sannigoのアラ還日記

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「旧東海道」金谷坂の石畳は、江戸幕府が旅人たちが歩きやすいようにと作らせた愛のある道

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

静岡県島田市金谷に今も残る「旧東海道」金谷坂の石畳をご存知でしょうか?

 

現在のJR金谷駅の南にある金谷峠は当時、「東海道の難所」として知られていました。金谷坂の石畳は、文政年間(1818~1829)、近隣の住民が滑り止めの山石を敷き並べた坂で、幕府が歩きやすいようにと命じ作らせたといいます。

 

この歩きやすいようにと作られた「石畳」ですが、実際に坂道を登ってみた現代人の私には、坂道だから当たり前ではありますが、かなりしんどく感じられました。

 

当時の東海道はそれはそれはたくさんの人々が行き交っていたはず。それなのに歩きやすくした道がこの程度だと、おそらく人々が普段歩いていた道は、かなりぬかるみ、石などもゴロゴロとし相当歩きにくかったのでは?と想像しちゃいました。

 

現代の道路はすっかり舗装され、安全のための信号や歩道橋が整備され、車が高速で走る「高速道路」までありますから、江戸時代の人々がタイムスリップしてきたら、よっぽど驚くだろうし、嫉妬されそう。

 

こういったことをたまに感じることができるから、こちらの「金谷坂」のように地元の方が苦労して残してくれているのはありがたいです。では、そろそろ「旧東海道」金谷坂の石畳を登ってみましょう。

 

息を切らせながら石畳を登りきれば、すぐそこには城好きさんには堪らない『諏訪原城跡』があります。こちらにも立ち寄っていただければ、武田の山城の特徴である大きな『丸馬出』が見られます。

 

ゴロゴロとした山石が敷き詰められた「石畳の金谷坂の入口

 

 

旧東海道と石畳(金谷坂)

 

島田市観光協会の観光情報によると、江戸時代の金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、雨が降るとぬかるみ大名行列や旅人は大変苦労したといいます。

 

そこで、江戸時代末期、約400間(約720m)の石畳が、滑りにくい「山石」を敷き詰めて造成されたとのことです。

 

 

場所:静岡県島田市金谷坂町

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR金谷駅から徒歩5分

車:東名高速道路[相良牧之原IC]から国道473号線経由で15分

駐車場:あります(10台)

 

亀の甲羅のような石畳の登り口と、案内板

 

島田市指定史跡

「東海道」金谷坂の石畳

 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、わずか30mを残す以外はすべてコンクリートなどで舗装されてしまいましたが、平成三年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されました。

 いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の3ヶ所だけとなりました。
        平成4年3月 島田市教育委員会

 

(「旧東海道と石畳」中腹の案内板より)

 

実は案内板にかかれた箱根峠、中山道十曲峠の他にも、このJR金谷駅西方の旧菊川宿近くにある菊川坂でも、江戸後期の石畳が発掘され、2001年(平成13年)には、町内外の人々の手によって611mの石畳が復元されているそうです。

 

旧東海道と石畳(金谷坂)は、昭和60年2月23日に島田市指定文化財に指定されていますし、機会があればぜひ一度出かけたい場所です。

 

石畳に使われた山石は、牧之原台地の工作土の下に厚く堆積している「牧之原礫層」に含まれている大井川の河原石よりもざらついて滑りにくいものだったそうです。

 

ただ、明治以降の電話線や電線などの工事で掘り起こされ、舗装されたため、もとの面影は残っていないようです。

 

そこで、1991年(平成3年)、町おこし事業として町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請(みちぶしん)」で、約7万1000個の石を敷いた延長430mの石畳が復元されました。

 

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石畳茶屋

 

坂をえっちらこっちら登っていくと右側に昨年2月に閉店した『石畳茶屋』が見えてきます。2023年6月下旬には東海道金谷宿お休み処『石畳茶屋縁-en-』としてプレオープン、7月にはグランドオープン予定だそうです。楽しみですね。

 

そして、またしばらく登ると『鶏頭塚』が見えてきます

 

鶏頭塚(けいとうづか)

 

鶏頭塚の案内板

 

鶏頭塚は東海道の石畳の坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。
「曙も夕ぐれもなし鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保1744年(甲子4年)2月19日没」と刻んだ自然石の碑である。

巴静というのは芭蕉をひろめた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側のこの辺りにこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが、風雅の心ある地元の人々の心配りによって、保存が図られて、現座に至っている。

なお、塚の裏に位置する庚申堂は、昔から土地の人々に信仰され、徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。
  東海道金谷宿

(案内板より)

 

庚申堂(こうしんどう)

 

歴史がありそうな「庚申堂」と、「庚申堂の由来」の案内板

 

庚申とは、青面金剛(庚申)を祀る江戸時代に盛行した信仰で、三猿(見ざる言わざる聞かざる)の形を刻んだ塔を路傍に建てました。

 

この金谷坂の庚申堂も昔から土地の人々に信仰されたもので、江戸時代の大泥棒日本左衛門(にっぽんざえもん)は、この庚申堂で夜盗の姿に着替えたと伝えられています。現在のお堂は新しく建てられたものだそうです。

 

旧東海道の上り下りの旅人達が道中の無難息災、家内安全を祈願して街道筋に点在する効験あらたかな庚申堂に立ち寄り、誠意を込め願望の成就することを祈念して旅立ったので、堂宇に猿田彦命、およびその主従を合祀して歴年4月「カノエ・サル」の日に追善を施行しております。
  平成4年「庚申ご縁年」60年に一度 地元・坂町々内会

(案内板より)

 

江戸時代の大泥棒日本左衛門って?

