sannigoのアラ還日記

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浜松市中央区にある由緒ある曹洞宗の『普済寺』は家康公も何度もお参りしたのじゃ!

こんにちは ssannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりの神社・仏閣は浜松市中央区広沢に古くから鎮座する『廣澤山普済寺』です。最近は寒すぎて家に閉じこもりがちのため、思い切って2023年6月に訪ねた記録の記事になります。

 

『普済寺』はあの「三方ヶ原の戦い」(1573年/元亀3年)の夜、家康の命令で浜松城が炎上したかのように見せかけるため、徳川軍によって火が放たれ本堂を焼失したという伝承が残されています。

 

「まあなんてことを!」なんて思われるかもしれませんが、義理堅く人情深い家康さんですから、もちろんその後、自ら七堂伽藍が再建されています。

 

『三方ヶ原の戦い』の前哨戦ともいわれる磐田の『一言坂の戦い』では、武田軍に追われる徳川軍を見て、見付の宿場の人たちは家康のためならと自ら町に火を放ったとも伝わりますから、当時は仕方ないしよくあることだったのかもしれません。

 

こちらの『普済寺』は市街地中心部にありながらも自然がいっぱいで、ちょっとのんびり過ごしているとかわいいリスが、歴史ある『山門』でチョロチョロ遊んでいたりもします。

 

浜松市中央区広沢にある由緒ある曹洞宗の『普済寺』本堂

 

 

『廣澤山普済寺(こうたくさんふさいじ)』

 

普済寺は広沢山(こうたくさん)と号する曹洞宗の寺院でご本尊は釈迦如来。

 

遠州における古刹で、天竜川以西の曹洞宗寺院は普済寺の流れをくんでいるものが多いそうです。また、全国的に曹洞宗寺院は2割程度だそうですが、浜松市の場合は4割が曹洞宗で、そのほとんどが普済寺の流れを汲んでいるとか。

 

 

☑場所は中央区広沢1丁目2-1 

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[浜松駅]から遠鉄バス[鹿谷町南]バス停で下車、徒歩約5分

車:東名高速道路[浜松西IC]から約28分
駐車場:入口には幼稚園利用者の方以外は進入禁止と書かれていてびっくりしますが、道路沿いの『総門』の横の道を少し進むと、本堂前に駐車スペースがあります。

御朱印:残念ながら扱っていないようです

 

普済寺の創建は鎌倉時代の1427年(正長元年)、寒厳義尹(かんげんぎいん/順徳天皇の第三皇子/鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧・寒厳派の派祖/法王長老と呼ばれた)によって現在の浜松市中央区寺島に開山されたのが始まりとされます。

 

しかし、その後何度か洪水にあい、4年後の1432年(永享4年)に水害を避けるため吉良氏が開基となり華蔵義曇(けぞうぎどん/肥後国:大慈寺の僧)禅師によって現現在の場所に移転し、寺号を普済寺に改めたそうです。

 

普済寺は古くから由緒ある寺として徳川氏の保護をうけ、戦国時代には家康の遠江侵攻時には本陣としたそうで、家康は客殿を寄進しています。

 

伝承によると三方ヶ原の合戦’(1573年/元亀3年)の夜、浜松城が炎上したかのように見せかけるため、戦略上家康の命令で火が放たれ本堂を焼失しています。

 

その後1582年(天正10年)には、家康によって七堂伽藍が再建されますが、1897年(明治30年)の火災と、1945年(昭和20年)浜松大空襲で多くの堂宇、寺堂、記録などを焼失してしまい、往時の建物は山門や雲夢橋のみになってしまったそうです。

 

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まずは、道路沿いで目立つ総門から見ていきましょう。

 

総門

 

気賀近藤氏の金指陣屋門を移築した総門、総門前には「不許葷酒入山門」の文字が!

