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こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
浜松市は全国でも2番目に広い面積を誇り、全国的にもうなぎや浜松餃子でよく知られ今年のGWもたくさんの人が訪れています。
浜松市民の私も、海の幸が豊富な遠州灘、カキやウナギで知られる浜名湖、浜松城を中心とした城下町(街中)にはよく出かけますが、さすがに面積が広いだけあって、天竜杉の深い緑に囲まれた高い山や、切り立った岩が多くアユ釣りができるような川沿いの北遠は、出かける機会に恵まれず、これまでは足を踏み入れることも少なかった地域です。
ところが、今年のGWは遠州と信濃との国境にほど近い場所まで足をのばしました。なぜなら、大河ドラマ『おんな城主直虎』でロケ地になり有名になった遠州最北端の山城『高根城』、武田軍が遠江に進出した際には武田信玄と徳川家康による戦国時代の攻防の地ですし、実は”二重掘切”がすばらしいという口コミも発見したからなんです。
なんと、あのハンバーグで有名な『さわやか』が2店舗もある別名「ぐるめ街道」のR152をひたすら北上、天竜川をお共に信康さんの二俣町を通過し、緑深い船明ダムをながめ、「花桃のさと」でできたての「みそまん」で腹ごしらえ。
まだまだ北上、秋葉神社の入口を通り過ぎ、今度は秋葉ダムの絶景、龍山文化会館をながめ、やっと水窪の町らしきところへ突入!細い道を、対向車が来ないことを祈りながら進み、ようやく駐車場に到着し約2時間の山中ドライブって感じでした。
さあ!ここからが本番です。ロケ隊のような気持ちで、運動不足の人にはキツイといわれる階段の多い20分の登山道も必死です。どうにかやっと『高根城』を無事制覇!しっかりと使用フリーの杖を利用しましたが・・・。
今回はこの『高根城』についていろいろと調べていきたいと思います。
高根城(たかねじょう/浜松市指定史跡)
高根城は、遠州最北端、信濃との国境にほど近く、一帯を支配した国衆奥山氏が街道を押さえる拠点として、また信濃国境警備を目的として築いた城です。
両国を結ぶ秋葉街道を見下ろす標高420mの九頭合(くずごう)、通称三角山の頂上に築かれた山城、現在も城跡からは水窪の街を一望でき、その景色はまさに、駐車場の脇にある稲荷神社にお参りしてから、階段の多い険しい山道を30分も登ってきた人びとへのご褒美のように感じられます。
ちなみに、山頂で知ったのですが、山門広場から公園内を通り城の南側に出るルートもあったようです。こちらは比較的穏やかな道みたいです。
場所:浜松市天竜区水窪町地頭方184
《アクセス》
電車・バス:JR飯田線[向市場駅]から徒歩約30分
車:JR浜松駅から国道152号線を北上し水窪橋を渡り高根城公園駐車場へ約1時間45分
新東名高速道路浜松・浜北ICより約1時間15分
駐車場:あります(WCあり・約10台)
では、さっそく高根城の駐車場から、頂上の”二重掘切”を目指してキツイ坂道を”休み休み”のんびり登っていきましょう。
それほど急勾配というわけではないのですが、延々と続く階段にモチベーションも肺機能も下がりっぱなしで苦しゅうございます。ですが、必死で登った先には水窪を一望できるすてきな景色が見られます。ここで再び、小休憩の「みそまん」で糖分を補給しました。
階段を登りきったところが本曲輪のようです。発掘調査の成果に基づき、門や木柵、井楼櫓(せいろうやぐら)、礎石建物等の建物が復元されています。建物の復旧に際しては釘を一切使用せず楔を用いて組み立てるなど、当時の建築技術が再現されているそうです。
案内板によると、城は山頂部(最高所)に本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を南北に配し、各曲輪には堀切が設けられています。
南北に細長い尾根に沿って曲輪が築かれており、本曲輪の南側には二の曲輪と三の曲輪が配置され虎口には門が設けられていました。
曲輪の間は堀切が掘られており、特に三の曲輪南側の「二重堀切」は、中央に土塁を挟んだ構造で幅約29m、深さ約9mと城内で最大規模の掘切です。
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井楼櫓
高根城で一番目立つ『井楼櫓』は、高さ約8m。発掘された柱穴をもとに、こちらも釘を一切使用せず当時の建築技術で復元されています。
土塁・堀切
二の曲輪と三の曲輪には、「堀切」が設けられていました。堀切の東側にには「土塁」が確認されています。この「土塁」によって、城内道は直線で二の曲輪斜面を通ることが可能となっています。
