🕖2023/11/29 🔄2024/02/16
こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりの神社は浜松市東区有玉南町の『有玉神社』です。霊験あらたかな神社として七五三や初詣などに訪れる方も多く、地元の人々のおかげでいつもきれいな神社です。普段はどちらかというと静かな印象で落ち着いた感じです。
『有玉神社』秋の例大祭で現在も行われている流鏑馬(やぶさめ)は、およそ400年前、家康公が『大阪夏の陣』を終えて江戸に戻る途中、戦場で乗った愛馬を寄進したことに始まるといわれ、江戸時代には浜松城主が毎年見物に来たと伝わります。2023年の秋の例大祭の『流鏑馬』では、初の女性射手が登場して話題になりました。
あの『大阪夏の陣』の帰り道に戦場で戦った愛馬を寄進したってことだけでも「徳川家康ゆかりの神社」として注目するのに十分なのですが、『有玉神社』には他にも「塩干の珠」の伝説が残されています。
この伝説により”潮干珠”が沈んだところを『有玉』といい、そこに社を建てて有珠の社『有玉神社』としたとされたのですが、伝説の内容はこのあと知っていただくとして、狛犬についても不思議な点があります。
これまで狛犬というのは阿吽というのが当たり前と思っていましたが、なんとこちらの狛犬は阿形の狛犬が向かい合っています。地元では有名だそうですが、ご近所ですしこれまで何度もお参りしていたにもかかわらず、「いやに背筋の伸びた狛犬だ」と感じた程度でネットで調べるまで全く気づきませんでした。
ネットの情報ってすばらしい!ということで、そろそろ『有玉神社』の御由緒から始めましょう。
有玉神社
場所:浜松市東区有玉南町1624-1
《アクセス》
電車:バス:遠鉄電車[自動車学校前駅]から徒歩6分、[上島駅]から徒歩約14分
遠鉄バス[浜松駅]で【浜松医大行き】乗車[有玉神社前]バス停で下車
車:東名高速道路[三方原スマートIC]から約6分
東名高速道路[浜松IC]から約21分
駐車場:参詣者専用の無料駐車場があります
御朱印:いただけるようです ※1日と15日の朝・晩の時間帯、祭事のある日ならもらえるとか
御祭神:天照意保比留賣貴命など23柱
御由緒
明治四十年、当時の有玉村は世帯数三百八十戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて十二社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が三社、小部落で行う神社が九社あった。
神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、一村一社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と社会教化の中心にしようとして、明治四十年九月十日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて十一社を合祀し、郷社有玉神社と称することにした。
新社殿は大正二年に完成し、同年九月十日に御遷宮された。
昭和二十七年八月二十日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により六等級神社と承認された。
御神徳
有玉神社には太古より「珠」が祭られているといわれてきた。「珠」は御宝として尊ばれ、昔から多くの人々の厚い信仰を受けてきた。「玉」を生業とする人々の信仰が特に厚い。自動車のエンジンは即ち「玉」ということで自動車関係から参拝者が増えてきている。
また、二十三柱の御祭神が合祀されている神社であるので、「国家安泰」、「子孫繁栄」、「五穀豊穣」、「家内安全」、「商売繁盛」、「学業成就」等あらゆることに御加護がある。
有玉神社の伝説
昔、天竜川河口近くに3,000年を経るという赤大蛇が住んでいた。
坂上田村麿将軍が東征でこの地を訪れた時、美女に化けた赤大蛇と恋仲になり2人の間に子供ができた。美女は将軍位子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。
しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところをみてしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。
この子は成人し、俊光将軍といわれる武将になり再び父子で東征の命を受けこの地を訪れる。
その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「塩干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。この平野にやがて人が住み村が出来た。
ある年、毎夜東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を祀ったのが有玉神社だといわれる。
御祭神
有玉神社はこの地方きっての古社である。御祭神は『天照意保比留賣貴命(あまてらすいほひるめきのみこと)』をはじめとして23柱にのぼり、国家安泰、子孫繁栄から家内安全、学業成就まで幅広い願い事にご信徳があるとされている。
天照意保比留賣貴命
天手力男命
萬幡豊秋津姫命
譽田別命
息長足姫命
大鷦鷯命
猿田彦命
菅原道真公霊
國狭槌命
弥都波能賣神
金山彦命
稲倉魂命
事解男命
速玉男命
大年神
御年神
志那都比賣命
志那都比古命
須佐之男命
大物主命
大山祗命
伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)
伊邪那美命 (いざなみのみこと)
関連記事>>
向かい合う阿形の狛犬
有玉神社といえば、向かい合う阿形の狛犬も有名だそうです。こちらの狛犬は背筋を伸ばした東大寺南大門型の狛犬ですが、よく見ると左右とも口を開いているのです。
一般的に狛犬とは、向かって右に口を開いた阿形、左に口を閉じた吽形。左右合わせて阿吽となるように据えられて社殿を護っているといわれていますが、実は『東大寺南大門型の狛犬』は左右とも阿形なんですって!
