こんにちは sannigoです。いつもありがとうございます。
いろいろと胸が痛む出来事が重なる幕開けとなってしまった2024年です。被害に遭われた皆様に心よりのお見舞いと一日も早い復旧をお祈りします。
新聞広告で知った災除道開(さいよけみちひらき)の神として広く崇敬を集める『曽許乃御立神社』が、調べてみると地震を起こす大ナマズを要石の下に押さえつけ地震を起こさせない”地震封じ”の神としても慕われていると知り、今年の初詣はこちらの『曽許乃御立神社』に決めたのでした。
静岡県浜松市西区呉松町に鎮座する『曽許乃御立神社(ソコノミタチジンジャ)』は、地元では「お鹿島さま」の名で親しまれる”災除道開”の神社です。1200年以上の昔、奈良時代の767年(神護景雲元年)より武甕槌命(タケミカヅチノミコト)をお祀りする由緒正しき式内社です。
御祭神の武甕槌命は、神話『国譲り』の成就に貢献し日本の建国に尽力した武勇の神様でもあります。
御朱印をいただく時に宮司さんに教えて頂いて、浜松市民の私が知らなかった『曽許乃御立神社』そして舘山寺観光の真実?を知ることになりました。
こちらの神社は、今川義元の時代には武運長久のご神徳を崇められ神領130石を賜わり、現在の御手洗池まで川が繋がり、雄踏からも船でお参りに来るほど賑わっていたこと。
ところが、その後徳川家により一旦神領を没収されてしまったこと。それでも慶安年間に三代将軍家光公によって朱印と10石を賜ったおかげで現在につながっていること。
実は浜松市から「公園を作るから」と言われ、現在のフラワーパークなどのために西側の土地を譲ったため境内が狭くなってしまったということ。
こちらをご参拝したあと、フラワーパークに立ち寄ってバラや温室のお正月モードの展示を楽しみながら、藤棚に続く一番東奥まで散策したところ、何となく境内の御手洗池と繋がっているだろう川というか水路を発見!
思わず平安時代の雅な人々が船からおりて、扇で顔を隠しながらにぎやかにお参りする様子が頭に浮かび、しばし意識が飛んでしまいました。
奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・戦国時代・安土桃山時代・江戸時代と続く歴史を背負う神社だからこその歴史を知ることができた2024年の初詣はとても意味あるものとなりました。
前説が長々となってしまいましたが、フラワーパークから舘山寺街道を東へ車を走らせ、道沿いに『一の鳥居』を見つけられたらさっそく『曽許乃御立神社』をお参りしていきましょう。
曽許乃御立神社(ソコノミタチジンジャ)
場所:浜松市呉松町3586
《アクセス》
電車・バス:遠鉄バス[フラワーパーク]バス停から徒歩約13分、[鳥居先]バス停から徒歩約6分
車:東名高速道路[浜松西IC]より車で約9分
駐車場:北門から入ると10台ほどの駐車場があります
WC:駐車場にあります
参拝:24時間
御朱印:いただけます
常陸の『鹿島神社』にいらした武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が、神聖な神の使いである白鹿に乗られ、大和の『春日大社』に向かう途中こちらの根本山で休憩された際に近隣住民が御神徳を慕って社殿を建立、御分霊をいただいてお祀りしたことが創建の起源とされ、927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳の記載のある古社(式内社)です。
『武甕槌命』といえば武神・剣神として知られますが、名前のミカヅチは厳雷(イカヅチ)、御雷(ミカヅチ)とも解釈されていることから、本来の神格は雷神と考えられます。別名、建布都(タケフツ)神とも豊布都(トヨフツ)神ともいいます。
また、出雲の国譲りでは大国主の息子である『建御名方神(タケミナカタ)』が「力比べをしよう」と挑んできたため、タケミカヅチは手を氷の柱や剣に変形させ、タケミナカタの手を逆さに潰して放り投げたといい、怯んだタケミナカタは科野国の洲羽(信濃国の諏訪)の地まで逃げるのですが、ついに追いつかれ降伏します。このときの戦いが「相撲」の起源だと聞きます。
『神武東征』の際には神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト/後の神武天皇)の軍勢が荒ぶる神の妨害により苦戦をしいられた際、高天原(タカマノハラ)より一降りの太刀を投げ入れてその窮地を救った事から『災除道開(さいよけみちひらき)』の神として崇敬を集めているとのこと。
名前の由来
何とも読みづらいこの『曽許乃御立(ソコノミタチ)』という名前の由来は、
曽許乃御立神社│カメの集まるスポット によると
①古語の舘(タチ)の意味で、館山が近くにあることから、上古には地方の有力豪族のお屋敷があり、後に神社として改修されたという説。
②立(タチ)は、「鹿島立ち」と同じく、発(タチ)の意味で、この地が都田や井伊谷の人々にとっては、都などに向かうたびの出発地(船出の旅)であり、旅の安全を祈願した社があったとされる。
③立(タチ)は、出雲の国譲りからとったという説。「武甕槌命が、出雲国伊那佐の小濱に降り立って、十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて逆さまに立て・・・云々」という有名なストーリーに見立てています。ここ遠江の浜名の湖の北岸に「引佐」という地名が残り、赤石山脈の向こう側には建御名方の神が居ます諏訪の湖があるからです。この場合、立っているものは、太刀(十拳剣”天之尾羽張”)ということになります。
