sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

『摩訶耶寺』の高麗門は家康が築城した野地城が廃城になった時移築されたもの

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の徳川家康ゆかりの地は、静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶の『摩訶耶寺』です。

 

なぜなら、摩訶耶寺の『高麗門』は、徳川家康が浜名湖畔に船入できる水城として築城した同じ三ヶ日町の『野地城(のじじょう)』が廃城になった時に、当地の領主であった近藤用高の手配により、山門として移築されたといわれているからです。

 

こちらの摩訶耶寺の周辺もさすがの三ヶ日ということで、今の季節(11月下旬)はみかんが鈴なりです。あたり一面オレンジ一色に染まっています。あまりの重たさに地面に着地してしまっているみかんもあって、かわいそうで食べてあげたくなります。

 

摩訶耶寺は奈良時代開基で1300年の歴史を持つ古刹です。平安時代の様式をもつ日本の中世を代表する静岡県最古の摩訶耶寺庭園。さらに国の重要文化財に指定され子育て観音として信仰を集める『木造千手観音像』と『木造不動明王像』は必見です。

 

また、こちらの摩訶耶寺さんは「撮影ALL OK!」というところが魅力で、最初の受付でこちらが尋ねる前に教えてくださる親切で好感度抜群なお寺さんです。

 

『摩訶耶寺』本堂

 

 

高野山 真言宗 摩訶耶寺(まかやじ)

 

 

場所:静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶421

 

《アクセス》

 

電車・バス:天竜浜名湖鉄道[三ヶ日駅]から徒歩35分
      遠鉄バス[浜松駅]から【三ヶ日行き】[三ヶ日バス停]から徒歩徒歩約30分
      東名ハイウェイバス[三ヶ日バス停]から徒歩10分
車:東名高速道路[三ヶ日IC]から車で約15分
駐車場:参拝者用の無料駐車場があります
拝観時間:9:00~16:30
休館日:8月10日(臨時休あり)
拝観料:本堂受付にて大人400円、高校生300円、中学生200円、小学生以下無料
拝観時間の目安:約30分
御朱印:いただけます。300円

 

ありがた~い『摩訶耶寺』ご本尊の御朱印

 

摩訶耶寺は、聖武天皇の祈願寺として神亀3年(726)年、行基菩薩によって新達寺(しんだじ)として開創された真言宗の古刹で、静岡県下最古の名刹の一つです。

 

引佐町奥山の富幕山(とまくやま)に開創された新達寺(しんだじ)は平安時代に千頭ヶ峯の観音岩と呼ばれる場所に移り名を真萱寺へと変え、やがてマカヤ寺と呼ばれるようになり平安時代末期に一条天皇の勅願により今の場所へと移りました。

 

ご本尊は古来より厄除けで知られる厄除正観世音菩薩(秘仏)です。厄除正観世音菩薩は奈良時代から今日まで、度重なる兵火・天災から僧たちによって守られ受け継がれています。毎年2月3日には星祭りが行われます。

 

参道を進んでいくと、まずはかなりの価値がありそうな山門が見えてきます。これこそが、家康が築城した『野地城』から移築した『高麗門』です。

 

高麗門

 

 

摩訶耶寺『高麗門』の表側と裏側

 

摩訶耶寺の高麗門の歴史は、徳川家康が浜名湖畔に船入できる水城として、1680年(天正11年)に築城された『野地城(のじじょう)』(浜松市北区三ヶ日町都筑431 1402)が1680年(延宝8年)に廃城になった時に、当地の領主であった近藤用高の手配により、山門として移築されたといわれています。(山門裏の案内看板より)

 

《野地城》


野地城跡の案内板によると”1583年(天正11年) 徳川家康の武将 本多平八郎忠勝・本多百助信勝等が築城し、1680年(延宝 8年)までの96年間存在した戦国末期の形式を残す湖岸の代表的な平城である”とのことです。

 

本堂

 

すがすがしい雰囲気を醸し出す『摩訶耶寺』の本堂

 

