sannigoのアラ還日記

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『白虎隊の日』に徳川慶喜を擁する旧幕府軍と新政府軍の内戦「戊辰戦争」を知る

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今日は8月23日「白虎隊の日」です。1868年(明治元年)戊辰戦争(ぼしんせんそう)の時、会津藩の16・17歳の少年たちで構成されていた「白虎隊」が城下の飯盛山で自刃した日になります。

 

白虎隊とは、年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの部隊に分かれ、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で構成されていました。

 

会津藩などの奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げます。

 

8月23日、飯盛山にいた白虎隊の士中二番隊員が、城下のまちに火の手が上がったのを若松城が落城したと思い、20人(7人とう説もあり)の隊員全員が自刃してしまいました。

 

最近歴史に興味シンシンなため、会津藩の教えで知られている「ならぬことはならぬものです」という言葉について調べてみました。

 

白虎隊のようにまだ子どもといえる年齢なのに、武士の子というだけで自らの手で命を落とすことになるなんて、すべて「戊辰戦争」のせい!ってことですよね。

 

なので「戊辰戦争」、「徳川慶喜」についても調べています。「白虎隊の日」に少しだけ幕末の頃を思ってみませんか?

 

白虎隊で知られる会津若松のシンボル鶴ヶ城(会津若松城)のようす[写真AC]

 

 

 

ならぬことはならぬものです


会津藩では同じ町に住む6歳から9歳までの藩士たちの子どもたちは、10人前後で集まりをつくっていたそうです。

 

この集まりのことを会津藩では「什(じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が1人什長(座長)となっていました。

 

毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべての「お話」が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いたものがいなかったかどうかの反省会を行っていたんですって。

 

「お話」とは?

 

「お話」

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ

一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ

一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ

一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

一、弱い者をいぢめてはなりませぬ

一、戸外で物を食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ※すべての什にあったものではない


ならぬことはならぬものです。

 

このような「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」します。

 

もし事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、次のような子どもらしい制裁を加えました。

 

一、無念(むねん)

一番軽い処罰で「無念でありました」と言って、お辞儀をしてお詫びする。

 

二、竹篦(しっぺい)

「シッペ」のことで、制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか、または手の甲に加えるか何回加えるかを決めたとのこと。

 

三、絶交(ぜっこう)

一番重い処罰。「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれにする」こと。
めったにない処罰だが、一度「絶交」を言い渡されると、父親か兄が付き添い「お話」の集まりに来て什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができなかった。

 

四、その他

火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もある。

 

このような審問は今では考えられない処罰で、当時の子どもにとっても辛いものだったと想像できます。

 

当時の会津の武家の親たちってなんてひどい人たちなんだろう!こんなひどい事を子どもたちにさせて、日本って国はどれだけ子どもに厳しい国だったのだろうって思いませんか?

 

ですが、じつは「お話」も「審問」「制裁」も、大人たちが強制的に子どもにやらせたわけではないそうです。

 

大人は全く関係なく、「会津武士の子はこうあるべき」ということを互いに約束し、励み合うために子どもたちが自分たち自身のために作ったものだったそうです。

 

それにしても、子どもなのに本当自分に厳しい子どもたちだったってことがわかります。時代がそうさせたのだとは思いますが、それにしてもキツイ日々だったことでしょう。

参照元:フリーWEB塾「郷什塾」へようこそ!

 

そんな厳しい子ども時代を過ごした後、当たり前のように白虎隊隊士になった青年たち。日々の暮らしの中で自刃する日が来ることも覚悟して暮らしていたってことなのかしら。ちょっと想像できない戦争を知らない大人です。

 

亡くなった隊士たちは大人になることなく人生を終えてしまったのだけど、「短くて太い人生だった」とあきらめることができたのだろうか?

 

今となっては、鎌倉時代からずっと戦国時代が続いていた頃よりは少しは平和な時代だったはずなのに。どうして?と心の底では思ってたはずよね。

 

ただ、戦死や自刃しなかった隊士290人は、明治維新後も生きることができたみたいで良かった。本当に命は大事にしなくちゃ!

