sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

地元で井伊谷宮といえば「節分」南北朝時代に活躍した宗良親王をお祀りしていることも忘れないで!

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

”後醍醐天皇の皇子である宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう)をお祀りする神社『井伊谷宮』は、地元では弓の弦を鳴らして邪気を祓う「鳴弦式(めいげんしき)」や鬼門と裏鬼門へ屋を放つ「矢立て神事」、さらに年男・年女の皆さんの豆まきが行われる『節分祭』が有名です。

 

なぜって?それは、豆やお餅、お菓子がたくさんまかれるから。でもこれコロナ禍以前のことで、今年はどうだったのかな?3年ぶりの豆まきはあったみたいだけど。

 

今回は、井伊谷宮は「節分」ばかりじゃないのよ!お祀りされている宗良親王は、この井伊谷を中心とした「井の国」を納め、「井伊家」の一族とも深いかかわりを持っていたということを解説していきます。

 

パワースポットらしく堂々とした『井伊谷宮』

 

 

井伊谷宮

 

井伊谷宮は浜松市北区の井伊谷にある神社で、後醍醐天皇の皇子にである宗良親王が祀られ、宗良親王が和歌に秀でておられたことから「学徳成就・合格」の神様として崇められ、また73歳と、当時としては長寿で逆境をはねのけ各地を転戦したことから、「長寿・厄除開運」「道開き・交通安全」の神として崇敬を集めています。

 

1869年(明治2年)に明治天皇の思し召しによって創建が決定されました。すぐお隣には美しいお庭で知られる『龍潭寺』があります。

 

 

場所:浜松市北区引佐町井伊谷1991-1 

 

《アクセス》

バス・電車:JR浜松駅より遠鉄バスで[奥山]行、「神宮寺」下車、徒歩約5分
      天竜浜名湖鉄道[金指駅]下車、徒歩約40分

車:JR浜松駅より北へ20km、車で約50分
  新東名高速道路[浜松引佐IC]より車で10分
  東名高速道路[浜松西IC][三ヶ日IC]より車で20分

  舘山寺温泉より車で20分
  奥山方広寺まで車で15分
  竜ヶ岩洞まで車で5分

専用駐車場:あり

祈祷受付:9:00~16:30

おみくじ:遠州弁うなぎみくじ
地元浜松に根ざしたおみくじで、おみくじの内容が「だら」や「だに」で知られる遠州弁で書かれているというおもしろいおみくじです。うなぎの桶から幸福・勝利の縁起物「しゃもじ」ですくって引くおみくじです。

御朱印:

◯大河ドラマの特別な年の記念として、浜松の徳川ゆかりの神社”五社神社””浜松八幡宮””井伊谷宮の三社を巡る御朱印が行われています。※三社詣で御朱印を受けた方には専用台紙の用意があります。

◯井伊谷の令和4年”御鎮座150年”で作られた奉祝の御朱印帳が2種類あります。
・一つは赤色を基調とした井伊谷宮ご祭神の「宗良親王」が描かれています。
・もう一つは青色を基調とした「宗良親王」が愛した花「スモモ」が描かれています。


《絵馬史料館》

 

井伊谷宮『絵馬資料館』

 

絵馬資料館は絵馬師である故安田織人氏の所蔵絵馬の寄贈を受けて、今から20年ほど前には開館されていたという、日本で数少ない絵馬専門の資料館の一つです。

開館時間:9:00~16:00
入館料:大人200円、小人100円
年中無休:入館希望の方は社務所まで

 

創建当初は「宗良親王御社」と言っていましたが、1872年(明治5年)1月23日に地名により『井伊谷宮』と改称されたそうです。

 

井伊谷宮は宗良親王を祀る

 

1333年(元弘3年)7月4日に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日天皇が自ら行う政治(親政)を開始したことにより成立した「建武の新政」。明治維新以降、この「建武の新政」(建武中興ともいわれる)に功績のあった南朝方の人物を祀る神社が数多く創設されました。そのうちの一つがこの『井伊谷宮』です。

 

後醍醐天皇の皇子である「宗良親王」は、今より約650年前の南北朝時代に、「征夷大将軍」としてこの地を本拠に50年以上関東各地を転戦し、吉野朝の為に活躍されたと伝えられます。

 

朝廷が2つに分かれた南北朝時代。南朝方の柱として活躍されながら当時の歌の名門二条家の母を持つという出自もあり、宗良親王は歌人としても世に知られていました。

 

井伊谷宮が裏紋として使用している李花(りか)紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集「李花集」に因んでいるそうです。

 

晩年は再びこの地を訪れ、1385年(元中2年)8月10日御年73歳で亡くなりました。本殿の裏手には墓所があります。

 

通常陵墓は南面しているのですが、こちらのお墓は、平安京の方角を向いて西面しています。現在は宮内庁管轄となっているため立入禁止となっています。

 

宗良親王はこの井伊谷を中心とした「井の国」を納め、「井伊家」の一族とも深いかかわりを持っていたと伝わります。

 

南北朝時代の井伊家とのつながり

 