1573年(元亀4年)正月、武田信玄軍による兵火により、山中にあった摩訶耶寺の諸堂は消失してしまいましたが、江戸時代になり三ヶ日地方の領主となった近藤用行の力添えにより、現在地に1632年(寛永元年)に本堂が再建されました。

 

400年の歴史ある建物ですが柱や床は傷んでいません

 

本堂に入り拝観させていただいたのですが、案内の方がおっしゃるように再建から400年近くも経過しているのに、廊下の板などは歩いてもビクともしませんし、キュキュなんて音もしません。さすがの”けやき”と言わざるを得ません。

 

本堂に入ってまず案内の方が教えてくださったのは、上を向くと見える見事な『格天井図』です。まさかのカラー(色鮮やか)で美しいのです。400年前からいちども補修していないとは信じられません。

 

本堂格天井図

 

法橋関中の筆による極彩色の花鳥が描かれている『格天井図』

 

入母屋造り5間4画。総けやきの巨材をもって造作されており、格天井には法橋関中の筆による極彩色の花鳥が描かれています。

 

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愛染明王(鎌倉時代寺宝)


像高は6.1cmと小さいのですが、白檀の寄木造りで深く刻まれた複雑な彫刻、眼には玉眼が施され、歯や舌まで表現、引き締まった力強い表情で均整の取れた体つきなど非常に優れた作風になっています。「玉眼」とは目の部分をくりぬき、内側から水晶が入れてあります。(2023/10/14~12/3”みほとけのキセキⅡに出張中で見られず残念!)

 

《良縁など願う愛染明王》

愛染明王は平安時代、弘法大師によって日本に伝えられ、鎌倉時代頃から信仰されるようになりました。密教では「煩悩即菩提」との言葉があり、煩悩があるからこそ人々は悟りを求める心が生まれると考えられています。その教えを象徴しているのが愛染明王であり、煩悩や愛欲が悟りを求める心に導き、悩みや苦しみから救ってくださるのです。

摩訶耶寺の愛染明王は本来6本の腕を持ち、それぞれの手には衆世の眼を覚ますための五鈷鈴(ごしゅれい)、五鈷杵(ごこしょ)という煩悩を打ち砕く法具、悟りの世界への道を象徴する蓮の花、人々を正しい方向へ導いてくれます。

何も持っていない手がありますが、祈る人々の願いをすくい取るために空けているのです。愛の力にあふれ、良縁、夫婦円満、戦勝祈願、天変地異の鎮静なども願う存在です。住職

(中日新聞 みほとけのキセキⅡの記事より)

 

金剛力士立像(静岡県重要文化財)


平安時代末期の本格的寄木法に成る大作。筋骨隆々な体、そして鋭い目つき、睨みをきかせた顔つきでお寺の門を守る仏様です。(公開されていません)

 

大黒天(浜名湖七福神)

 

浜名湖七福神霊場は、いずれも奈良から平安初期の開創の真言宗の古刹です。摩訶耶寺は大黒尊天(裕福の徳)になっています。

 

有福蓄財の大黒天は、インドのシヴァ神を起源にもち、日本に入って大国主命(オオクニヌシノミコト)と習合しました。大黒様の打出小槌(うちでのこづち)は「土」に通じて、五穀豊穣をあらわし、福袋は無尽蔵の富を、大きな頭巾は上を見ない謙虚さを、二俵の俵は「足るを知る」清廉の心を表しています。

 

こちらの大黒天は皆さんが撫でながらお参りされるためでしょうか?だいぶ削れて可愛そうな感じがしますが、裕福の徳は誰もが欲しがりますから仕方ないのかもしれません。

 

宝物館

 

国指定重要文化財の不動明王像、千手観音像、および県指定文化財の阿弥陀如来像を展示しています。庭園、宝物館の拝観は有料です。

 

不動明王像(国指定重要文化財)(平安時代中期)

不動明王像(国指定重要文化財)

 