浜松市天竜区阿蔵の『玖延寺』の狛犬も同じ『東大寺南大門型の狛犬』ですが、有玉神社の狛犬は大きく、台座には牡丹が刻まれ狛犬というよりは向獅子とみられることが多いのかもしれないとのことです。
有玉神社の流鏑馬
有玉神社の秋の例大祭で現在も行われている流鏑馬(やぶさめ)は、およそ400年前、家康公が大阪夏の陣を終えて江戸に戻る途中、戦場で乗った愛馬を寄進したことに始まるといわれ、江戸時代には浜松城主が毎年見物に来たと伝わります。(有玉神社境内の案内板より)
有玉神社のホームページに流鏑馬の”一連の行事”が掲載されています。せっかくですので、引用させてもらいましょう。
《禊(みそぎ)の儀》
行事の当日、馬に乗る人(一の松、二の松、三の松)口取り(馬の口を持つ人)行事を進行する人が米津の海岸まで行き、安全を祈願する。(昔は井戸の水でそれぞれが体を清めていた)
《お馬受け取りの儀》
馬に乗る三人が厩に行き、「世話人の皆さん、例年通り今年も馬をお借りします」と頼み馬を借りる。
《宮回りの儀》
三頭の馬がお宮の周囲を一回りする。(馬が神社をお守りするという意味を持つ)
《射形(しゃけい)の儀》
三人は的に向かって三本ずつ矢を放つ。使われた矢や的は縁起物として見物人に配付される。
《弓張り(ゆみはり)の儀》
三頭の馬がお宮の周囲を一回りする。(馬が神社をお守りするという意味を持つ)
《剣(つるぎ)の舞の儀》
三人は的に向かって三本ずつ矢を放つ。使われた矢や的は縁起物として見物人に配付される。
《奉納相撲》
最後に三人は相撲によって勝負を決めることにする。二の松の行司で、一の松と三の松が相撲をとり、一の松の勝利でこの行事が終わる。
江戸時代には、浜松城主が毎年多くのお供を引き連れて見物に来たと言われている。今に残る、有玉の特殊行事である「流鏑馬」を今後も継続保存していくことにより、温故知新の心を未来にもつなげていきたい。
有玉特殊行事流鏑馬実行委員会
2023年『有玉神社の秋の例大祭』で初の女性射手が登場!