宗良親王が井伊谷に滞在中、領主の井伊道政(いいみちまさ)と井伊高顕(いいたかあき)に助けられたとの伝承から、明治2年、末裔の井伊直憲(彦根藩知事)が井伊谷に宗良親王を祀る神社創建を出願し、明治天皇より勅許が下ったといいます。

 

14世紀前期、井伊氏の城主・井伊泰直の子として生まれた 井伊行直(いいゆきなお)は、遠江介に任じられ井伊介(いいのすけ)と称しました。

 

後醍醐天皇と信頼が深い西園寺公重が遠江国浜松荘の領家職であることや、都田御厨が南朝の公卿である洞院実世の支配地であり、全体的に南朝側の荘園・御厨が多数見られ、伊勢神宮との関わりが深いこともあり、行直は南朝側につきます。

 

このような土地に注目した後醍醐天皇が、足場を築くため、皇子である尊澄法親王をその土地に送りこみ、1337年(建武4年/延元2年)春には尊澄法親王が還俗、宗良親王となりました。

 

行直は宗良親王の元に参じて、井伊道政に奉じられて南朝方として挙兵、井伊谷城に招いて保護します。

 

7月4日に、井伊谷南部の三方ケ原にて、三和光継・松井助宗・横地治部丞・朝夷彦五郎を従えた北朝側の武将・今川範国と戦います。行直はこの戦いで敗れたと見られます。しかし、同年7月6日今川範国により井伊氏の主要な城・三岳城に攻められましたが、今川軍を撤退させました。

 

今川軍を撤退させた直後に、宗良親王が三岳城に入城します。宗良親王を受け入れた行直は、本拠地の三岳城の防衛を強固にし、取り巻くように大平城、千頭ヶ峯城、鴨江城、天山城をそれぞれ東西南北に設けました。

 

一方で1339年(暦応2年/延元4年)7月22日、北朝側の高師泰が攻め込むために大平城へ進んでいき、行直はかろうじて維持できたものの、7月26日鴨江城は高師兼(こうのもろやす)に攻落されました。その直後に後醍醐天皇は崩御し、南朝側は不利になっていきます。同年10月31日、千頭ヶ峯城が落とされます。

 

1340年(翌暦応3年/延元5年)1月30日三岳城が落ち、同年8月24日に大平城が仁木義長によって落城。行直はついに降伏することになりました。

 

南北朝は最終的に北朝が勝利したため、南朝方の井伊家は肩身の狭い思いをすることになります。特に駿河・遠江は足利一族の今川氏が支配するところとなり、有能な人物を輩出したために戦国時代まで守護として君臨します。

※井伊道政は、後醍醐天皇の討幕に応じて挙兵。南北朝分裂後は南朝方として活動。建武四・延元二年(1337)、宗良親王を井伊城に迎え入れる。

※井伊高顕は遠江井伊谷城主井伊道政の子。父とともに南朝方に属し、宗良(むねよし)親王を擁して北朝軍とたたかう。1340年(興国元年)高師泰らの攻撃に敗れる。のち城を奪回し、宗良親王の子尹良(ただなが)親王をたすけ、1386年(元中3年)8月死去したという。

 

戦国時代の井伊家

 

戦国時代の井伊家は今川義元と対立する側に付き、駿遠を領する義元とは微妙な関係でした。

 

井伊直政は、1561年(永禄4年)、遠江国祝田(とおとうみのくにほうだ)(現在の静岡県浜松市北区)で今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生しました。虎のように強く、松のように末永く栄えるように」との願いが込められたといいます。

 

井伊家は先祖代々井伊谷の領主で、当時の当主は「井伊直盛(いいなおもり/井伊直親の従兄)」でしたが、桶狭間の戦いで井伊直盛は義元に従って討ち死にしたのです。

 

1562年(永禄5年)井伊直親(直政の父)も、桶狭間の戦いで勝利した織田信長の内通者ではないかと疑われ戦後まもなく今川氏真に討たれてしまいます。

 

一族を多く失ったこの遠州錯乱の時期、井伊直政は当時まだ2歳、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継ぎました。

 

今川氏が井伊直政を葬ることを諦めなかったため、しばらくの間、三河国(現在の愛知県東部)の「鳳来寺」に預けられ、そののち、駿河国(現在の静岡県中部、北東部)や三河国などあちこちの寺院や親戚の家を転々として過ごします。

 

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結果として井伊家の支配力は下がり、勢力は大きく衰退し、井伊谷城と累代の所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われています。

 

井伊万千代になり家康の少将に

 

元亀3年(1572年)、井伊直政の母「おひよ」が家康の家臣「松下清景(まつしたきよかげ)」と再婚したため、井伊直政は松下虎松として松下家の養子となり、浜松へ移住しました。

 

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1575年(天正3年)、井伊直政にとっての大きな転機が訪れます。それは徳川家康が行った「初鷹野(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)に、直政が家康の家臣になれるようにと「四神旗」を持ち、直虎のと母・おひよがあつらえた着物を着て家康の前に現れた時でした。

 