 

まず、総門の横には「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにはいるをゆさず)」と書かれた大きな木碑があります。

 

コトバンクによると、”これは多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つで、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さない。”ということだそうです。

 

やはり、ニンニクやショウガなどの匂いの強い野菜や、お酒を飲んでお参りしてはいけないのですね。改めて毎日の健康のためのショウガ生活ですが、お参りの前には控えたいと思いました。

 

参道入口の総門は、細江町気賀の旗本近藤登之助(こんどうのぼりすけ)の金指陣屋の門を移築した武家屋敷風の総門です。棟を飾る鯱と逆立ち獅子の飾り瓦が印象的です。

 

※近藤登之助とは?

 

大河ドラマ「おんな城主直虎」で登場した新城の地方領主・近藤康用(やすもち)は新城宇利の豪族で、近隣を支配していた鈴木重時、菅沼忠久とともに徳川家康の支配下にはいり、遠州攻略を手助けしたことから「井伊谷三人衆」と呼ばれました。

 

子孫は浜松市浜名区の金指、気賀、花平、井伊谷、大谷の5か所を幕末まで支配、宗家にあたる金指近藤家の当主は代々「近藤登之助」を名乗ったといいます。

 

総門をくぐると、またもや山門が現れます。私がこちらを訪ねた2023年は修復真っ最中だったせいか、かわいいリスがチョロチョロと動き回っていたのですが・・・、写真に収められず残念でした。

 

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山門

 

『普済寺』山門と案内板

 

当時はきれいな朱塗りだったであろう『山門』は江戸時代に建立されたもので、総門も山門も戦災を免れ焼け残ったというツワモノです。

 

山門の大扁額には「東海曹洞」と書かれています。遠州における古刹で、天竜川以西の曹洞宗寺院は普済寺の流れをくんでいるものが多いということがよくわかる扁額です。

 

雲夢橋

 

月の名所だったという「雲夢橋」は静岡県最古の石造り

 

山門の北側にある小さな石橋は「雲夢橋」と名づけられた江戸時代中期に作られたものです。こちらも絶賛修復中でしたが、今頃はきれいに蘇っているのでしょうか?また一度お参りに訪ねたいと思います。もちろん寒さが緩んだころですが・・・。

 

こちらの普済寺には、広沢という山号にふさわしく「水の澄んだ池」があったそうで、月の名所として知られていたと案内板に書かれています。また、この石橋は静岡県最古の石造りだそうです。

 

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本殿

 

すっきりとした本殿はコンクリート造り

 

1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリート造りで再建された現在の本堂です。本堂前は普済寺幼稚園の運動場になっているようです。

 

本堂の左奥にたくさんの朱色の鳥居が並んでいます。こちらが『北山稲荷』です。

 

北山稲荷

 

本堂左奥に北山稲荷を祀っています。日本3大稲荷の愛知県豊川市の「豊川稲荷」こと「妙厳寺」は、浜松市普済寺の末寺になるそうです。つまり豊川稲荷はこの普済寺から分詞されたということなんですえね!ちょっとすごくないですか?

 

豊川稲荷こと「妙厳寺」でお祀りしているのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豐川吒枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っていることから、いつしか「豊川稲荷」が通称として広まり、現在に至っているそうです。

 

※咤枳尼真天


咤枳尼真天でググると「怖い」と出てきますが、これは咤枳尼真天が元は生きた人間を殺害してその肝を食す女の鬼神だったからでしょうか?

 

いやいや!この咤枳尼真天は御仏の怒りに触れてその通力を封じられてしまったようです。でも、鬼類は人の肝でしか命を繋げないため御仏は、むやみな殺生をしないようにと「半年先に命終する人間を予知する」通力を授け、その命終の後に肝を取るように諭したといいます。

 

以来、咤枳尼真天のこの予知の通力を得るために、多くの修験者や密教系僧侶達が信仰の対象としたと伝わります。ただ、元が恐ろしい神だったため、この咤枳尼真天が「神さま」なのか「悪魔」なのかは素人の私には判りません。

 

空海(弘法大師)が平安時代初期に日本に伝えたといわれる「真言密教」では、稲荷様をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一だとしています。そんなことから「お稲荷さん」には種類が2つあるといいます。

 