④曽許乃御立神社は、日本書紀にあるように、国常立尊(クニノトコタチノミコト)の別名、国底立尊(クニノトコタチノミコト)のことだという説です。国常立尊は天地開闢(テンチカイビャク)の頃、最初に現れた神様で、湖沼の水面に立ち現れた葦の芽(蕾)のことらしいのです。インド風な表現を借りれば、原始のハスということになります。
⑤澪つくし(澪標、水脈つ串)のことを表しているという説。細江に居た津守が、水上交通の祈願のため、澪標を神格化して奉斎していたという説です。この場合は「曽許」は、浅瀬の水の底のことで、立っているものは、標識をつけた串(柱)ということになります。ちなみに万葉の時代から「引佐細江の澪標」は、遠江の枕詞として有名で、澪標は旧細江町の町章でもありました。
いずれにしても、御船祭が残る鹿島神宮と同様に、水運となんらかの関係を持ちつつ千年以上も古い時代から、土地の人々は、曽爾時代の世相に応じつつ、神社を守り続けてきたのでしょう。
このように、大神さまが根本山で休まれた時に、地形が鹿島に似ているからこの土地を鹿島に見立てたという説や、御立のタチが太刀に関係しているなどの説があるようです。
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さっそくお参りしていきましょう!
曽許乃御立神社は観光地として、また家康公ゆかりの地として知られる舘山寺の北東に位置します。
曽許乃御建神社南端の『一の鳥居』は浜松フラワーパーク沿いの舘山寺街道(県道48号線)に面している境内の外にあるため、車中からもよく見えます。
『一の鳥居』横の道路を北へ200mほど進むと、約10台ほど停められそうな広い無料駐車場があります。
車を停めて、駐車場横の『二の鳥居』から鬱蒼とした参道を北に向かい、谷を下っていくと右側に『御手洗池』が見えてきます。
御手洗池
御朱印を頂いた社務所でうかがったお話によると、今川義元から神領130石を賜り隆盛を見せていたころは、この御手洗池は川へと繋がり雄踏からも船でお参りに来るほど賑わっていたそうです。
鯉にあげる『放生餌』も100円で用意されています。案内板によると、
古くから社寺では池に生き物を放すことで、自分たちが物言わぬ生命のお陰によって生きていることに感謝し殺生を戒める「放生会(ほうしょうえ)」が行われてきました。
今ではむやみに生物を池に放すこともできなくなりましたので、魚を放す代わりに餌をあげることにより命を慈しむとともに、年月を経て 鯉 が 龍 になり点に願いを届けてもらえるようにご祈念下さい。
また、『こいねがい札』なるお札(水に溶ける素材で、鯉や池に永享のないもの)も300円で用意されています。案内板によると
竜門を登り切った 鯉 は天に昇って 龍 となる
この御手洗池は龍神様が鎮座し 清水を漫々と湛えてきた神池です
悠久のご神徳を頂き 天へと至る鯉たちに祈りを託す為 願い事を札に書き 池に浮かべていただきます。
とのことです。餌は今回は遠慮して『こいねがい札』に名前+地震撃退と願い事を書いて池に投げ入れてみました。本当にすぐに少しずつ消えるため、どんな願い事も恥ずかしくないですし、おみくじよりも、ちょっとしたテーマパークのようで楽しかったです。
さらに進むと『男坂』と書かれた階段と、『女坂』と書かれた坂道のどちらかを登るようになっています。(この日は女坂は通行できませんでした)『男坂』を登ると『三の鳥居』が見えてきます。礼拝しつつ鳥居をくぐります。近くには『百度石』なるものもありました。
ここでいよいよ歴史を感じる『社殿エリア』に入っていきます。
広々として歴史を感じさせる境内には、社殿を中心に、社務所・神楽殿・『六社神社』・『稲荷神社・天満宮・日吉神社』の境内社などが離れて点在しています。
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まず目に飛び込んでくるのは、本殿の右側にある『御神木』と『磐座』です。
磐座(いわくら)
この『磐座』が「要石」なのかはわかりませんが・・・。
地震を起こす大ナマズは鹿島の大神様によって要石に押さえ込まれている。身じろぎをして小さな地震を起こすことがあったとしても、鹿島の大神様がおられる限り、抜け出して大地震を起こすことなどできはしない。
つまり、地震を起こす大ナマズを要石の下に押さえつけ、地震を起こさせない『地震封じ』の神としても広く慕われているのが、こちら「お鹿島さま」と慕われている『曽許乃御立神社』なのです。
御神木もかなりの樹齢のようで、非常に高さがあり写真に全体像が収められませんでした。
手水舎
手水盤には、美しい生花がたくさん浮かべられていて、眺めているだけで満足してしまい、つい手を清めることを失念しました。
右前方に曽許乃御立神社と書かれた旗がひらひらと風に舞いながら、本殿はこっちだよと教えてくれます。まず目に入るのが『狛犬』もちろん阿吽の狛犬です。
狛犬
拝殿
歴史を感じる建物が『拝殿』で、龍の雲を得る如しの文字と金色の龍がかっこよすぎます。
拝殿で真上を見上げると見事な龍の彫り物が見れます。失礼ながら今度は入り口からちょっと内部を覗いて天井を見上げてみるとひとマスごとに絵が描かれています。これを見なくちゃ!