 

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これまでの歴史の中でいろんな不幸なことがあって、ようやく今の平和な世界になってきたんだから。たくさんの不幸を無駄にして逆行したら駄目よね。ところで、白虎隊って?

 

白虎隊とは?

 

日本の幕末維新における戊辰戦争の一環「会津戦争」に際して、会津藩が組織していた武家男子を集めた部隊のことです。

 

白虎隊の名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来しているそうです。

 

中には志願して生年月日を改めて15歳で出陣した者がいたり、幼少組として13歳の少年も加わっていたといわれています。

 

「その時代、会津で、武士の子、男の子に生まれなくてよかった」なんて思ってしまいます。が、歴史的な悲劇のひとつとして片付けてしまうのも申し訳なく、ただただそんな時代を知ることに意義があるのかもしれません。

 

そんな悲劇を生んだのは「戊辰戦争」が原因なのですが、割と最近で明治元年のできごとになります。

 

戊辰戦争

 

戊辰戦争は1868年(慶応4年/明治元年)から1869年(明治2年)まで行われた徳川慶喜を擁する旧幕府軍と薩摩藩を中心とした新政府軍が戦った内戦のことです。1868年の干支が戊辰であることから戊辰戦争と呼ばれています。

 

昨年放送されたNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢栄一が民部公子(みんぶこうし=徳川昭武)に従って船の長旅でフランスへ渡航した頃です。

 

西洋の文化や文明、社会制度に驚きっぱなしだった栄一でしたが、経済構造にはかなりの衝撃を受け、現地でさっそくその方法で資金を増やすという近代国家への第一歩を歩み始めていた時です。

 

そんなときに日本では、江戸幕府が滅亡し壮絶な戊辰戦争が起きていたんです。各藩がそれぞれの大義名分で関わり、多くの城で戦争が起きています。

 

会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)は江戸幕府を支えて活動してきたため、会津藩は佐幕勢力の中心とみなされ、新政府軍の仇敵となってしまいます。

 

白虎隊は本来は予備勢力でした。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊からなっており、充足数はおよそ340名程度とされていました。装備していた火器は旧式銃のみだったといわれています。

 

この旧式銃は火縄銃よりはましという程度のもので、新政府軍の新型銃器に対してはかなり劣っていたといいます。

 

会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を配置し守りを固めていたのですが、圧倒的な新政府軍に対しては劣勢を否めませんでした。

 

本来は城下町防衛のため組織された白虎隊ですが、劣勢の主力部隊の支援する形で前線へと進軍することになりました。

 

もちろん白虎隊の投入が焼け石に水なのは誰もが承知していたことでしたが、老弱男女が玉砕覚悟で臨む戦局ということがよくわかる各防衛拠点への投入でした。

 

白虎隊は各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊は撤退を余儀なくされ、戸ノ口原の戦いでは決定的な打撃を受け、数名の戦死者が出ています。

 

8月23日に負傷者を抱えながら残りの20人(7人の説もあり)が郊外から飯盛山へと落ち延びたのですが、負傷が激しくこれ以上はもはや戦えないと悟り自刃を決行したという説と、士中二番隊員が、城下のまちに火の手が上がったのを若松城が落城したと思い、隊員全員が自刃してしまったという説があるようです。

参照元:白虎隊 - Wikipedia

 

大政奉還(たいせいほうかん)

 

大政奉還は、15代将軍徳川慶喜が政権を返上し、260年以上続いた江戸幕府を終わらせ、新たな時代への転換期となったできごとです。

 

1866年(慶応2年)に14代将軍徳川家茂(いえもち)が亡くなり、二条城に近い若州屋敷(小浜藩邸)を居所としていた徳川慶喜が、二条城で将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け15代将軍になりました。

 

二条城は、浜松にゆかりの深い徳川家康が征夷大将軍の任命式典のために築いたお城で、将軍の京都での宿所とされていたお城です。2代将軍・秀忠、3代将軍・家光も上洛し、二条城または伏見城で将軍宣下を受けています。

 