現在地元の12の自治会のうち3つの自治会が持ち回りで射手を1人ずつ出すそうですが、馬を飼育する家庭が減り、乗り手がいなくなったことなどから流鏑馬を実施されない時期がありました。
約35年前は実施されていなかった流鏑馬ですが、氏子総代が変わった2000年頃から再開されたとのこと。さらに、約6、7年前には女性が流鏑馬に参加することも認められるようになりました。
そして、ついに2023年の『有玉神社の秋の例大祭』で初の女性射手が登場!高校時代に弓道部に所属していた女性が約1年間腕を磨くために月に2回道場に通って念願の射手を努めたのです。
実は2022年にはすでに一時射手に内定していたそうですが、コロナウイルスの影響で流鏑馬が実施されなかったため延長になり、2023年の今年見事にやり遂げたとのことです。
さらに、こちらの女性は流鏑馬の後には、境内で行われた練りでも女性として初めてのラッパ隊長と12の自治会をまとめる総ラッパ隊長も見事に努めあげたそうです。
(中日新聞より)
俊光将軍社
有玉神社の敷地内にはもうひとつ『俊光将軍社』という社殿があります。有玉神社社殿の左側にあるこちらは古来から”雨乞いの神様”として村人たちの信仰が厚かったと聞きます。
天気が予測できる現在ではさすがに”雨乞い”の参拝者はいないようですが、病気、特に下の病に霊験あらたかとされています。
先ほど記した伝説にもありますが、征夷大将軍・坂上田村麿と赤蛇神との間にできた子が俊光です。
赤蛇神を祀っているのが『(椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ)』、田村麻呂を祀っているのが『田村将軍神社』です。そして、その子、俊光を祀っているのがこの有玉神社内の『俊光将軍社』ということです。
俊光は赤蛇神の化身であった母、玉袖が残した子育て玉を舐めて育ちました。そして、袖ヶ浦と呼ばれた天竜川の水害を鎮めるため、赤蛇神が田村麻呂に残したもう一つの玉、潮干の玉を投げたところが現在の「有玉」ということです。
ナギの木
洪水を鎮めた伝説に由来する有玉神社、俊光将軍社にはナギの木が植えられてます。
『俊光将軍社』が有玉西町から移座したのは1907年(明治40年)。ナギの木はかなり大きく育っているのですが、樹齢は100年ほどではないかということです。
伝説通り坂上田村麻呂、俊光親子が玉を投げなければ、現在の天竜川下流の平野はなかったことになります。
このナギの木は「凪」を連想し、掛塚では開運安全や水難守護を願って植えられた木だそうです。洪水を繰り返したという天竜川の災害史を忘れないため、2度と繰り返さないことを願い、このナギの木が植えられたのだといわれています。
八幡大菩薩
拝殿横には境内社の『八幡大菩薩』様が鎮座しています。
参照元:自然と歴史の中を歩く!:有玉神社を訪ねる①―「有玉神社の伝説」
関連記事>>
最後に
現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』では、すでに、これまではクライマックス「天下分け目の戦い」とおもわれていた『関ヶ原の戦い』が「豊臣家の内輪もめ」という新説で描かれ、『大坂の陣』のきっかけとなった方広寺の鐘に刻まれた文言のエピソードが描かれました。
そろそろ近づいているラストに向かって、本当の家康の天下取りとなる『大阪の冬・夏の陣』の放送が楽しみなところです。
今回ご紹介した『有玉神社』の流鏑馬の始まりは、およそ400年前、家康公が大阪夏の陣を終えて江戸に戻る途中、戦場で乗った愛馬を寄進したことからですし、磐田の御殿では秀忠と大阪の陣の「作戦会議」を開いたとも伝わります。
現在の社殿は大正2年に完成したものとはいえ、ドラマで1年間、家康が駿河の今川家の人質だった頃から浜松時代、やっと名実ともに天下を取った大阪の陣までを、感動的に、時に面白く見せてもらった後に、『大阪夏の陣』の戦場で乗った愛馬を寄進したこの『有玉神社』を改めて訪れたら、もしかしたら感動して涙がこぼれてしまうかも・・・。
時代を超え歴史上の人物と同じ空間に立てること、同じ場所で暮らせることって本当にすごいことだと思いませんか?
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。