sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

武田勝頼が築いた武田流築城術を駆使した大規模な山城『諏訪原城跡』

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

いつものJRさわやかウォーキングで訪れた「諏訪原城跡」がある金谷は、ちょうど5年ぶりに開催された茶娘が華麗に舞い踊る『金谷茶まつり』の真っ最中でした。

 

目的の諏訪原城跡や、東海道石畳の体感だけでなく、てぬぐいを「姉さんかぶり」し「井桁模様の着物姿」の小さいお嬢ちゃんからご年配の女性までが、ズラーーと行列して「茶娘合同踊り」を躍る姿はすばらしく、しかも終わりがないのでは?と不安に思うほど続く長い行列には肝を抜かれました。

 

歩きにくい石畳や、かなり急な坂道で疲れ切っていたはずなのに、最後にお祭りを見ることができ、大笑いしながら食べた「やきそば」もいい思い出になりそうです。

 

左が金谷茶まつりの「茶娘合同踊り」、右が祭りの屋台

 

今回は、武田勝頼が遠江攻略のために築いた、武田流築城術を駆使した大規模な山城『諏訪原城跡』です。

 

こちらを訪れたら、きっと誰もがそれまで想像していた「お城」そのものの印象がガラッと変わるのではないでしょうか。なんとなくですが、私的には「戦(いくさ)」を感じることができたんです。

 

大きな木や竹などがかなり伐採されているため、大規模な堀の深さを実感できるし、武田氏の城の特徴である三日月堀と曲輪がセットになった『丸馬出し』を歩けるなんてかなり感動的です。

 

苔むした『諏訪原城跡』と書かれた石碑

 

 

諏訪原城

 

諏訪原城跡は、国指定文化財史跡で、2017年4月6日(しろの日)に『続日本100名城』に認定されています。

 

東は断崖絶壁で攻めるのは不可能、西は扇状に曲輪や堀、丸馬出が並んでいるためこれまた攻めるのは難しい。堅固な守りの城であることを『諏訪原城跡』を歩くことで体感できます。

 

 

場所:静岡県島田市金谷

 

《アクセス》

電車・バス:JR[金谷駅]から徒歩で約30分
車:東名高速道路[相良牧之原IC]から約20分
  新東名高速道路[島田金谷IC]から約12分
駐車場:あります

御城印:ビジターセンターでいただけます。料金は300円
続日本100名城スタンプ:ビジターセンター入口横で押すことができます。
グッズ:缶バッジやハンドタオル、クリアファイルなどのグッズもビジターセンターで購入できます。

 

諏訪原城は戦国時代の東海道における戦略上の要地に位置し、はじめ1569年(永禄12年)頃に武田信玄が諏訪原城付近に砦を築き、その後1573年(天正元年)、遠江侵攻の拠点・徳川氏に対する備えとして、この年に死去した信玄の子武田勝頼が、重臣の馬場美濃守信春に命じて牧之原台地に築いた山城です。

 

馬場信春といえば武田四天王の一人に数えられ、また築城の名手として知られ、「丸馬出」と「後ろ堅固」、縄張りの最高傑作といわれています。

 

武田勝頼の母が信濃諏訪氏の出であり、城内に諏訪大明神を祀ったことが城の名の由来といいます。

 

諏訪原城は駿河から遠江に入る要衝の地にあり、高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(じんじろ)として、攻略後は兵站基地(へいたんきち/作戦に必要な物資や人員の移動や支援をする基地)としての役割を担いました。

 

1575年(天正3年)『長篠設楽原の戦い』で、勝頼が織田信長・徳川家康に敗北。この時馬場信春も討死。同年8月24日に徳川家康が入城し、城の名を『牧野城』または「牧之原城」と改名しました。本曲輪を扇のように例え、扇状に曲輪が広がることから「扇城」とも呼ばれます。

 

攻略後はもと駿河国主・今川氏真や、「家忠日記」で有名な深溝松平家・松平家忠などが城番となり、日記には堀普請や塀普請などの度重なる改修が行なわれたと記されていますが、縄張の基本は武田時代と変わっていないようです。

 

その後、1581年(天正9年)に徳川家康が高天神城を奪回、翌年には勝頼が子信勝とともに田野(甲州市)で自害。甲斐の武田氏が滅亡すると、この城の存在意義が薄れ、徳川家康関東移封に伴い1590年(天正18年)頃に廃城となったと伝わります。