この「龍」と「マスごとに描かれた絵」は私的には、曽許乃御立神社に於いて、いにしえの雅を感じるNO.1スポットかもしれません。ちなみに祭壇越しには本殿が見えます。
拝殿前には『おみくじ』や『遠州八重神玉(やえだま)』のポスターもあります。「八重神玉」とは神様が宿った木玉のことで、静岡県西部に点在する8社の神社を巡拝して集めることができるようです。8つの社の玉を集めて紐を通せば願いが叶うかも!?ということのようです。
元旦に起きた能登半島地震のための義援金を、4日のお参り時にはすでに集めていてくださっていて、感謝して気持ちだけでもと入れさせていただきました。
曽許乃御立神社の本殿
拝殿の後方には本殿があります。また本殿周りは瑞垣で囲われています。
境内社
社殿の左側の植栽で囲まれたエリアには『六社神社』があります。
創建の際に供奉したとされる六柱の神を祀っているのが『六社神社』で、呉松町の神明宮(津島神社に合祀)、平松町の八幡神社、和地町の琴宮、佐浜町の貴船神社、庄和町の西宮(八所神社と合祀し大和神社に改称)、伊左地町の熊野神社です。
また、社殿の右奥の境内社には『稲荷神社・天満宮・日吉神社』があります。
社務所
境内北側の『社務所』で御朱印がいただけます。こちらでは宮司さんが丁寧に手書きしてくださり、「初めてですか?」などと優しくお声掛けいただき最初に記したお話や歴史深く趣のある社殿だからこそ、維持管理が大変というお話もしてくださいました。
神楽殿
拝殿に向かってかなり離れて後方にあるのが『神楽殿』です。
ちょっとイカシタ感じの神様の大きな絵が飾ってありました。素人の私はもしかしたら御祭神の『武甕槌命』かしら?と思いましたが、定かではありません。
曽許乃御立神社の例祭
本殿の案内板によると、曽許乃御立神社の例祭では、矢砥神事(やとぎしんじ)で研ぎ出した矢を境内の四方に射ることで災いや穢れを除ける四方射(しほうしゃ)の儀に始まり、郷内の女児によるお神楽が両日に渡って奉納され、本祭当日には社名旗、猿田彦大神を先頭に種々の宝物を捧持した行列を整え舟形神輿に大神様をお還しして、御社殿正面に位置する御旅所を目指して参進する渡御が斎行されます。
参拝者はこの舟形神輿にお賽銭を投げ入れ、神々への感謝と祈りが捧げられるそうです。
まとめ
森林公園のような樹木の中、起伏に富んだ参道を進むのは楽しくて、鎮守の杜の中に『御手洗池』を見つけ、男坂と称する階段を登り、広い境内で自然があふれる空気の中でお参りできて、新年が明けたという清々しい気持ち良さを味わうことができました。
元旦に起きた能登地震で被災された方に思いを馳せることしかできない私ですが、それでも少し沈みがちな気分も消してくれる神社でした。
こちらの神社は767年(神護景雲元年)創建ということや、鹿島神社と春日大社の中継地点だったということから、古代の藤原氏(中臣氏)と物部氏や春日氏などとの関係が垣間見られる神社なのだと知りました。
ただただ、初詣に出かける神社を新聞で探していたら、珍しい名前で行ったことのない神社だったというだけで、ネット検索してみたのです。そしたら「地震封じ」だと知り出かけたのです。
それだけなのに、あとで深堀りしてみたら、平城京(奈良)に都を定めた710年以降、古事記、日本書紀ができ、聖武天皇が各地に国分寺を建て、東大寺の大仏ができてから、767年にこの『曽許乃御立神社』が創建されていることがわかります。
そして、27年後の794年には鳴くようぐいす平安京ですから、何かしらの出来事があったと予想できます。こういったところが本当におもしろい『神社巡り』です。ということで、本年もこちらのブログをよろしくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。