将軍就任後の徳川慶喜は、幕府の権威が低下していたことを危惧し制度改革に力を注ぎます。

 

慶喜の制度改革で幕府に復権の兆しが見えてくると、倒幕を企む諸藩は幕府が再び強い力を持つ前に早く倒幕しなくては!と警戒を強めます。

 

そこで、徳川慶喜から実権を奪うために、1867年(慶応3年)二条城で薩摩藩主・島津久光(しまずひさみつ)が中心になり、前越前藩主・松平春嶽(しゅんがく)、前土佐藩主・山内容堂(ようどう)、前宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)の有力大名4名が『四侯会議(しこうかいぎ)』を開きました。

 

ところが、聡明な慶喜は諸藩の倒幕の企みをかわして、四侯会議を名前だけの体制とさせることに仕向けます。

 

これを機に、徳川慶喜を手なずけるのは難しいと悟った薩摩藩の西郷隆盛らは、武力行使による倒幕へと方針を変えていったのです。

 

一方で、四侯会議に参加した前土佐藩主・山内容堂は、土佐藩家老の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)によって「大政奉還論」が提案され、この「大政奉還論」なら徳川家を守りながら新体制を構築するための最良の策と考え、倒幕派から幕府擁護派に転じ、慶喜に進言することを決意します。

 

こうして、1867年(慶応3年)10月3日、山内容堂は土佐藩の抗争として「大政奉還建白書」を幕府筆頭老中板倉勝静(いたくらかつきよ)へと託し、徳川慶喜に提出したのです。

 

慶喜が二条城で大政奉還の決意を表明したのは、二条城に住居を移した翌月の1867年(慶応3年)10月12日。翌日には、在京の10万石以上の諸藩重臣が二条城の二の丸御殿の大広間に集められ、大政奉還上表を提出し、幕府が政権を返上する意向であることを宣言しました。

 

後14日に江戸幕府15代将軍徳川慶喜が、朝廷の明治天皇へ大政奉還上表が提出され、10月15日に正式に許可されました。

 

こうして、鎌倉幕府が開かれて以来約700年続いた武士による政治が終わり、江戸幕府は264年の歴史に幕を下ろしました。

 

が、朝廷側は政権を運営する力がなかったため、慶喜は朝廷から引き続き将軍として政務を行うようにと頼られ、けっきょくこれまで通り、徳川慶喜が国政を動かすことになったのでした。

 

じつは、この意外な結果を慶喜は予測していたといわれます。なぜなら、大政奉還すれば、260年以上続いた江戸幕府は消滅してなくなるけれど、結局は大政を委任され新たな政治体制を築くことができるだろうと考えていたわけです。

 

大政奉還後の徳川慶喜

 

大政奉還後も、慶喜主導の国政が行われていることを知った薩摩藩などの討幕派は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)のもとで、王政復古に向けたクーデターを画策します。

 

そして、大政奉還後約2ヶ月後の12月8日、徳川慶喜不在で朝議が行われ、諸藩士が御所を封鎖。

 

翌日9日、討幕派の公家岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが手動した「王政復古の大号令」と、それに続く小御所会議により、慶喜の内大臣の官位返上と徳川家による幕府領の返納を求める「辞官納地」が決定します。

 

慶喜は「辞官納地」には応じず、強大な権力を持ったまま拠点を二条城から大阪城に移しました。

 

慶喜は外交権を保持したままイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、イタリアなどの公使を引見し外交権の継続を宣言します。これを知った薩摩藩は、徳川慶喜と旧幕府の権力を粉砕するため、武力で挑発を繰り返すのです。

 

この行動を見かねた慶喜はついに1868年(明治元年)1月3日に、薩摩討伐軍を京都(鳥羽)に送り、「戊辰戦争」の初戦「鳥羽・伏見の戦い」が始まりました。

 

現在の京都市伏見区や南区を中心に幕府軍と薩摩藩兵が激突したこの「鳥羽・伏見の戦い」で、1年半に及ぶ戊辰戦争の火ぶたが切って落とされたのです。

 

