sannigoのアラ還日記

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家康、秀忠、家光が合祀される『三方原神社』は三方原に入植した旧幕臣の名残り

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の徳川家康ゆかりの神社は、北区の三方原町にあり、三方ヶ原の戦いの戦没者を葬った「精鎮塚」が残る『本乗寺』から徒歩で約3分のところにある『三方原神社』です。

 

『三方原神社』の御祭神は東照大権現(徳川家康)ですが、秀忠公、家光公も合祀されています。1922年(大正11年)6月25日、旧浜松城内に祀られていた「東照宮」(元城神社)をゆかりの地三方原村へお迎えし、村民の信仰の中心となる神社としました。

 

今回は『三方原神社』はもちろんですが、三方ヶ原の戦いが行なわれた三方原台地がその後どうなっていったかを知るために「三方原開拓」についても調べてみました。そこにはある人物も大きく関わっていたようです。

 

広い境内の前にそびえる三方原神社の鳥居

 

 

三方原神社

 

 

場所:浜松市北区三方原町562

 

《アクセス》


電車・バス:JR浜松駅よりバスで奥山行き⑮→バスで30分→[三方原]下車 徒歩約5分                                  
車:東名高速道路[浜松西IC]より15分
駐車場:あります(表門・裏門の2ヶ所あり)
御朱印:ありません

 

中日新聞の記事によると、『三方原神社』のある三方原には、さまざまな歴史が刻まれていることがわかります。まず、三方原地区に旧幕臣が入植した名残りの一つがこの『三方原神社』だといいます。

 

明治維新により徳川の幕臣たちは浜松に移住、旧浜松城二の丸内に1898年(明治31年)に「東照宮」の祠を建て、その3年後にこれを「元城神社」と改称しました。

 

家康公が眠るあの「久能山東照宮」(静岡県駿河区)に依頼して「元城神社」を家康公とのゆかりが深い三方原地区に迎え、1923年(大正12年)に遷座の儀式が営まれます。

 

戦後の昭和29年、三方原村が浜松市へ併合により村社は改称となり、昭和31年9月7日この東照宮は『三方原神社』の名称に改められます。昭和48年社殿老朽のため改築がおこなわれました。

 

社殿

 

色鮮やかな『三方原神社』の社殿

 

三方原神社の案内板

 

扁額

 

賽銭箱には三つ葉葵の紋が施され、15代征夷大将軍徳川慶喜(よしのぶ)に続く徳川宗家16代当主、家達(いえさと)が「東照宮」と揮毫(きごう)した扁額が神殿に掲げられています。

 

徳川宗家16代当主、家達が「東照宮」と揮毫した扁額

 

徳川恒孝氏お手植えの松

 

左がお手植えの松、右が案内板

 

本殿には三つ葉葵紋付茶釜と、勝海舟の「東照宮」の扁額などが収められているそうで、境内には1984年(昭和59年)、徳川家第18代当主徳川恒孝氏お手植えの松が植えられています。

 

このお宮を三方原村へお迎えした大正11年に、徳川家英(徳川恒孝の義兄)がこの地を訪れ、東照宮の創建記念に松を植えたのですが、松食い虫の被害で惜しくも枯れたそうです。

 

この松は、これに代わるものとして徳川恒孝氏が植えられたのですが、平成時代にまたもや松食い虫のために枯れてしまったとのこと。今ある松はこの後に植えられた第3三代の松だそうです。今度こそ松食い虫にやられませんように!