「堀切」の形状は断面逆台形の箱堀で、上幅が約11m、下幅が約1m、長さ約11mです。岩盤を削って造られており、その深さは約8mで、45度という急角度に加工され丁寧な造りです。「土塁」は岩盤を彫り残し造られ、幅約1.5mで、堀底からの高さは60cmです。
土橋・切岸
「土橋」は、大勢の敵兵が一度に攻めることができないように狭く造られています。幅は約30cm。その頃の兵士たちはきっと痩せていたのでしょう!腹囲100cmの私には通れませんもの。「切岸」は曲輪の周囲にめぐらされた人工的な斜面のことです。
二重堀切
三の曲輪の南側位置する最終の堀が、真ん中に土塁を挟んだ「二重堀切」です。幅約29m、深さ約9mで、中央に高さ約4mの土塁が設けられ、防備を強固にしています。この「二重堀切」をもって、城内と場外が区切られていました。
箱掘・薬師堀
「箱堀」」は堀の底辺部分が広く、守備兵が走りやすくなっている堀のこと、「薬師堀」はV字方に彫り込み、敵兵が走ることが困難な堀のことです。また、行き止まりにして敵兵の身動きが取れないようにし、攻撃を容易にした堀を「袋地」といいます。
城の東西に位置する崖地形を生かし、たくみにに堀切を取り入れたコンパクトな姿は、戦国期の形態をよく残しているといわれています。
高根城の歴史
この高根城は南北朝時代、後醍醐天皇の孫である尹良(ゆきよし)親王を守るために、この地の豪族である奥山金吾正貞則が、街道を押さえる拠点として1414年(応永21年)に築いたといわれています。
その「奥山金吾正貞則」の名が、高根城跡の本曲輪跡に立つ霊碑に残っています。
奥山金吾正貞則こそが奥山氏の始祖であり、金吾八幡神社に祀られています。奥山金吾正貞則、奥山大膳亮良茂、奥山能登守定之、奥山民部少輔貞益、この4人が4代にわたり高根城主を務めました。
戦国時代には駿河の今川氏真等から安堵状を得ているため、15世紀末ごろから今川配下に組み入れられたと思われます。奥山支配は今川家の没落と、武田氏・徳川氏の台頭があった永禄年間後半頃に大きく変化することになったようです。
『遠江国風土記伝』によると、永禄年中(1558年~1570年)、高根城主が奥山民部少輔貞益(おくやまみんぶしゅうゆさだます)の時、姻戚関係にあった信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わります。
”1569年(永禄12年)には、今川氏真・徳川家康双方から所領安堵状を、1572年(元亀3年)には武田信玄からも安堵状を得ています。遠州忩劇(えんしゅうそうげき)の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に武田配下に組み込まれた可能性が高い。”と案内板には書かれています。
高根城は落城後、武田方により改修が行われ、1572年(元亀3年)の武田信玄が徳川家康と三方ヶ原で戦った遠江侵攻においては武田軍の拠点となり、長篠の戦い後、武田氏の遠江からの撤退により廃城となっています。
現在、本曲輪や井楼櫓、主殿、城門などが復元されています。ただし、復元された城は奥山氏のものではなく、武田側によって改築された後のものです。
1993年(平成5年)に「整備計画策定委員会」が設置され、静岡県文化課の指導援助の元に高根城を中世の城として復元整備するべく1993年から1999年にかけて発掘調査が実施されました。
この発掘調査の結果に基づき、本曲輪部分に井楼櫓(せいろうやぐら)、主殿、城門等の建物が平成15年に復元され、戦国山城の威容を漂わせています。また、戦国時代の山城全体を復元した事例として注目されているお城です。
この城は近くを流れる河内川が水窪川に合流する地点の自然の堀を利用した山城で、ここから一望できる水窪川の対岸には奥山氏が親王のために仮宮を建てています。この地を内裏(大里)、御旗を掲げられたところを御旗(小畑)として、今でも大里、小里の地名が残されています。
水窪と北遠の豪族奥山氏
往古、浜松市水窪町一帯は信州伊那郡遠山郷に含まれ、奥山郷と呼ばれていました。奥山という呼び名は、遠山郷から見て奥の山と呼ばれたからといいます。
遠山郷は天竜川の支流遠山川に沿って開けた地域で長野県旧南信濃村を中心とした山峡の里で、青崩峠、ヒョー越峠を南下すれば水窪町です。
奥山郷がいつの時代、信州から分かれて遠州に偏入されたのか、その時期は定かではないとのこと。ですが、881年(元慶5年)に山香郡が設置されたときには、山香郡奥山村になったことが記されているそうです。
山香郡に含まれていたのは、大岑(大峯)、興利(杉村)、岐階(熊切)、気多(気田領家)の四地域で、大岑と呼ばれた辺りが建武年代(南朝・1334~1336)から奥山郷と呼ばれるようになったとのこと。
奥山郷に含まれていた村々は、相月村、領家村、地頭村、大井村、佐久間村の5か村で、水窪はこの中の村に含まれていました。