900年ほど昔、平安時代の中期に作られたお不動様で、大正12年に国宝に指定されました。ヒノキの一本彫りで、木目がいかされた姿で、胸回りや腕の筋肉の張り具合、足のスネなどどこも継がずに1本の木から彫りあげられています。

 

左右に重心をかけた体つきが、衆生を何が何でも救済しようとする意思の強さをはっきり表しています。また、宝剣を持つ右手の、くの字に曲げられ引き締まる線が美しいです。

 

千手観音像(国指定重要文化財)(藤原時代初期)

 

千手観音像(国指定重要文化財)

 

今から1200年ほど昔、鎌倉時代の初期に作られた観音様で、大正4年に国宝に指定されました。ご本体は一本彫りで横から出ている手は、寄木で体に差し込んであるそうです。

 

昔は全身に彩色が施されていたそうですが、すっかり色は落ちてしまい、今では口唇に残った朱の色だけが表情に鋭さを際立たせています。この紅色は、海の赤サンゴから取られたサンゴの紅だと言い伝えられているそうです。


つややかで美しい気品が漂うお顔をされた観音様で、昔から子育て観音として広く信仰され、子宝を授かった方も多いと伝えられています。

 

阿弥陀如来像(静岡県重要文化財)(平安時代末期)

 

阿弥陀如来像(静岡県重要文化財)& 頭の部分[お留守のため写真でした]

 

今から850年ほど昔、平安時代末期に作られた阿弥陀様で、ヒノキの寄木造りでできています。非常に整った顔の仏様で拝めば心あらわれ、清々しくやすらかな、ゆとりのある気持ちにさせていただけます。

 

おでこには白い毛が1本あり、これを白毫(びゃくごう)といって、水晶がはめ込んであり、その上の赤い玉は肉髻珠といってメノウがはめ込んであるそうで、洗練された風貌が、静かな魅力をたたえているような気がします。後の光背は江戸時代に入ってから作り直されているとのことです。

 

本堂から外に出てきました。すぐに目に入るのが『五重塔』です。こちらは焼失してしまった諸堂を、1632年(寛永元年)現在地に本堂を再建するため力添えをしたと伝わる江戸時代の三ヶ日地方の領主近藤用行公夫婦御廟です。

 

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近藤用行公夫婦御廟

 

摩訶耶寺の発展に大きく尽力した近藤用行公夫婦御廟

 

この五重塔は用行夫妻の供養塔で長子用高により建立されました。用高は長崎奉行、大目付へと出世し、こちらの摩訶耶寺の発展に大きく尽力した殿様だったといいます。平成27年春に、墳丘廟塔をここに復元整備していにしえの姿を再現しています。

 

静岡県指定 名勝 摩訶耶寺庭園

 

静岡県の指定名勝 石が目立つ『摩訶耶寺庭園』

 

平安末期から鎌倉初期の日本の中世庭園を代表するもので、約1510平米(458坪)の池泉鑑賞兼廻遊式蓬莱庭園です。京都西芳寺(さいほうじ)に次ぐ古さの日本櫛屈指の名庭として喧伝されています。

 

造形力の高い池の地割りと築山構成で、石組み群が美しいハーモニーをかもす、作者不明の静岡県最古の庭園だそうです。

 

案内板によると

摩訶耶寺庭園は昭和43年からの調査により世に出た静岡県最古の庭園であり、日本屈指の名園です。詳しい文献などは残っていませんが、詳細な調査研究から、平安時代の影響を強く残す鎌倉時代前期の庭であることが明らかになりました。

また、庭園の約80%は当時も姿を残しており、この時代の庭園としては非常に珍しいです。

この庭園は石組で険しい山々が表現され蓬莱の世界を表しています。左手の出島の中央には三石が組まれており、これは三尊石でこの場所がこの庭の中心であることを示しています。

池の中央の島は鶴の島で、首を伸ばして大空を飛んでいるような姿で左手に長く首の石(鶴首石)を組み、島の中央には羽石を三石で組んでいます。次に、ひだりの出島と鶴嶋の間に七石の石組みがあります。これが遠くに見える山を表した遠山石というものです。

