sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

1600年以上の歴史を持つ『焼津神社』焼津地域の漁業関係者の信仰の強さを感じた

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回訪ねた徳川ゆかりの神社は静岡県焼津市の『焼津神社』、焼津駅から歩いて13分と市街地にある神社ですが、広大で近代的な境内が印象的、なんと自動でお水が出る大きな手水鉢が2カ所もあります。ほとんど車で出かけるので駐車場が広いのはありがたいです。

 

焼津神社は、『駿河国風土記』によれば西暦409年の創建といわれ、1600年以上の歴史を持つ神社で、古来「入江大明神」と称されます。

 

焼津は古くから多くの古墳が発掘された歴史的重要拠点でもあり、現在はマグロやカツオなどの国内屈指の漁港としても有名、近くの「焼津魚センター」は私が出かけた平日でも観光バスが3台も入り、大いににぎわっていました。


さすがに漁業の町の神社ですから、元旦の『大漁祈願祭』には1月1日早朝から3日間拝殿前には数十本の大漁の大幟(おおのぼり)が立てられるそうです。また、毎年8月12・13日におこなわれる大祭(荒祭/あらまつり)は東海一の荒祭として有名で、焼津の一大行事として毎年地元のニュースをにぎわせます。

 

駅から歩いて13分という市街地ながら圧倒されるほど広く近代的なイメージの境内には、徳川家康公が1603年(慶長8年)造営したと伝えられる『本殿』が今も残っています。

 

今川氏や徳川家などとの関係も深く武家からの信仰も厚かったこと、また命がけで海に船を出す焼津地域の漁業関係者の皆さんの信仰の強さを、こちらの神社の境内の広さや石碑、本殿の重厚な造りなどから感じます。

 

誰もが聞いたことがある伝説『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』に登場するのが焼津神社の主祭神である”日本武尊(ヤマトタケルノミコト)”。

 

父の第12代景行天皇の命で熊襲征討・東国征討を行ったとされ、その途上で賊の火攻めに遭ったヤマトタケルは『草薙剣』で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れることができたという伝説です。

 

これ以来この地は「ヤキツ」と称され『日本書紀』は焼津、『古事記』では焼遣と表記されます。異説もありますが、このヤマトタケルの草薙剣伝説の地が静岡県焼津地域とされ、今回訪れた『焼津神社』境内にはヤマトタケル像もあり、伝説の地であることを伝える神社になっています。

 

現在の『本殿』は1603年(慶長8年)徳川家康によって建てられた

 

 

焼津神社

 

 

場所:静岡県焼津市焼津2丁目7-2

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[焼津駅]から徒歩13分

車:東名高速道路[焼津IC]から10分

駐車場:約40台分の駐車場があります

御朱印:いただけます

 

焼津神社の御朱印

 

焼津神社とは

 

創建は1600年以上前の西暦409年(反正天皇4年/はんぜい)、主祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)で、上記の通り『草薙剣』の伝説から「焼津」の地名が生まれた地であることを今に伝える神社です。

 

反正天皇とは?

 

反正天皇は、記紀では第18代の天皇とされ、仁徳天皇の第3皇子で母は皇后葛城磐之媛命(イワノヒメノミコト)の子とされ淡路島で生まれたといいます。

 

兄の履中(りちゅう)天皇が太子のときに仁徳天皇が没し、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の乱でその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺し平定、履中天皇の没後即位します。古代における皇位継承が兄弟の間で行われた初めての例となりました。(反正天皇 - Wikipedia)

 

延喜式内社で、現在の本殿は1603年(慶長8年)、徳川家康の命により建てられました。また、古くは今川氏からの崇敬を受け、今川氏親からは社領として500石が寄進されており、今川氏真の朱印状が残っているそうです。


御由緒

 

室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されていました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。

 

今川氏や徳川家など武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や命がけで漁に出て働いていた漁業関係者にとっての心の支えとして崇められて現代までその信仰が受け継がれています。

 

主祭神

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)

 

ウイキペディアによれば、『日本書紀』『古事記』に残された伝説により、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)は天皇の命で東征し、その途上で賊の火攻めに遭います。

 

しかしヤマトタケルは草薙剣で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れたことができたため、その地は「ヤキツ」(『日本書紀』は焼津、『古事記』では焼遣と表記)と称される、という伝説です。

 

この火難伝説地が静岡県焼津地域に比定され、焼津神社はその事跡を伝える神社とされます。ただし、この伝説では、「ヤキツ」の所在地を『日本書紀』で駿河国、『古事記』で相武国(相模国か)と記載しているため異説も存在します。