鳥羽・伏見の戦いの兵力は、新政府軍5千に対し、旧幕府軍1万5千と旧幕府軍が圧倒的に優勢だったにもかかわらず、旧幕府軍は兵力を生かしきれずにあっけなく敗北しました。

 

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敗れた旧幕府軍、慶喜は大坂城から江戸へ脱出

 

敗れた旧幕府軍がその反撃の拠点とするために向かったのが淀城です。淀城は現職老中である稲葉正邦の城であり、稲葉氏は徳川家に恩恵を受けた譜代大名でした。

 

ところが、淀藩は逃れてきた旧幕府軍の入城を拒否。新政府軍からの圧力もあり、状況を冷静に鑑みての判断だったとみられます。旧幕府軍は態勢を整えられず、撤退せざるを得なかったのです。

 

薩摩・長州藩兵側(新政府軍)が朝廷による「錦の御旗」を掲げたこと(朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認め錦旗を与えた)で、旧幕府軍は朝敵となってしまいます。

 

そのため旧幕府軍は戦意を失い、慶喜は1868年(明治元年)1月6日、軍を捨てて江戸へと逃亡します。慶喜は「天皇に弓をひくことは許されない」という水戸徳川家の教えを守ったのです。

 

これを持って鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で幕を下ろしました。

 

新政府は1月7日徳川慶喜追討令を発し、10日には慶喜、松平容保〈まつだいらかたもり〉(会津藩主、元京都守護職)、松平定敬〈まつだいらさだあき〉(桑名藩主、元京都所司代)をはじめ幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪しました。

 

さらに、翌日には諸藩に対して兵を上京させるように命じます。また、21日には外国事務総督東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)から諸外国の代表に対し、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助をしないよう要請します。

 

これを受け25日諸外国は、それぞれの局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府として徳川家と対等の交戦団体として認識されたことになります。

 

江戸城の無血開城

 

1月12日に江戸(品川)に到着した慶喜は、翌13日には江戸城西の丸に入り今後の対策を練り、駿府、神奈川の警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩、高崎藩に碓氷関警備を命令するなど、さしあたっての応急処置を行いました。

 

さらに慶喜は、19日には在江戸藩主、翌日静寛院宮〈せいかんいん〉(和宮親子内親王)、27日には徳川茂承〈とくがわ もちつぐ〉(紀州藩主)などへ隠居・恭順を朝廷に奏上(そうじょう)することを告げ、協力を依頼しています。

 

2月12日慶喜は、江戸城を徳川慶頼〈とくがわよしより〉(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民〈まつだいらなりたみ〉(前津山藩主)に委任して退出し、上野の「寛永寺(かんえいじ)大慈院」に移って、その後慶応4年(1868年)4月11日までここで謹慎生活を送りました。

 

その後、新政府の命により江戸城は、慶応4年(1868年)3月から4月にかけて明治新政府と旧幕府との間で無血開城します。

 

慶喜はさらに慶応4年4月11日早朝に水戸に立ち退き、水戸では弘道館で謹慎を続けます。続いて、駿府での謹慎を言い渡されたため、駿府に転居し静岡で謹慎しました。

 

その間も旧幕臣と新政府軍による戦い・戊辰戦争は続き、関東、東北地方へと拡大、五稜郭が陥落するまで1年半に及び各地で激戦が繰り広げられることになりました。

 

しかし、徳川慶喜はひたすら恭順(きょうじゅん)の意を表し続け戦いには関わることなく、明治2年(1869年)9月まで謹慎生活を続けたのです。

 

その後謹慎はとかれましたが、慶喜は東京には戻りませんでした。明治11年(1978年)に明治天皇が静岡を訪問した時にも出迎えるよう求められたのですが、病気を理由に断っています。

 

慶喜が大政奉還を行ったのは31歳のとき、初代将軍徳川家康がこの年令のときは「三方ヶ原の戦い」で武田軍に大敗したころです。

 

まだまだ将軍として政治家として活躍できる年齢、いやこれからという時期だったにもかかわらず、あくまで沈黙を守り長い謹慎解除後も静かな隠居生活を続けます。

 

慶喜は明治30年(1897年)11月にやっと東京に戻ります。そして、皇居に参内して明治天皇との会見が実現したのは、明治31年(1898年)3月2日でした。

 

明治34年(1901年)nには、文京区に移り住んだとのこと。明治35年(1902年)には公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にもなりました。

 

そして、大正2年(1913年)11月22日、急性肺炎のため文京区小日向第六天の自宅において亡くなりました。享年76歳。

 

長生きといわれる家康公よりも3年長生きしたことが唯一の救いでしょうか?