 

宮司さんは、家康がたびたび参拝したとされる浜松八幡宮(浜松市中区)と兼任されているそうです。宮司さんがおっしゃるには「旧幕臣が入植したのは牧之原が有名ですが、こちらの三方原にも移り住んで頑張られた。家康への思いが強く心の支えとして東照宮を迎えたかったのでは」とみていらっしゃるそうです。

 

不動尊

 

左が『不動尊』で、右が案内板

 

案内板には

この不動尊は刻まれた像の脇に「右ははま松道」「左いけ田道」と記されていることから道標を兼ねていたことがわかる。1870年(明治3年)、多くの士族が三方原に入植した時、広い野原の中でこの不動尊を発見し、以来これを「野中の不動さま」と呼んだ。

と書かれています。

 

古いお手水鉢

 

三つ葉葵の御紋が刻まれた古いお手水鉢

 

不動尊の右前にある御手水鉢にも、よ~く見ると「三つ葉葵」の御紋が入っていました。こんなにも身近な感じで「三つ葉葵」が存在することに感動してしまい、確かにここら辺であのドラマや映画で大掛かりなセットや馬、鎧に兜、そして大スターたちが演じている『三方ヶ原の戦い』が実際に起きていたんだ!と確信できました。

 

また、広い境内には楠、椎、杉、檜などの緑が多く癒やされスポットと言えそうです。が、実は大正から昭和40年代までの境内は松の大木がほとんどを占めていたとのこと。やはりにっくき松食い虫にやられたってことのようです。

 

滑り台やジャングルジム、ブランコなど遊具もある公園にもなっているようで、親子連れや春休み中の子どもたちが大きな声をあげ走り回っていました。もちろんおみくじもあるので子どもたちも喜びそうです。

 

駐車場もしっかりと正門、裏門の2ヶ所にあるためか、夏は涼をたのしむための散歩に訪れる人も多いようです。祭典は毎年夏・秋に行なわれ、神事、余興、餅投げ、屋台引き回しなどが催され、露天も出てにぎやかだそうです。

 

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三方原地区に入植

 

東京にいた旧幕臣ら800世帯余りが、三方原地区に入植したそうです。酸性土壌のため農業で生計を立てるのは難しかったといいます。頼りとした静岡藩からの扶持米(ふちまい)が支給されなくなるなどして、離散する士族が相次ぎます。現在三方原地区で確認される士族の家系は6世帯といいます。

 

西南戦争または西南の役とは?

 

『西南戦争』とは、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして明治政府に不満を抱く士族らが起こした武力反乱です。

 

明治政府への不満とは、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布します。この2つは帯刀・棒禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせたことです。

 

これが契機となり、征韓論を巡る政変で下野した西郷隆盛が中心となりました。同年2月19日、出陣した西郷軍に対し、政府が征伐令を出しました。2月22日に政府軍が守る熊本城で本格的な戦闘が始まり、9月24日に西郷が自決するまで続きました。

 

西南戦争では西洋の兵器を用いて戦う政府軍に対し、剣術に長けた西郷軍は接近戦に強く、政府側は士族を募集。三方原地区からも、東京から移り住んだ35人が参戦したといいます。

 

旧幕臣が開拓した三方原

 

徳川家康が築いた浜松城は三方原台地の東南端にあります。三方ヶ原の戦いが行なわれたことで知られるこの台地は、明治期になっても荒地でキツネやたぬきなどが生息するにすぎない土地だったそうです。

 

大政奉還によって棒禄を失った旧幕臣の自立のために、用意されたのが荒地の開拓でした。江戸城を無血開城した勝海舟は旧幕臣に恨まれますが、彼らの生計が成り立つように奔走していたんです。

 

現在、遠州の牧之原・三方原・新所原は農業の盛んなところですが、これは明治期に旧幕臣が開拓のために入植し苦労して開墾したからです。

 

旧幕臣たちは、刀を鍬(くわ)や鋤(すき)に持ち変えて原野を切り開いたのです。中でも三方原の原野は荒れ果てて作物の育たない赤土で、土地はやせていたし、水の便もよくない不毛の地だったそうです。

 

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百里園を造成した気賀林

 

 

三方原台地を貫く金指街道沿いに百里園という地名が残っています。ここにはかつて気賀林(りん)という名の人が、士族救済のために造成した茶園がありました。

 