 

「しらざぁいってきかせやしょう。浜の真砂と五右衛門あ、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、・・・名さえ由縁の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだ」。これは、歌舞伎『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』浜松屋での弁天小僧の名せりふです。

 

5人の盗賊衆が七五調で名乗りをあげる。次幕「稲瀬川勢揃」で、大親分日本駄衛門(にっぽんだえもん)は、「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に・・・」と大見栄を切ります。

 

1862年(文久2年)、江戸市村座初演で大当たりし、現在も上演されるこの芝居。弁天小僧は架空の人物といわれますが、統領の日本駄衛門は、このこの庚申堂で夜盗の姿に着替えたと伝えられている実在の人「日本左衛門」をモデルに描かれました。

 

日本左衛門の生い立ち

 

日本左衛門は本名は浜島庄兵衛といい、生まれは1719年(享保4年)、父は尾張藩の下級武士で、父が七里役として金谷宿に赴任した折に同行したらしいです。

 

通称を尾張十(重)、幼名は友五郎。幼い頃から聡明な子どもでしたが、17〜18歳の頃から飲む打つ買うの放蕩者となり、20歳でとうとう勘当されてしまいました。

 

本格的に盗賊活動に入った時期は1741年(寛保元年)、日本左衛門が23歳のときといわれ、遠州の豊田郡貴平村に本拠を構えて東海八ヶ国を荒らしまわったと伝えられます。


庚申塔三猿

 

まだまだ、石畳の坂を登っていくと、こちらにも歴史がありそうな「庚申塔三猿」

 

かなり古いのでは?と思えるこの「庚申塔三猿」には、下記の言葉が記されています。

 

良き事は大いに広め
愛しきをば
見ざる、聞かざる、言はざるが良し

 

すべらず六角堂

 

中腹にある『すべらず六角堂』赤い旗が風になびいています

 

石畳の中腹の六角堂には「すべらず観音」が祀られています。「すべらず地蔵」のいわれは、ここの石畳が「すべらない山石」を用いていることから、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。

 

また、「すべらない」にちなんで、合格祈願の名所としても知られ、毎年1月中旬には「すべらず地蔵尊合格祈願祭」が開催されるとのことです。きっと受験生やそのご家族で賑わうのでしょうね。

 

ここのお地蔵様、六角堂・鞘堂は、町民の皆さんの手により据えられたものだそうです。「金谷坂の石畳」同様、こちらの島田の皆さんは地元愛に溢れていると感じます。きっと住みやすい町なんでしょう。

 

石畳下り口

 

石畳下り口で、地蔵尊の入り口。近くに駐車場があります。


やっと『石畳下り口』に到着!ここで石畳坂は終了です。ここから『諏訪原城跡』は、もうすぐそこです。

 

ここで、JR金谷駅の南側にあるお寺『長光寺』もご紹介しておきましょう。今回降り立った金谷駅の近くにありかなり気になったので調べてみました。

 

長光寺にある『芭蕉句碑』

 

場所:島田市金谷新町2253

 

長光寺参道の入口周辺にはもみじ、階段を登った先にイチョウ、本堂前には大きな桜の木と。四季折々楽しめるお寺です。境内には「芭蕉句碑」があります。

 

「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食はれけり」

 

「芭蕉句碑」には大井川あたりで詠んだとされる上記の句が記されています。

 

参照元:金谷宿から掛川宿(1/9)、JR金谷駅から金谷坂の石畳へ | おじん0523のヒロ散歩 - 楽天ブログ

 

諏訪原城

 

武田勝頼が遠州攻略のために築いた大規模な山城で、「続日本100名城」にも選ばれた国指定史跡で、ここからの富士山や金谷の市街地を見渡せる景色は最高です。

 

武田の城の特徴ともいうべき「三日月堀」と曲輪がセットになった大きな『丸馬出』を見たい!と思ったら、山梨の新府城や、この諏訪原城がおすすめです。

 

諏訪原城は、戦国時代の東海道における戦略上の要地に位置し、戦国最強武将『武田信玄』がはじめに砦を築き、その後1573年(天正元年)に、信玄の子『武田勝頼』が家臣の馬場美濃守信春に命じて牧之原台地に築かれた堅固な守りの城です。

 

馬場信春は信玄の軍師だった山本勘助から築城の技術を学んだといわれ、長野県の『牧之島城』をはじめとして、静岡県のこちらの『諏訪原城』や、『田中城』など堅城とされる土の城を多く手掛けています。

 

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最後に

 

昨年からちょこちょことJRの「さわやかウォーキング」に参加して、10km前後を歩いているので、多少は体力・筋力もついてきたと感じていましたが、この石畳の金谷坂と島田の「白岩寺」の急な坂道はきつかったです。

 

正直、旧東海道の石畳からは江戸の風情を感じるどころか、江戸時代の旅人や参勤交代での坂道に関わる苦労ばかり気になってしまった金谷坂でした。登ったからこそ、この金谷坂は、そんな旅人の苦労を取り除くため歩きやすい「石畳」を作らせた幕府の愛のこもった石畳なんだなと実感できた気がします。

 

家に帰ってからしっかりと振り返ってみれば、めったに味わうことのできない石畳の感触や、盗みはすれども非道はせじという江戸時代の大泥棒日本左衛門が、夜盗の姿に着替えたという「庚申堂」や付近の様子を知ることが出来たのも、大きな財産かなと思っています。今度はどこにでかけましょう?

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。