本庭の優れた点は石組であり、特に護岸石組や中島の鶴石組がほぼ完全に保存されている点は他に例を見ません。これらの石組は、石がやや小ぶりである点、角のある立石を使ってある点、力強さが表面に出ている点などが鎌倉的であるが、出島中央に組まれた三尊式石組などは平安様式を留めており大変に貴重な庭園です。

この庭は一つの物語のような奥深さがあり、見る位置の変化によって様々な美しさが楽しめる庭園です。浜松市教育委員会 平成19年3月

とのことです。

 

つづいて、大きな石がや、塔婆、石仏が並ぶお庭が続きます。

 

『笠塔婆』と『西国三十三観音石仏 百観音巡礼石仏』

 

笠塔婆と西国三十三観音石仏 百観音巡礼石仏

 

『笠塔婆』とは、仏像などを刻した笠屋根と宝珠を載せた石造物ということです。ちょっとくすんだ赤い毛糸の帽子をかぶっているのが宝珠でしょうか?そして、確かに笠屋根があって、少し他のものと違う気がします。

 

塔身に仏像などを刻した笠屋根と宝珠を載せた石造物で善根のために、造立された他の石造物と比べて大変、数が少ないものです。江戸中期より笠付墓石が多く造立されたがその姿は笠塔婆と同じように見えるが、造立の目的は大きく異なっている。

摩訶耶寺笠塔婆は正面と左右に地蔵尊、つまり六地蔵を彫っていて裏面には上水菩薩、下化衆生と刻まれ六地蔵が六道を巡り衆生を救済するようにとの願いから当時の住職、慶観により元禄7年(1694年)造立されたことがわかる大変、珍しい貴重な石造物あります。三遠庭園研究所

(案内看板より)

 

『西国三十三観音石仏 百観音巡礼石仏』とは、案内看板には

江戸初期寛文(1660)のころに、旅費の工面ができない庶民にも西国観音のご利益にあずかれるようにと、玖老勢石にて西国三十三観音石仏が造立されたようで、中央部右の小石仏は、西国三十三観音参拝講中により、宝永二年(1705)に関東産安山岩にて造られた。

中央左側の小石仏は、西国三十三・板東三十三・秩父三十四観音の百観音札所巡札という、三千五百キロに及ぶ道程を徒歩にて満願した信者により奉納された石仏で、当時の人々の夢であった百観音のご利益に4あずかれるようにとの石仏であろう。

とあります。

 

そして、赤いのぼりがなびく脇の階段を登ると、そこには『津島神社』があります。

 

津島神社

 

赤いのぼりがなびく階段を登るとそこには『津島神社』があります。

 

場所:静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶421-11

 

案内板によると

祭神:建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)《牛頭天王(ゴズテンノウ)または祇園天皇(ギオンテンノウ)。一般には、略して「天王様(テンノウサマ)」と云う》

創始:創立年度不詳《慶安四年(1651年)再建の棟札がある。
境内社:熊野社
例祭日:毎年4月第2日曜日

祭神須佐之男命は、農民を苦しめ田畑を荒らす八岐大蛇(ヤワタノオロチ)を退治し、国を治め、民のくらしを豊かにした。このようなことから河川の氾濫を治めたり、農耕を守る神として祀られ親しまれてきた。
また巨大な力をもつ荒ぶる神と云われることから、魔除け疫病鎮圧の神としても信仰されてきた。

村人達は昔から天災・疫病・神の祟り等をおそれ、魔除けや疫病消除に霊験あらたかといわれるこの祭神を愛知県津島市の津島神社(児相・津島牛頭天王社)から分離社として迎え、方策と無病息災を願い、村の鎮守・氏神として摩訶耶バ原荒(バラアラ)に津島神社を建立した。

