるんですから、本当に良いところだと思います。もちろん、健康にも、ダイエットにも良いですし(笑)ってことで、今回はおしまい。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。