sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

細江神社のお隣にある『姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館』無料なのに見る価値満載!

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

先日地震・災難消除のありがたい神様として信仰の深い『細江神社』でお参りしたあとに見つけたのが、細江神社のお隣にある『姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館』です。

 

銅鐸(どうたく)や、歴史の道「姫街道」(本坂道/ほんざかみち)の関所がおかれた旧細江町付近の歴史や現在を紹介している資料館です。

 

以前は有料だったかも?ですが、現在は無料だというのに床はぴかぴかですし、細江神社の由来でもある藺草(いぐさ)のことや当時の暮らしなど、さらに銅鐸のことも詳しく知ることができます。本当に無料なのが申し訳ないくらい充実した展示物が並んでいます。

 

大河ドラマ『どうする家康』の影響で戦国時代のみにはまっていた私ですが、最近はタモリさんの影響でしょうか、コンビニよりも多いという遺跡や古代史に興味津々なのです。

 

浜名湖周辺で、約26個の銅鐸が出土しているということをこちらで初めて知り感動しています。こちらには数百年前の本物の銅鐸数点が展示され、さらに屋外には移築された「産屋」があります。

 

そして、うれしかったのはどこから来たのかもわからないアラカンおばさんの2人がこちらの資料館を出ようとすると、施設の方が親切にも「姫街道の御油から見付まで」という”姫街道の由来”と”歴史を刻む風景を訪ねて”という姫街道ルートと、周辺各所の説明が載ったコピーをくださったのです。本当にありがたい(泣)です。

 

遠江の気賀関所や犬くぐり道、浜松市地域遺産センター、井伊谷城などを訪ねるなら、『姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館』もかなりおすすめです。

 

姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館「藺草」の展示(写真AC)

 

 

姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館

 

 

場所:静岡県浜松市浜名区細江町気賀1015番地の1

 

《アクセス》

 

電車・バス:天竜浜名湖線[気賀駅]下車、徒歩約7分。または、浜松駅からバス「気賀・三ヶ日」行き乗車、[国民宿舎入口」下車、徒歩約2分

車:東名高速道路[浜松西IC]から約16分
  東名高速道路[三ヶ日IC]から約15分
駐車場:無料です

トイレ:あります

入場料:無料

開館時間:午前9:00~午後5:00まで

休館日:月曜日(休日にあたるときはその翌日)
    休日の翌日
    12/29~翌年1/3
    臨時休館日あります(お問い合わせください)

 

主な展示品

 

『姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館』(写真ACより)

 

・銅鐸 弥生時代の三遠式銅鐸、近畿式銅鐸

 

銅鐸 弥生時代の三遠式銅鐸、近畿式銅鐸(ウイキペディアより)

 

浜名湖周辺では、約26個の銅鐸が出土されています。そのうち浜松市では24個の銅鐸が出土したといるそうです。

 

銅鐸とは、銅と錫の合金(ブロンズ)でできた、弥生時代のベルだそうです。稲作に代表される農耕社会である弥生時代、豊作を祈るために使われた祭器だろうと考えられています。

 

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・姫街道の往来と緒道具(江戸時代)

 

磐田市見付の「姫街道」入口と、「池田近道」の道標

 

・藺草(いぐさ)生産にかかわる道具(江戸時代)

 

展示されている藺草生産にかかわる道具と、藺草神社(ウイキペディア)

 

1498年の明応地震、1707年の宝永地震による津波がこの地区にも甚大な被害を及ぼし、塩害で稲が育たないという状況になり、そこで代わりに塩害に強い藺草(いぐさ)が植えられました。

 

やがて、この藺草が畳表の産地として「大谷表」や「浜名表」として有名になり、この地域の暮らしを豊かにしてくれました。

 

そこで、忘れてはいけないのが当時気賀の領主旗本だった近藤用随(こんどうもちゆき)。用随は琉球藺を1707年(宝永4年)の大地震をきっかけとする浜名湖岸の水田の塩害対策として、領民に栽培を推奨したお方と伝えられているのです。

 

その後、中川、都田、井伊谷にも普及し「遠州表」の名で各地に出荷され人気になり、昭和20年頃まで気賀の特産として多くの農家で栽培され畳表が織られていました。この近藤氏の名君ぶりを讃えた神社が『細江神社』の境内にある『藺草神社』です。

 

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・江戸時代の産屋が移築保存

 

屋外に展示されている江戸時代の『産屋』

 

静岡県指定有形民俗文化貝

旧山瀬家のコヤ(産屋)

