sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

やっと行けた幕末の下屋敷の山門がみられる『白雲山長泉寺』と歩いてすぐの『須佐之男神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回は、幕末最後の浜松城主・井上河内守正直の下屋敷の門が静岡県浜松市浜名区の貴布祢(きぶね)にあると聞き、ぷらぷらと貴布祢周辺を歩いて自然を満喫してきました。

 

まずは、室町時代に真言宗の寺院として創建され、後に臨済宗方向寺派へと改宗した御本尊は釈迦如来という寺院『白雲山長泉寺』、こちらの山門が幕末最後の浜松城主の下屋敷の山門だそうです。

 

そして、最近いにしえの神々に興味津々なため、ぜひお参りしてみたいと思っていた『須佐之男(スサノオ)神社』、もちろん御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)です。

 

では、まず『白雲山長泉寺』、続いて『須佐之男神社』をリポートしていきましょう。

 

臨済宗方向寺派『白雲山長泉寺』

 

 

白雲山長泉寺

 

 

場所:静岡県浜松市浜名区貴布祢984

 

《アクセス》

 

電車・バス:遠鉄電車[美薗中央公園駅]から徒歩約8分

車:東名高速道路[浜松IC]より約15分、[浜松西IC]から約22分

駐車場:あります

御朱印:いただけません

 

白雲山長泉寺『本堂』と、立派な『鐘楼』

 

室町時代に真言宗の寺院として創建され、後に臨済宗方向寺派へと改宗した寺院で、御本尊は釈迦如来です。白壁が印象的な武家屋敷風の山門は、江戸時代に浜松藩の下屋敷にあった長屋門を、昭和3年3月にこちらの長泉寺に寄付移転されたものです。

 

移転されたこのもとの下屋敷は、幕末最後の浜松城主だった井上河内守正直のもので、最初に貸し出されていたという料亭聴涛館(ちょうとうかん)とは、現在の「グランドホテル浜松」の前身で、現在グランドホテル別館で営業されているようです。ですが、昼会席で6,600円〜とあるので、年金生活の私にはちょっと敷居が高い感じです。

 

山門

 

白い壁と黒木の塀がなんとなく武家っぽい感じの『山門』

 

山門の由来の案内板

 

山門の由来

 

この門は幕末最後の浜松城主たる井上河内守正直の下屋敷の門であり当時浜松駅近くの現千歳町モール街東側にあった。
明治になって平野又十郎家と気賀敬太郎家家(掛塚町林文吉実弟にして気賀の気賀半十郎新家)の共有となり、その后又十郎は平野財団が受け継ぎ、地所屋敷共に料亭聴涛館(現明石家)に貸与していたが大正12年、敬太郎分を実兄平野又十郎が代表者である平野社団が敬太郎養子勘重より買い取り、その后料亭移転の後は同所は空地となり、門のみそのままであった。
昭和3年3月、又十郎が逝去し三回忌を機に長男繁太郎が菩提寺である北浜村貴布祢在の白雲山長泉寺に寄贈したものである。
往時の名残に屋根瓦に井の紋様が見られる。
(平野社団の記録に依る)白雲山長泉寺

(長泉寺案内板より)

 

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十王堂

 

白雲山長泉寺『十王堂』と、十王の案内板

 

十王の由来

 

十王さまは、人々があの世に赴く時に、その道におられて、初七日から百ヶ日、一周忌、三周忌の際凡夫のつくった罪の重い軽いや、追善供養の功徳考えて、未来に生まれていくところを定められる受持の菩薩さまです。
残された者たちが追善供養を忘れなければ、亡き人も善所に生まれ変わり自分自身も、諸仏のご加護を受けることができます。残った者たちが追善どころか、跡目相続や財産分与で争いに憎しみ合っていると、亡くなった人はいつまでも苦しみから救われることはありません。

 

初七日 秦広王死出の山(しんこうおうしでのやま)  不動明王

二七日 初広王三途の川(しょこうおうさんずのかわ) 釈迦如来

三七日 衆帝王業関(しゅうたいおうごうかん)    文殊菩薩

四七日 五官王業江(ごかんおうごうこう)      普賢菩薩

五七日 閻魔王浄は梨の鏡(えんまおうじょうはり)  地蔵菩薩

六七日 変城王鉄丸所(へんじょうおうてつがんしょ) 弥勒菩薩

七七日 泰山王闇鉄所(たいやまおうあんてつしょ)  薬師如来

百ヶ日 平等王氷山(びょうとうおうてつひょうせん) 観音菩薩

一周忌 都弔王光明箱(とちょうおうこうみょうはこ) 勢至菩薩

三周忌 五道輪転王六道の辻(ごどうりんてんおうろくどう)釈迦如来

(長泉寺案内板より)