家康の家臣になるためには、まずその目に留まるようにしなければ!と派手な衣装を着たのでした。結果は直政の狙いどおり、家康は井伊直政に興味を抱きました。

 

直政が「自分は井伊家の人間であるため徳川家康に仕えたい」と伝えると、「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類ということもあり、家康は「召し抱える他にない」と井伊直政を小姓として迎い入れたのでした。

 

さらに、井伊家の旧領である井伊谷2,000万石と16人の同心衆(軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名も「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。

 

徳川家に仕え始めた井伊直政は、1576年(天正4年)、に参戦した初陣で、家康の暗殺を阻止した功績を認められ3,000石の温床を賜り、後も家康元で徐々に才覚を発揮します。

 

1582年(天正10年)徳川家康が攻め滅ぼした「武田氏」の旧臣約70名と浪人約40名を任され、若くして新たな舞台の大将になりました。

 

このとき、井伊直政は家康から武田氏の兵法を引き継ぐことを命じられ、「武田四天王」のひとり山県昌景隊の「赤備え」を継承します。

 

多くの武功をたて、天正18年(1590年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪12万石、関ケ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられます。

 

直政の死後、子の直勝は1604年(慶長9年)同国彦根に築城しました。この築城は幕府が諸大名に御手洗普請(天下普請)を命じたものです。

 

直勝は1615年(元和元年)幕命により弟の直孝に藩主の座を譲り、直孝の代に30万石の譜代大名になります。その後直勝は安中藩3万石の藩主となりました。

 

井伊氏とは?

 

井伊氏は、武家・華族だった日本の氏族。近世大名としての祖・井伊直政は徳川家康に仕え、新参ながら若くして徳川家中最大の所領を与えられるまでになり、徳川四天王に数えられました。

 

子孫も近江国彦根藩の主家として譜代大名中最大の石高を有し、幕府大老を排出したとのこと。維新後も華族に列し伯爵家になりました。

 

井伊直虎

 

井伊直虎という名の人物についてのこの時代の史料は一通の書状しか存在しないのです。が、通説では、江戸時代の中期享保15年(1730年)に書かれた井伊氏の家伝『井伊家伝説』において、女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘・次郎法師(じろうほうし)と同一人物といわれる生涯未婚で、直親の遺児で後の徳川四天王・井伊直政の養母と伝わります。

 

井伊直政

 

井伊直政は、「徳川家康」に仕え『徳川四天王』の一人として名を馳せた戦国時代の武将です。井伊直政が生まれた頃の井伊家は、駿河国今川家の支配下にあり、お家断絶の危機に晒されていました。

 

井伊家再興のため、そして徳川家康の恩義に報いるために信念を貫いた武将で井伊氏20代当主です。おんな城主井伊直虎に育てられたと伝わります。大河ドラマ『おんな城主直虎』では、菅田将暉が演じてその爽やかさが話題になりました。

 

「井伊家の赤備え」と言われるように、井伊家の部隊は武器を赤色で統一していました。徳川四天王の一人といわれ、のちに近江(滋賀県)の彦根城主になりました。

 

天下分け目の戦い『関ケ原の戦い』では、東軍の名だたる武将の中で敵と最初に刀を交えることができる先陣、武将にとっての最大の誉。かっこよくこの先陣を切ったのは井伊直政。

 

じつは、先陣は福島正則と決まっていたものを、徳川四天王の一人が抜け駆けしてまで最大の功労者になってしまったのです。

 

そんな井伊直政は、幕末にあった「桜田門外の変」で知られる井伊直弼の祖先です。

 

参照元:https://www.touken-world.jp/tips/34813/ 井伊氏 - Wikipedia 井伊行直 - Wikipedia

 

最後に

 

今回は、地元民として節分には福豆や福餅、お菓子などを拾うため出かけいた『井伊谷宮』を改めて調べてみました。

 

井伊家は先祖代々井伊谷の領主だったことから、南北朝時代は南朝方について戦ったものの、最終的に北朝が勝利し南朝方の井伊家は肩身の狭い思いをすることになりました。

 

特に駿河・遠江は足利一族の今川氏が支配するところとなり、有能な人物を輩出したために戦国時代まで守護として君臨。井伊家は今川義元と対立する側に付き、駿遠を領する義元とは微妙な関係。

 

当時、井伊家の領主井伊直盛は義元に従って桶狭間の戦いで討ち死に。さらに井伊直親(直政の父)も、桶狭間の戦いで勝利した織田信長の内通者ではないかと疑われ戦後まもなく今川氏真に討たれます。

 

当時2歳の虎松(後の井伊直政)は今川から逃げるため「鳳来寺」や駿河などを転々として過ごし、のちに家康に仕え「徳川四天王」の一人に数えられるほどの武将になります。

 

そして、子孫も近江国彦根藩の主家として譜代大名中最大の石高を有し、幕府大老を排出したとのこと。明治維新後も華族に列し伯爵家になったという、まさに直政の井伊家再興物語の舞台ともいうべき『井伊谷宮』。

 

やっぱりいろいろ調べてみるものですね。ただただ『節分』を楽しむだけに井伊谷宮を訪れていた自分が情けないです。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。