昭和五十九年十一月三十日指定

昔はお産中の女の人は、産の忌の一定期間、家族と離れ産屋で生活をしました。 別火といって、煮炊きに使う火も家族とは別にしました。昔の人々は、お産を血のけがれと考えたためですが、本来は、お産は神から子供を授かる神聖なできごとなので忌に服したのであろうといわれています。細江では、明治の初め頃までこのような風習が行われていたといわれ ています。この産屋は、石岡の山瀬勝さん宅にあったものです。明治の初めまで使用されたことがわかっていて、江戸時代末に建てられたものと推定されています。昭和六十年春、ここに移築しました。
 (間口、三・六奥行、三高さ、四・六)

浜松市教育委員会

(案内板より)

 

案内板に書かれているように、昔はお産中の女の人は、産の忌の一定期間、家族と離れこのような『産屋』で生活をしたということを初めて知りました。 しかも、『別火』とかいって、煮炊きに使う火も家族とは別にするとは・・・。大事にされているような、逆に差別されているような不思議な感想を持ちます。

 

・浜名湖でのボラの囲目網漁(かくめあみりょう)に使う道具類

 

展示中の『ボラの囲目網漁(かくめあみりょう)に使う道具類』(ウイキペディア)

 

江戸時代から昭和30年ごろまで行われていたという『ボラの囲目網漁』。パンフレットによると、引佐細江で大網舟2艘と簀子(すのこ)船2艘を1組として2~3組で1隊をなして漁をするという、かなり大掛かりなものだったみたいで、浜名湖の秋をいろどる勇壮なな漁だったそうです。

 

昭和40年代に遠州灘でもボラが獲れて、親戚のおじちゃんからいただいたボラを食べた記憶がありますが、浜名湖で大々的にボラ漁をしていたとは!しかも大々的!

 

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姫街道(ひめかいどう)

 

新居関所の厳しい「女改(おんなあらため)」をきらい、公家や武家の奥方、姫君が通行したため「姫街道」とよばれるようになったと言われます。

 

姫街道は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道のことで、道程約60キロメートルです。

※本坂峠とは現在の三ヶ日町本坂と愛知県豊橋市嵩山 (すせ ) 町との境界にある峠です。

 

姫街道は、[見付宿](みつけしゅく/静岡県磐田市)から天竜川を渡り、三方原を横断し[気賀宿]、[三ケ日宿]を通り、[本坂峠]を越え、[嵩山宿(すせしゅく)][和田][当古」を通り、[御油宿](ごゆしゅく/愛知県豊川市)に至ります。

 

江戸時代の公文書には姫街道の呼称はなく、江戸時代末期の民間文書でようやく「姫街道」の呼称が登場し、それ以降姫街道の呼称が定着したと考えられています。

 

幕末の旅日記には、本坂道を「女人道」とか「御姫様街道」と呼ぶものも見られ、これが「姫街道」の起こりとも言われます。※現在知られる最も古い「姫街道」の文字は、五雲亭貞秀「東海道五十三次勝景」1860年)万延元年の「浜松順路並姫街道気賀遠望」と言われています。


姫街道の歴史

 

遠江(現在の静岡県西部)から三河(現在の愛知県東部)にかけて、本坂峠を越えて浜名湖の北側、三ヶ日を通る経路は、文字を使用する前の時代から存在し、周辺には縄文・弥生時代の史跡も数多くあります。


古くは天竜川の下流は磐田の海と呼ばれる湖で、東側に大乃浦という湖もあったため、この道は東海道の本道として利用され、二見の道(ふたみのみち)と呼ばれていました。

 

磐田海や大乃浦の水が引いた後、東海道が浜名湖南岸を通るようになり往来が盛んになると、二見の道を長距離の移動に利用する者が減りさびれていき、裏街道(脇街道)としての役割を担うようになります。

 

この頃の宿駅には「板築(ほんづき)駅(現在の浜松市浜名区三ヶ日町本坂ないし日比沢周辺)」や「猪鼻(いのはな)駅(猪鼻湖の瀬戸または新居)」があったそうです。

 

近世になって、16世紀初めに浜名湖南岸に今切口ができ、渡船が必要になったことで本坂峠の往来が再び盛んになってきます。

 

戦国時代には徳川家康の堀川城攻めや、家康の最大の負け戦といわれる『三方ヶ原の戦い』などの際に遠州に攻めこんできた武田信玄の軍勢や徳川軍はこの街道を行き交い、交通の要所として関所が設けられます。