 

駿河国では、焼津神社同様にヤマトタケルの火難伝説を伝える式内社として「草薙神社(静岡市清水区草薙)」をあげる説もよく知られています。

 

日本武尊とは

 

焼津神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。日本武尊の知恵と勇気と優しさを称え、焼津の守神としてお祀りをしたことが焼津神社のはじまりです。

 

日本武尊の力を恐れていた景行天皇は、自ら遠ざけるために九州の熊曾建(くまそたける)兄弟の討伐を命じました。

 

平定の旅に出た日本武尊にとっては苦難の連続でしたが、伊勢神宮の斎宮であり日本武尊の叔母でもある倭姫命(やまとひめのみこと)から与えられた着物で女装をし、敵を油断をさせることで見事に勝利し、平定を成し遂げました。


日本武尊の名は、もとは小碓命(おうすのみこと)また倭男具那王(やまとおぐなのみこ)といいましたが、敗れた熊曾建から「これからは、ヤマトタケルノミコと称えましょう」と名前を贈られました。(御祭神 | 焼津神社)

 

日本武尊と焼津(やいづ)の由来

 

熊曾平定の後、出雲の出雲建(いずもたける)を倒し、大和へ戻った日本武尊ですが、その力をますます恐れた景行天皇から、休む間もなく東国の平定を命じられます。

東へ向かう前に、今度は倭姫命から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と、火打ち石の入った袋を授かりました。

 

この地に着いた日本武尊は、敵に欺されて草むらの中で四方から火を点けられてしまいます。窮地に陥った日本武尊は、とっさの機転で倭姫命から授かった天叢雲剣で草をなぎ払い、火打ち石で逆に敵に向かって火を放ちました。炎は向きを変え、勢いよく敵に向かって燃え広がり、無事窮地を脱することができました。


この後、天叢雲剣は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになり、名古屋の熱田神宮にお祀りされています。

 

この伝説から、この地は「ヤキツ」といわれるようになり、現在の「焼津(やいづ)」という地名の由来となったのです。


この話が書かれている「古事記(こじき)」が編纂されたのは和銅5年(西暦712年)。「焼津」という地名には、1,300年以上の歴史があるということなのです。

 

日本武尊と弟橘姫(おとたちばなひめ)

 

焼津で敵の火攻めにあった時、日本武尊は妃の弟橘姫を守りながら戦いました。

戦いの後、さらに東に進み走水(現在の横須賀市)までやってくると、海が荒れて船で進むことができませんでした。弟橘姫が「私が海の神を鎮めましょう」といって「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも(燃えさかる炎の中で 私の名を呼んで気遣ってくれた あなたよ)」の歌を残し海に身を投げると海は静まり日本武尊は無事対岸に渡ることができました。

焼津では妻を守り、走水では夫を守り、互いを想いあう夫婦の愛の物語が古事記には描かれています。

弟橘姫が海に身を投げてから数日後、海岸に弟橘姫の櫛が流れ着いたという言い伝えがあり、今でも8月のお祭りでは「北の御旅所」という所で櫛の形に作った餅がお供えされています。(御祭神 | 焼津神社

 

相殿神

 

吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)

大伴武日連命(おおとものたけひむらじのみこと)

七束脛命(ななつかはぎのみこと)

 

上記の相殿神3柱は、日本武尊の東征に従った従者とされます。

 

では、さっそく広くてきれいな駐車場に車を置いて、広い境内ですから大きな鳥居がある『元焼津公園』北側方面から回っていきましょう。

 

北側の大きな鳥居

 

『焼津神社』駐車場付近の鳥居と、北側の大きな鳥居

 

参道と焼津神社内の水産翁顕彰碑

 

清々しい参道と、水産焼津の発展の基礎を築いた三氏の顕彰碑

 

焼津といえば、やはりマグロやカツオの水産業が頭に浮かびます。焼津神社に隣接した『元焼津公園』ということで、水産焼津の発展の基礎を築いた三氏の偉業を讃えて建てられた立派な『水産翁碑』が並んでいます。

 

山口平右衛門、片山七兵衛、服部安次郎の水産翁3氏は、明治時代からの近代漁業黎明期に漁港建設の基盤となった防波堤の建設、遠洋漁業の推進、生産組合の組織化などに尽力、漁業を通して水産の街焼津のお発展に大きく貢献した功績により3人の顕彰碑が建立されたそうです。

 

手水舎

 

神社の本殿北側・南側の2ヶ所にある自動で水が出る『手水舎』

 