一つは五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲御魂)で稲荷明神として知られています。

このお稲荷さん(稲神社)は、京都の伏見大社が信仰の発祥神社で、一般に伏見稲荷として知られる全国3万余りの社の総本社です。そして、日本三大稲荷と呼ばれるのは、この京都・伏見稲荷と、佐賀・祐徳稲荷神社、茨城・笠間神社です。

 

もう一つは神社ではありませんが、愛知・豊川稲荷。豊川稲荷の正式名は「円福山妙厳寺(妙嚴寺)」です。


山号を圓福山とする曹洞宗の寺院で、お祀りしているのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)を稲荷神として祀っています。ちなみに、あの江戸の名奉行・大岡越前守が信仰していたことで知られているようです。

 

豊川稲荷(妙厳寺)を開山した東海義易(とうかいぎえき)は、今回私が訪ねた『普済寺』を最初現在の浜松市中央区寺島に開山された寒厳義尹の六代目のお弟子さんなですって。

 

東海義易の師である寒厳義尹、700年も前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度も宋国(中国)へ渡ったそうです。そして、その二度目の宋からの帰朝でいよいよ船に乗って海上に出られると、突如として陀枳尼天(インド伝来の鬼神・ダキニテン)が空中に現れたといいます。

 

そして、インド伝来の鬼神であるダキニテンは寒厳義尹に「以後、義尹を守護する」と告げたそうです。この出来事に感激した義尹は帰国後自ら『陀枳尼天像』を刻み、護法の善神としてお祀りしお弟子さんたちに彼の真言を唱念し、御祈祷するようにと伝えます。

 

その後、1441年(嘉吉元年)東海義易がここ豊川の地に妙厳寺の開創の折、御本尊には寒厳義尹伝来の『千手観世音菩薩』を安置し、寒厳が自作した『豊川吒枳尼真天像』を妙厳寺(愛知・豊川稲荷)の山門の鎮守とて祀ったといいます。

 

その霊験は顕著で、歴代武将の今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等をはじめとする歴代著名人など広く帰依され、一般信者の信仰も集めたとのことです。

 

参照元:当山の歴史 | 豊川稲荷 豊川市 寺院 初詣 祈祷 精進料理 供養    豊川陀枳尼天

 

徳川家康公は豊川稲荷だけでなくこちらの「北山稲荷」も戦勝祈願のため何度も訪ねていたようですね。というのも、こちらの北山稲荷境内の石碑に書かれています。

 

境内の石碑には「徳川家康は平素深く崇敬する普済寺の御稲荷様の加護により犀ヶ崖に布の橋を架し武田軍の将兵に多大の損傷を与えた。この為、家康はますま信仰を厚くし、浜松城に千代吉稲荷として祭祀、後に江戸城には千代田稲荷として奉斎した」とありますから。

 

徳川慶光公御手植え之松

 

普済寺の本堂の裏には、うっそうとした木々に囲まれ「徳川慶光公御手植え之松」と刻まれた小さな記念碑があります。

 

きっと、記念碑の後ろの松の木を、15代将軍徳川慶喜公のお孫さんの慶光公が御植えになられたということだと思います。

 

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最後に

 

今回記事にさせていただいた『普済寺』は、大河ドラマ『どうする家康』の放送が始まって間もないころ、当時私の心の中は築山御前でいっぱいの頃でした。

 

そのためか、築山殿のお墓がある『西来院』に出かけてアジサイを眺めたり、佐鳴湖の周りをぐるぐると歩き回っていたせいか、こちらの『普済寺』を記事にすることなく、ドラマもすっかり終わってしまいました。

 

言い訳ですが、一度はこちらの『普済寺』の入り口がわからなくてそのまま帰宅したり、ウォーキングで立ち寄るはずだったのに参加できなかったりと、近くまでは何度も足を運んだのです。そしてやっと訪ねる機会ができた6月、北山稲荷と徳川慶光公御手植え之松のことをすっかり忘れていました。暖かくなったらまたお参りしに出かけたいと思っています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。