 

天正年間には「鬼作左(おにさくざ)」や「一筆啓上」で知られる本多重次(通称)作左衛門によって新宿が設けられ、街道として整備されます。

 

1601年(慶長6年)に江戸幕府によって宿駅の制が敷かれ、同じころ、気賀関所が置かれました。本坂峠の道は東海道の脇街道、本坂峠を経由したことから別名東海道本坂越(ほんざかごえ)、本坂通(ほんざかどおし/ほんざかどおり)、本坂道(ほんざかみち)、本坂街道(ほんざかかいどう)などと呼ばれ重要な街道でした。

 

その後、この脇街道が江戸幕府御用道として注目されるようになったのは、1707年(宝永4年)10月4日の宝永地震による津波や、1854年の安政の大地震などが発端です。

 

浜名湖口から新居宿一体(浜名湖南岸)が大打撃を受け、東海道の通行が困難になったことで、迂回路として本坂峠の往来が再び盛んに利用されるようになったのです。

 

東海道が通行可能になっても、増加したこの街道の通行量は減らず、街道の使役に駆り出される付近の農民は、災害の復旧や農業もできず迷惑していたといいます。

 

地震で被害を受けた東海道、そして通行量が増えた姫街道と両街道住民の不満を受け、幕府は1717年(享保2年)10月に、特別な事以外では大名や旗本がこの街道を通ることを禁じました。それ以降、この街道は時折菅家・公家・大名の奥方の大きな行列が通るだけの静かな往来になったそうです。

 

1764年(明和元年)、幕府は本坂道を道中奉行の管轄とし、東海道の一部として一定の通行量に耐えられるよう整備し、浜松宿から、気賀、三ヶ日および嵩山を経て御油宿に至る間の各宿を指定しました。

 

江戸時代初期の本坂道は、東海道の安間の一里塚から市野宿を経て気賀に至る経路をとっていましたが、笠井や浜松宿の繁栄に比べて通行料は減少し衰退していきます。

 

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お蔭参りと本坂通

 

1730年(享保15年)にお蔭参り(江戸時代に起きた伊勢神宮への集団参詣)が流行したときには、都田村で女中たちの抜け参りが多かったため、気賀関所の命令を受け、見張人を街道に沿う村に毎日出したのですが、それでも抜け参りは絶えなかったといいます。

 

1764年(明和元年)、道中奉行支配の官道となった本坂通は、人馬や物資の往来でにぎわったといいます。

 

1830年(文政13年)に浜名湖北岸の気賀・三ヶ日方面からお蔭参りが流行し、浜松方面にも波及したとか。その際には将軍・徳川家定の正室となった篤姫が本坂通を通行しました。

 

関所と宿駅制度の廃止

 

1869年(明治2年)に、明治維新政府の関所廃止令によって諸国の関所は全廃され、気賀関所も閉所しました。さらに1872年(明治5年)1月には、東海道の宿駅伝馬所が廃止されます。

山中を通っていた旧姫街道は、明治・大正時代の県道などの整備に伴い通行量が減り、さびれていきます。明治以降に新姫街道が出来て、静岡県・愛知県境にある本坂峠の旧道の下をトンネルで通過するようになり、峠越えの道は廃道となっています。

参考元:姫街道 - Wikipedia

 

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最後に

 

今回は静岡県浜松市浜名区細江町気賀にある『細江神社』、『藺草神社』をお参りしたたあと、もしくはその前に見学すると、よりいっそう姫街道や気賀のこと、藺草のこと銅鐸のことなど、浜名湖周辺の地域遺産なども理解できる『姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館』を記事にしてみました。

 

実はあまり期待せずにちらっと寄ってみたという感じでしたが、何より展示物以前に施設全体がすごくきれいで、床もピカピカに磨かれていることに感動したんです。民族的な資料を見るのは大好きで、古い時代の農機具、漁業の道具は大好物なんです。

 

銅鐸がブロンズでできた「弥生時代のベル」だったとは、びっくりです。埴輪などと似たようなものだと思っていましたが、農耕社会だった弥生時代に豊作を祈るため御祭りで振り回して鳴らしていたベルってことですよね。

 

天照大神が天の岩戸に隠れてしまったときに、救出するため上半身裸で踊りまくって八百万の神々を沸かせて「何やら楽し気な?」と思わせた天宇受売命(アメノウズメ)もきっと使った祭器ではなかろうか?などと妄想してしまいました。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。