公園という意味合いもあるのでしょうか?センサーで水が出る手水舎に初めて出会いました。「時代は確実に変わった」とアラ還が感じる大きなポイントです。

 

本殿

 

拝殿の奥にあるのが『本殿』を左右から見た感じです

 

現在の本殿は1603年(慶長8年)、約400年前に徳川家康によって建てられたものだそうです。

 

本殿は「流造(ながれづくり)」という建築様式で、全国の神社で最も多い様式です。屋根の作りは左右を切り落とした切妻(きりづま)の形になっており鰹木(かつおぎ)と呼ばれる丸太のような装飾や、千木(ちぎ)と呼ばれる角のような装飾があります。
鰹木は元々屋根を安定させるための重しだったものが、時代とともに装飾として扱われるようになりました。

また、千木の先端が水平に切ってあるものを「内削ぎ(うちそぎ)」、垂直に切ってあるものを「外削ぎ(そとそぎ)」といいます。(歴史 | 焼津神社

 

幣殿・拝殿

 

焼津神社『拝殿』※撮り忘れたので[写真AC]より

 

祭儀を行うための『幣殿』と、扁額のかかった『拝殿』

 

幣殿(へいでん)とは本殿と拝殿との間にあり祭儀を行うための建物、拝殿(はいでん)とは参拝者の方々がお参りをするための建物です。

現在の幣殿と拝殿は、昭和19年に建てられたものです。

戦争という過酷な状況下にも拘わらず、この拝殿幣殿建設事業を成し遂げた当時の焼津の人々の気概を伝える建物です。

当初、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)という桧の皮を用いて葺かれていましたが、昭和30年代には銅板に葺き替えられました。

平成22年に行われた1,600年記念事業により本殿・弊殿・拝殿の銅板の葺き替えが行われたため現在は赤い色をしていますが、月日が経つにつれて銅が錆びることで徐々に青く変化していきます。

昭和18年までは、幣殿は無く石垣の階段を上った所に砂利が敷き詰められていて、そこで神事が行われていました。

以前の拝殿は、江戸時代中期に建てられたもので、新たな拝殿を建てる際に移動して、今では御霊神社の拝殿になっています。

また、明治時代の社殿の絵には、本殿と拝殿の間に細い川が流れている様子が描かれています。(歴史 | 焼津神社

 

御神木

 

焼津神社の『御神木』

 

本殿のほかにもいくつかの境内社があります。

 

市杵島姫命社

 

海の神様をお祀りした『市杵島姫命社』

 

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)という海の神様がお祀りされています。

 

日本武尊が焼津に上陸した際に、持っていた火石と水石を祠に納め、海の神様である市杵島姫命をお祀りしたという言い伝えもあり、本殿よりも古い歴史があるという説もああるそうです。(歴史 | 焼津神社

 

五社神社

 

昔、焼津にあった森の祠でお祀りされた五社を合祀する『五社神社』

 

昔、焼津にあった森の祠にそれぞれにお祀りされていた神様、四柱(天神社、天白社、藤之宮神社、王子神社)が合祀されています。また、それと併せて市神社の神様もお祀りされており、8月1日のお祭りの際には特殊神事が執り行われています。

 

七社神社

 

七社神社は浅間神社、竈神社、天王神社、八幡社、橘姫社、春日社、稲荷社が合殿されています。


このうち橘姫社には日本武尊の妃、弟橘姫がお祀りされており、市杵島姫命社と共に多くの女性がお参りをされます。
また竈神社では、毎年暮れの12月17日に防火安全を祈る竈神社祭が執り行われています。

 

焼津天満宮

 

学問・書道の神様である菅原道真公をお祀りする『焼津天満宮』

 

牛さんがいれば、そこは天満宮。こちらの『焼津天満宮』も、学問・書道の神様である菅原道真公をお祀りしています。この辺りも春には梅が咲き誇るそうです。

 

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 という、有名な短歌があります。これは、妬みから九州に左遷されてしまった菅原道真が京都の梅に向けて詠んだ歌で、「春の風が吹くころには、自分がいなくても忘れずに花を咲かせ、香りを届けて欲しい。」という意味が込められています。(歴史 | 焼津神社

 

御霊神社(みたまじんじゃ)

 

御霊神社

 

御霊神社は西南、日清、日露の戦役をはじめ大東亜戦争まで、各戦役において戦死した焼津出身の2,600余柱の英霊をお祀りしている社です。


現在の御霊神社の拝殿は、もとは本社の拝殿で江戸時代中期に建てられたものです。昭和18年、本社の拝殿を建て替えるにあたり、移築され御霊神社の拝殿となりました。

 