明治のはじめ神仏分離令で「牛頭天王」の神号が廃されたのに伴い、村から遠く離れて山中に鎮座する津島神社を、祭神が同じ須佐之男命であるので摩訶耶寺社頭の天王社に移遷して合祀し、現在の津島神社となった。同時に千頭峯にあった熊野神社も境内社として迎え、祀ることとなった。

現在の社殿は昭和17年に建て替えたものである。平成12年12月 摩訶耶区

とのことです。

 

なるほど!愛知県津島市にある津島神社は、災厄と疫病除けの守護神として建速須佐之男命を祀った国内にある約3,000の天王社の本社です(津島信仰)。この摩訶耶寺にある津島神社はその御分霊社の一つということのようです。

 

もともと、牛頭天王を祀る神社だった津島神社は、明治維新後の神仏分離令によって、垂迹神(すいじゃくしん/仏語。本地としての仏・菩薩と垂迹としての神。本地である仏・菩薩が夜の衆世を救うために、姿を変えて現れたものが日本の神であるとみるもの)である建速須佐之男命を祀る神社になったようです。

 

こちらの津島神社は大変小さな神社ですが、同じ浜松市東区には天王町という集落があり、この津島神社を中心に町が栄えたことが伺えます。

 

浜松市のホームページに『東区故事』というPDFがあります。興味深いので内容を掲載させていただきます。

 

恒武町(つねたけちょう)

恒武町内の県道沿いにある六所神社の創立は、782〜806年の間だと伝えられています。そのころ、桓武天皇の何番目かの皇子が、都での政争を嫌ってこの土地に住みつきました。そのため、この土地を「桓武(つねたけ)」と言うようになりました。
その後、天皇の御名を呼び捨てにするのは恐れ多いとの考えから桓を恒に変えて「恒武」と呼ぶようになったと言われています。

恒武町は笠井町の南にあたり、明治時代に卸売団地のはしりとも言われる「遠陽市場」が開設された場所も、この恒武町でした。

天王町(てんのうちょう)

天皇という地名は、この町に鎮座している大歳神社(おおとしじんじゃ)が、昔は「牛頭天王社」と呼ばれ、天王のお宮として崇拝を集めていたことに由来します。この神社の呼び名から、この地が天王と呼ばれるようになりました。

大歳神社は素戔嗚命(すさのおのみこと)や大歳神(おおとしがみ)など数社の神を祭神としている、この地方きっての古社です。

大歳神社は、景行天皇四十年事代主命が須和(諏訪)の地に、天王社を建立して先祖を祀り、この霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人がこの処に奉還したしたものです。
坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したともいわれ、遠州一円の天王社の総社と云われています。

大歳神社は現在でも「疫病除けと花火の天王さま」として知られ、毎年8月1日に近い土日に行われる大祭には、数百発の花火が打ち上げられます。

 

最後に

 

徳川家康の武将・本多忠勝などが浜名湖畔に築城した野地城の高麗門が摩訶耶寺の山門として移築されたと聞いて、とにかく1度訪れてみたかったのが、今回ご紹介した『大乗山摩訶耶寺』でした。

 

高麗門はさすがによく保っているなと感じるほどの古さといいますか重厚感があり、日本、中でも住まいのある浜松の歴史を感じることができました。

 

ところが、摩訶耶寺の歴史はその門よりも遥かに古く、国の重要文化財に指定された平安時代の御仏や静岡県最古の庭園など寺内を回っている間ワクワクが止まりませんでした。

 

さらに、最近YouTubeなどで話題で自身も興味津々な『古事記』に登場する神々、その中の建速須佐之男命が祭神の『津島神社』が少し高いところにあったことにビックリ!たまらず津島神社のことも調べてしまいました。

 

2022年の春に大河ドラマ『どうする家康』の放送開始を知り、戦国時代、しかも徳川家康のみに興味を持ち、地元の家康ゆかりの地をあちこちと巡りながら、結果なんとなく歴史好きになってしまったようです。

 

還暦ながら興味が尽きないテーマがあって幸せでござる!ということで、今回はこのへんでおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。