 

何はともあれ最後の将軍徳川慶喜はとても頭の良い武将だったこと、そして家康に匹敵するくらい忍耐強い人だったのだろうという感想を持ちました。

 

参照元:https://www.touken-world.jp/tips/68585/

謹慎生活(徳川慶喜⑥ 江戸検定今年のお題『幕末』) : 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録

徳川慶喜 - Wikipedia

 

ちなみに、白虎隊といえば歴史の教科書に登場したかは覚えていないのに、確か山Pがお正月に主演してドラマになっていたような・・・。という記憶が残っています。


白虎隊のドラマ

 

ドラマでは、テレ朝で2007年1月に2夜連続で放送された新春スペシャルドラマ『白虎隊』、NHKで2013年1月〜12月まで放送された大河ドラマ『八重の桜』が思い出深いかもしれません。

 

・白虎隊

 

白虎隊 DVD-BOX

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  • 山下智久.田中聖.藤ヶ谷太輔.薬師丸ひろ子.野際陽子
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1868年の戊辰戦争における、白虎隊士として戦う10代の若者たちの悲劇的な運命を描いているドラマ。

 

主役の白虎隊隊士・酒井峰治を演じたのは、当時NEWSの山下智久。

他にも白虎隊士を、田中聖、藤ヶ谷太輔、斎藤祥太、冨田翔、崎本大海、辻本祐樹などの若い俳優さんやジャニーズメンバーなどが演じ注目を集めました。

 

・八重の桜

 

 

2011年3月11日に起きた東日本大震災の発生を受け、福島県会津出身で同志社を創設した新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた作品

 

主演は大河ドラマ初出演の綾瀬はるか。1865年、アメリカ合衆国での南北戦争が終結。

不要となった武器の多くが日本へもたらされ、明治元年(1868年)それらを装備した新政府軍の攻撃にさらされる会津若松城の中に、スペンサー銃を手に抗戦する会津藩の砲術師範の家に生まれた八重(綾瀬はるか)が居た。

 

「ジョー(新島襄=オダギリジョー)」「八重さん」と呼び合う風変わりな夫婦が、明治という新しい時代に同志社大学の設立への夢を描く。

 

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まとめ

 

今日は白虎隊の日ということで、せっかくだからと白虎隊を調べてみました。

 

徳川家康のことを「どうする家康」の放送前に全部知っておこうと、日々歴史本ばかり読み(子供用のマンガだけど)、YouTubeでも過去の大河ドラマまで見る勢いの私。

 

白虎隊の隊士たちは、幼い頃からすでに「会津藩の武士の子」として「什」と呼ばれる集まりに参加し、「ならぬことはならぬものです」とお話で制限されている行動はしない!と決め暮らしていました。しかも守れないときは制裁つきです。

 

ですから、我が城が落とされると思えば、自刃してしまうくらい立派な武士に成長してしまうんです。

 

ですが、あれもこれも全ては、最後の将軍徳川慶喜が敗れ大政奉還したあとの旧幕府軍と倒幕軍(新政府軍)との戦い「戊辰戦争」の影響。この戦争をしている人々も日本を良くしたい一心だからたちが悪い。

 

けっきょく、江戸城の無血開城につながったことで、今の平和な時代への一歩として明治新政府が生まれたという、時代が変わる時に起きた不幸な戦争と言ってしまうには辛すぎる歴史の1ページというイメージを持ちました。

 

皆さんはどんな印象を持たれましたか?ってことで、今回はこのへんでおしまい。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。