地名を見ると領家、地頭方など荘園に関係あるものが少なくないようです。これは鎌倉時代、ここに山香庄が置かれていたからで、北遠の豪族奥山氏の先祖は、この荘園の管理に当たった公文(くもん)であったと考えられるといいます。
水窪町という地名となったのは大正14年で、それまでの地名奥山村は豪族奥山氏からとったともいわれています。
戦国の昔、水窪には地頭方に九頭合城があり、佐久間には水巻城があり、相月には若子城が築かれ、それらの城主たちはいずれも奥山氏一族に名を連ねる武者たちでした。このように北遠地方における奥山氏の勢力は想像以上に絶大なものでした。が、その奥山氏も戦国時代のすざまじい権力争いによって滅び去りました。
水窪町長尾に「金吾八幡社」という神社があります。祭神は奥山氏の始祖奥山金吾正定則公で、笛一巻(長さ一尺三寸二分)、甲鍬形(長さ一尺四寸)、半弓張の三点を社宝として蔵しています。
この神社は、尹良親王に仕えた奥山氏の始祖奥山金吾正定則を祀っているものですが、奥山金吾正定則がこの地にいつの時代に住みついたのかはわからないようです。
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尹良(ゆきよし/由機良)親王と奥山氏
尹良(ゆきよし)親王とは後醍醐天皇の第三皇子宗良親王が、浜名湖北の豪族井伊道政の娘に産ませた御子(異説もあります)といわれ、後醍醐天皇の孫にあたります。(「遠江国風土記」)
奥領家に住んでいた奥山氏は、14世紀の中頃から、天野氏と争いながら、今の水窪、佐久間の地域で力を伸ばしていきました。
高根城(九頭合城)は、尹良(ゆきよし)親王に従っていた奥山金吾正定則が、親王をお守りするために1414年頃に築いたといわれています。この城は山の険しさを守りに利用した山城で、俗名三角山とよばれる頂上にありました。
奥山金吾正定則の子孫は、大膳亮良茂・能登守定之・民部少輔貞益と代々この城に住み、貞益の弟・美濃守定茂は中部(佐久間町中部)水巻城主に、加賀守定吉は相月(佐久間町向皆外)大洞・若子城主に、兵部丞定友は大井(佐久間町大井)小川城主になったそうです。
南北朝時代から戦国時代へと時代は移り、この地域に権力を及ぼしていた今川義元も桶狭間の戦いによって倒れると、三河の徳川家康、甲斐の武田信玄の力が及ぶことになりました。
そして、高根城築上からおよそ160年後の1569年(永禄12年)、高根城主が奥山民部少輔貞益の時、信州遠山郷の遠山土佐守に責められ落城しました。
古文書によると、水巻城主美濃守定茂は、兄を滅ぼそうとしてひそかに遠山遠江守・土佐守父子と謀り、貞益の留守を狙って、長尾(水窪町長尾)に隠居していた父の能登守定之を討ち、高根城を攻めて城に火を放ったといいます。
高根城落城後、1572年(元亀3年)甲斐の武田信玄は大軍を率いて駿河より上洛(異説あり)の途上、一言坂、二俣城と攻め込み、三方ヶ原で徳川家康と戦い勝利を治めています。
この時青崩峠を越えた別働隊(山縣隊との説あり)によってでしょうか、すでに高根城は武田軍の拠点として大改修が行なわれ、さらなる遠江侵攻を目指していたと考えられています。
参照元:南北朝時代の北遠の豪族奥山氏 - 水窪情報サイト|水窪観光協会 高根城跡/浜松市
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最後に
GWに私が訪ねたのは『高根城跡』。信濃との国境にほど近い場所にあり、大河ドラマ『おんな城主直虎』でロケ地になり有名になった遠州最北端の山城です。
武田軍が遠江に進出した際には、武田信玄と徳川家康による戦国時代の攻防の地にあったということで、三方原台地の麓というか、信玄軍が三方ヶ原へ向かう「欠下」付近に住まう私にとって一度は訪ねてみたい場所でした。さらに、この『高根城跡』にはすばらしい「二重堀切」があると聞き、ぜひ!見たい。写真に残したいという思いもあったのです。
約20分と聞いていた階段の多い登山道は、アラ還で運動不足の身体にはかなり堪えましたが、何度も立ち止まり30分以上かけて制覇しました。本曲輪のある頂上部の『井楼櫓』は見事でしたし、なんといっても「二重堀切」に始まり「切堀」や「土橋」なども含め、堅固な城の縮図を見た感じでした。
ちなみに高根城がある「水窪」には家康公とゆかりのある『山住神社』もあります。『山住神社』は全国でも珍しい「山犬信仰(おおかみしんこう)で、狛犬腕はなく狛山犬が社を守っています。
そして、三方ヶ原の戦いで大敗した家康を、この山澄の犬たちが守ったという伝説が残されています。このお話はまた別の機会に!
なぜなら「さわやかウォーキング」で出かけた”藤枝の蓮華寺公園のフジを楽しむコース”で立ち寄った『鬼岩寺』の伝説ともしかしたらつながっているかも!?しっかり調べてみたいので、しばらくお待ちを!
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。