 

諏訪原城の概要

 

諏訪原城跡は、牧之原台地の北端部に近い標高212mから220mの台地に立地する山城です。本曲輪東側の斜面は断崖絶壁となっており、当時の大井川は牧之原台地に沿って流れていたことから自然地形に守られた「後ろ堅固の城(うしろけんこのしろ)」となっています。

 

天正元年、武田勝頼が重臣の馬場信春に命じて築城しました。城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名がついたといわれています。

 

駿遠の国境に位置し武田・徳川も双方が国取りの拠点とした城です。天正3年に徳川家康によって攻め落とされ、牧野城(まきのじょう)として利用されましたが、廃城時期はわかっていません。

 

現在でも三日月堀と馬出がセットになった丸馬出や横堀が良好な形で残っており、戦国時代の山城の特徴を残しています。

 

島田市では史跡整備に向けた発掘調査を実施しており、現在残る遺構は徳川家康による改修の可能性が指摘されています。

 

城の特徴

 

一、武田流築城術の典型の城堀

 

攻撃のために備えられた三日月堀と曲輪(平坦地)がセットになった大きな「丸馬出」が残っています。発掘調査により現在は見ることのできる堀や曲輪は、徳川氏によって改修された可能性が大きいことがわかったそうです。

 

二、地形に守られた「後ろ堅固」の城

 

大手(表口)側は平坦ですが、本曲輪東側が断崖絶壁で、当時、城の眼下を大井川が流れる自然地形によって守られていました。

 

三、縄張りの傑作の城

 

本曲輪の扇の要にたとえ、扇状に曲輪が広がっていることから扇城ともいわれています。

 

四、街道と密接に結びついた城

 

東海道が城城内を通過し、東西交通の要衝の地に築かれた城です。

 

諏訪原城跡を順番にご案内します

 

では、『諏訪原城ビジターセンター』をスタートし、諏訪原城跡を順番に巡っていきましょう。

 

①諏訪原城ビジターセンター

 

左が諏訪原城ビジターセンター、右が諏訪原城のイメージジオラマ

 

館内で城の歴史や、諏訪原城の歴史や構造など興味ある内容がパネルで紹介されている『ビジターセンター』も整備されています。

 

場所:島田市菊川1174番地(諏訪原城跡第一駐車場敷地内北側)
開館時間:午前10時から午後4時まで
休館日:月曜日が休日にあたるときは、その翌日が休館日。12/29~1/3
入場料:無料
トイレ:あります

 

左が諏訪原城のイラスト、右が出土した鉄砲玉

 

館内では日本の城について、城の変遷、城郭用語、諏訪原城の歴史や構造、諏訪原城の年表、諏訪原城推定復元図等がパネルでわかりやすく紹介されています。また、発掘調査で出土した陶器や鉄砲玉等の資料を展示ケース内で見ることができます。

 

《諏訪原城のイメージジオラマ》

 

かなり長い間見入ってしまったのが県立島田工業高校建築科の皆さんが製作したという『ジオラマ模型』です。武将たちや旗印を見ながら激しい戦いの様子を想像したり、ラグビーボールを持っている足軽がいるから探してみて!なんていうクイズもあって楽しみました。

 

ビジターセンターの駐車場をあとに『城の案内図』を手に、大手南外堀から見ていきましょう。

 

②大手門外堀

 

左が大手門外堀の案内板、右がかなり深い堀のようす

 

③大手曲輪

 

茶畑家の中に建つ『武田方当城主今福浄閑戦死墓塚』

 

④大手北外堀

 

左が大手北外堀の案内板、右が史跡 諏訪原神社と書かれた石碑

 

⑤外堀、土塁

 

見上げれば白い花『上不見桜/ウワミズサクラ』

 

⑥二の曲輪中馬出(三日月堀)

 

二の輪曲輪中馬出の三日月堀です。武田流築城術の特徴といわれている【丸馬出】です。

 

⑦惣曲輪

 

惣曲輪

 

⑧外堀

 

かなり深く幅のある外堀、上から狙われたら最後!