郷魂祠(きょうこんし)

 

「皇道産業焼津践団」の殉難者300余柱の御霊をお祀りする『郷魂祠』

 

郷魂祠は、大東亜戦争の最中、海外(ボルネオ・フィリピン)に第二の生産地を求め、焼津の分郷を築こうと立ち上がった「皇道産業焼津践団」の殉難者300余柱の御霊をお祀りしています。

 

神武天皇像

 

神武天皇像

 

神武天皇は古事記や日本書紀の日本神話の中での初代天皇です。元々は、現在の焼津駅東出口から徒歩約18分の神武通り商店街の中に、大正天皇即位の御大礼と、周辺の工事の竣工記念と合わせて建てられたものだそうです。

 

「神武通り」の由来は、この像がその場所に建てられたことから名付けられたそうです。人々の手により供出を免れた像は、戦後になってから焼津神社に移されました。(歴史 | 焼津神社

 

日本武尊像

 

焼津神社の主祭神『ヤマトタケルノミコト像』

 

焼津神社の南端にある『鳥居』

 

南側の鳥居をくぐり境内から外へ出ると、西側には焼津体育館があります。ここで何よりも目立つ『相撲場』があります。焼津神社の境内に隣接し参拝客が休憩できる元焼津公園内の相撲場ということのようです。

 

焼津市相撲場

 

今回はどなたかが練習している姿を見ることはできなくて残念でしたが、焼津から西前頭6枚目の翠富士(みどりふじ)、東幕下14枚目の聖富士(さとるふじ)という力士が生まれているそうです。もしかしたら?ここでお相撲をとっていたかも⁉

 

相撲は見ないので詳しくはないのですが、知ることができたので今後は応援したいと思います。

 

八丁櫓(はっちょうろ)

 

焼津市の大覚寺全珠院の境内に展示されている『八丁櫓』

 

焼津といえば『八丁櫓』。『八丁櫓』とは、明治時代頃まで活躍したとされる焼津の伝統和船です。船をこぐ櫓(ろ)と呼ばれるオールが8本ある船で、走力があり小回りも利くのでカツオ漁船に活用され、焼津の遠洋漁業の礎を築いたとされています。

 

徳川家康は健康オタクとして知られ、鷹狩をスポーツ感覚で楽しめる行事として好み、焼津神社の近くの田中城(藤枝市田中)を出て、焼津の浜から出港し、久能山で鷹狩を楽しんだといわれます。

 

江戸時代、徳川家康が焼津から久能へ航海を急ぎ、海上護衛に際して船に速度が必要なことから、通常は軍用に使用される恐れがあることから最大七丁と定められていた櫓を八丁で漕ぐよう指示し、これを機に焼津の船だけ特別の許可を与え『八丁櫓』が許されました。

 

NPO法人焼津八丁櫓まちづくりの会が、1997年に復元した八丁櫓を2019年3月に寄贈し、焼津市の大覚寺全珠院の境内に展示されています。全長13メートル、重量4.7トンあり、船に乗ることができます。(八丁櫓|ふるさと散歩道|JAおおいがわ/大井川農業協同組合

 

家康は神社に対し社領を寄進し、以後歴代の将軍からこの社領を保証する朱印状が発せられているそうですから、焼津神社と徳川家の関わりはかなり深かったのでしょう。

 

最後に

 

今回は先日、しかも平日に訪ねた『焼津神社』の話題でした。『駿河国風土記』によれば西暦409年の創建といわれ、1600年以上の歴史を持つ古社です。何よりも主祭神が日本武尊で、『草薙剣』の伝説から「焼津」の地名が生まれた地だということもずいぶん長い間忘れていました。

 

住まいのある遠州では坂上田村麻呂の東征はよく聞きますし、ゆかりの神社も多いです。駿府も同じ静岡ですもの、富士王朝の名残の神社などもこれからお参りしたいものです。

 

家康公が本殿を1603年(慶長8年)造営したと伝えられ、『徳川家康ゆかりの神社』ということで、大河ドラマで放送中からぜひ出かけたいと思っていた神社でした。ずっと古社というイメージを持っていたのですが、近代的な手水舎や広い境内に面喰っちゃいました。

 

神社といえば、最近はいろいろと話題になっています。やはり感謝の気持ちをもって日本人らしくお参りしたいと思っています。すべての人々が感謝の気持ちをもって訪れてくれるといいなと感じます。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。