気賀林はその名の通り気賀村(北区細江町)の出身で、地域開発に力を注ぎ、三方原開拓や堀留運河の開鑿(かいさく)などを手掛けています。また、静岡県下で初の国立銀行である第二十八国立銀行の設立にも関わり、最高出資者として副頭取に就任しています。

 

1810年(文化7年)に引佐郡気賀村(現在の北区引佐町気賀)の旧家竹田家に生まれた気賀は後に気賀家の養子になります。幼名を賀子治(かねじ)、大人になってから半十郎や岩井宣徳、岩井林右衛門と名乗り、1871年(明治4年)気賀林と改名しました。

 

1829年(文政2年)、19歳の時に地元特産の藺草(いぐさ)を買い集めて江戸で売る商売を始めると、畳表問屋として成功し、その後さらにロウや昆布の売買も手掛けて財をなします。

 

儲けた財産は、貧しい人々や寺に寄附をしていました。晩年になり、余生を社会事業に打ち込む決意を固めると、壮年より夢見ていた「三方原開拓」「堀留運河の開墾」「信州(現在の長野県)から気賀へ道を作る」といった3つの事業を起こすことを決意します。奉行所にに届け出て、三方原の開拓が認められると『三方原開拓係』を命ぜられました。

 

荒地の開拓に取り掛かったものの、入植した士族の多くは、あまりの重労働、そして生活の苦しさから徐々に脱落していきます。町中に出て、郵便局や警察署などの職に転職していったといいます。中には商売を始めてみたものの、失敗するケースも多かったようです。

 

1876年(明治9年)茶園では新茶の初摘みを行いました。わずか7年あまりで不毛の大地は見事な茶畑に変わったのです。百町歩(100ヘクタール)、620万株の大茶園でした。

 

1877年(明治10年)には百里園製茶所という大規模な製茶工場を建設、また同年生活困窮者のために三方原救貧院を作り、生活の面倒をみています。1883年(明治16年)73歳でなくなるまで地域の開発と振興に尽くしました。

 

このプロジェクトには、金原明善も名を連ねています。茶による現金収入が得られるまでのつなぎとして、馬鈴薯(ジャガイモ)を栽培することも奨励され、三方原は現在もジャガイモの産地としてよく知られています。

 

明治後期には、大正末期には飛行第七連隊が置かれるなど、軍部・浜松の中心となっていきました。現在のように三方原地区の農業が盛んになったのは、戦後になってからだそうです。

 

参照元:気賀林 | 浜松情報BOOK 征討令145年 三方原の旧幕臣、命懸けの証しが玄孫宅に:中日新聞しずおかWeb

 

\三方ヶ原合戦の新説が次々登場!/

新説 家康と三方原合戦: 生涯唯一の大敗を読み解く (NHK出版新書 688)

 

最後に

 

あの家康の最大のピンチ!戦国最強の武田に敗れた『三方ヶ原の戦い』が起きた現在の三方原にある『三方原神社』を今回は訪ねてみました。

 

本当に緑あふれる公園といっても良いのでは!と思うほど、広くゆったりとした神社でした。しかも合気道かしら?「やー」とか「おー」という子どもたちの声が響き渡り、ブランコに揺れる女の子や親子で鬼ごっこをしていたり、いやに平和を感じさせる神社でした。

 

ですが、明治維新により浜松に移住した徳川の幕臣たちが、刀を捨て鍬で辛くきつい三方原開拓に従事、きっと逃げ出したかったんでしょうね。

 

そこで、やはり頼るのは東照大権現様、つまりは徳川家康さま。旧浜松城二の丸内に「東照宮」の祠を建てて、願掛けしたり悩み事を相談したりしていたのではないかと想像します。

 

最後の最後に「徳川恒孝氏お手植えの松」が松食い虫にやられない事を心から祈って今回は終わりにしたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。