 

⑨二の曲輪北馬出

 

丸い感じがわかるでしょうか?『二の曲輪北馬出』

 

28年度に復元された『二の曲輪北馬出の門』


発掘調査で確認された門の礎石から平成28年度に復元された『二の曲輪北馬出の門』があります。門の形式は【薬医門】です。

 

角度によっては、門を額物にして富士山を撮ることができるそうです。インスタ映えする写真を撮ってみるも良し、心のシャッターを切るもよし。

 

⑩二の曲輪

 

左が遠くに甲斐の国を望む風景、右が案内板

 

二の曲輪虎口(出入口)の門の礎石が残る。遠くに甲斐の国を望む、広大な曲輪です。曲輪の中央部分には、現在も仕切土塁が残っています。

 

⑪内堀

 

⑫本曲輪

 

左が本曲輪虎口(出入口)、右の写真には大井川、富士山も見えるとか

 


本曲輪虎口(出入口)の礎石が残されています。宝篋印塔(ほうきょういんとう)という石塔(中世のお墓)の一部を門の礎石の根固めに使用。富士山、大井川を望む高台。城の背景は絶壁で【後ろ堅固の城】の教科書的な立地だそうです。

 

⑬カンカン井戸

 

左がカンカン井戸、右が案内碑

 

堀の中にあるカンカン井戸。ここから汲んだ水を利用していたのだろうか?「どうして堀の中に?」とウォーキングに参加中であろう人に聞かれたけど、わからずじまいでした(泣)

 

⑭水の手曲輪

 

⑮外堀
城内で一番大きい横堀

 

⑯諏訪神社

 

こちらが城名の由来の『諏訪原神社』、しっかりお手水鉢もありました

⑰二の曲輪大手馬出

⑱二の曲輪東内馬出

⑲二の曲輪東馬出

⑳二の曲輪南馬出

 

チェックポイントは?

 

・本郭東側の大井川が眼下に流れる断崖絶壁

・西に広がる牧之原台地からの攻撃に備え扇状の構え、三日月堀と曲輪構造の複数の『丸馬出』丸城内図で確認しながらチェックすることをおすすめします。さらに、駐車場前の旧東海道を道なりに北西に進むと「大手外馬出」があります。こちらのチェックも忘れずに!

 

知って便利な『お城用語』

 

・曲輪・郭(くるわ)
土塁や柵、堀などで囲まれた平坦な区域のこと。尾根や斜面などを造成して作ることもあります。

・土塁(どるい)
曲輪などを守るために土を突き固めて高く盛り上げた土手状のもの。

・虎口(こぐち)
城や曲輪への出入口のこと。

・丸馬出(まるうまだし)
武田流築城術の特徴で、虎口の前に設けられた三日月堀と曲輪がセットのなた空間。防御するだけでなく、味方が出撃する場合の拠点にもなる。

・縄張(なわばり)
堀や曲輪などの配置のこと。

 

参照元:諏訪原城跡 - 島田市公式ホームページ

 

最後に

 

今回訪れた『諏訪原城跡』は、4月8日、9日の二日間、茶娘が華麗に舞い踊る『金谷茶まつり』が5年ぶりに開催された静岡県島田市金谷の[JR金谷駅]から徒歩30分の場所にありました。

 

金谷駅裏の金谷坂は、うっそうとした杉林のなかに石畳が敷かれた旧東海道の面影を感じることができ、さらに、石畳の坂道を現代人が登ると、息切れが激しく、足首がグニャグニャしてすごく歩きにくい事を教えてくれました。

 

武田流築城術を駆使した壮大な山城『諏訪原城跡』では、これまで何度かNHKの歴史番組で見て学んだ『丸馬出』を歩きながら体感でき感動でした。歴史的価値の高いお城として全国から城マニアが足を運ぶのも当たり前だなと感じます。

 

半円形の曲輪の外側に「三日月堀」と呼ばれる堀を造った『丸馬出』は、堀も深く、敵の攻撃から虎口を守り、城兵が出入りしにくいことも実感。曲輪の東側は断崖絶壁で、城の眼下には大井川が流れるという「後ろ堅固」の城であることもよくわかります。

 

これまで二俣城址や鳥羽山城公園などを訪ねた際には感じなかった「堀」や「土塁」などによる攻めにくさを、こちらの『諏訪原城跡』で感じられたのは、やはり、そのままに近い形で残っていることや、大きな木や竹などはきれいに整備され、城の狙いがしっかりとこの目で確認できるからでしょうか。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。