 

ほんのちょっと歩けば、1分もないところに『須佐之男神社』があります。

 

須佐之男神社

 

こじんんまりとした須佐之男神社『本堂』と、『手水鉢』

 

場所:静岡県浜松市浜名区貴布祢2330

 

《アクセス》

 

電車・バス:遠鉄電車[美薗駐中央公園駅]から約9分
      長泉寺から徒歩約1分

車:東名高速道路[浜松IC]より約15分、[浜松西IC]から約22分

駐車場:ありません※道路沿いの小さな神社のため車は置けません

 

道路わきにあるので目立つ『鳥居』と、『扁額』

 

徳川時代の末頃より元平野社団の西付近に天王山という地名があり、そこには須佐之男命を祀ったという伝説があります。ですが、市史としては詳らかではないようです。

 

大正年間の初め貴布祢部落に疫病が流行し、たくさんの子供が亡くなってしまったそうです。これを機に住民の浄財を集め、1918年(大正7年)7月に貴布祢92番地に小さいながらも祠をつくり、素戔嗚を祀るようになったとのこと。2017年(平成29年)7月、無病息災を祈願して茅の輪くぐりを始めたそうです。

 

須佐之男命って?

 

須佐之男命は黄泉の国の穢れを落とすための禊を行ったイザナギの鼻から生まれた三貴子の一神で、アマテラス、ツキヨミと共に生まれました。イザナギはそれぞれに世界の統治を指示します。

 

海原の統治を任されたスサノオでしたが、その責務を放棄し、母神のイザナミが恋しいと泣き叫び続けます。その激しさは地上の樹木を枯らし、海を干上がらせ、世界に悪神をはびこらせ災いを招くほどでした。これに怒った父神イザナギは高天原を去るよう命じます。

 

というように、神話の中でのスサノオは暴れん坊の神です。しかし、ある時は英雄でもあります。というのも、後にアマテラスにも高天原を追放されたスサノオは出雲に降り斐伊川の上流に向うと、泣いている娘と老夫婦を助けるために、八岐大蛇(ヤワタノオロチ)をやっつけてしまうのです。

 

まだまだ、エピソードはありますが、今回はこのへんで。須佐之男命はとにかく変化にとんだなぞの多い神様ではありますが、防災防疫の神、木の神などの神格を持ち、日本で初めて和歌を詠んだことから歌人の神ともされます。

 

ですから、この貴布祢部落に疫病が流行し、たくさんの子供が亡くなってしまったときに、心から助けを求めてこの『須佐之男神社』を住民の浄財で祀ったのではないでしょうか。

 

秋葉常夜灯

 

遠州といえばあちこっちに『秋葉常夜灯』があり、ここにも登場!

 

遠州ではあっちこっちでみられる『秋葉常夜灯』です。簡単に説明すると江戸中期より広がった火防(ひぶせ)の神、秋葉山参りは、『秋葉信仰』として盛んにおこなわれました。特に遠州地方は盛んで、その象徴的なものとして『秋葉常夜灯、籠灯』といわれています。つまりは秋葉灯を保護する鞘堂のことです。

 

静岡県西部には150基以上が分布、さらに湖西市内に14基以上、袋井市内には50基が現存しているそうです。

 

常夜灯の本来の目的は暗い夜道を照らすということです。『秋葉常夜灯』に関して言えば、秋葉詣でのために秋葉山へ参詣するための街道沿いにあるものだけでなく、人々が火防の神への信仰や地域内の安全を願って建てられたものもあります。

 

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最後に

 

今回は幕末の下屋敷の山門がみられる『白雲山長泉寺』と、『須佐之男神社』を記事にしていますが、実はこの日は、遠鉄電車[浜北駅]周辺をぐるぐる歩き回っていたのです。

 

この浜北地区では約1万8千年前、約1万4千年前の化石人骨が出土しています。しかも、これらは本州最古の人骨化石であることが確認されています。大きな石や樹木などを神として崇めるなどの自然信仰の時代から人が住んでいた場所なんです。

 

今回浜北駅周辺をぷらぷら歩いて感じたのは、日々の何気ない生活の中にも神社や寺院がしっかりと根付いているんだなということ。あっちこっちに小さな祠があったり、朝早くから前掛け(エプロン)姿の女性が、本殿の前で祈っていたりします。

 

そして、お寺さんをお参りしている最中にも、本殿方面からテレビを楽しんでいる多分ご住職の家族の笑い声が聞こえてきます。生活の中に信仰があふれている感じです。そんな浜北地区をもっと広く知りたくなりました。今度はもっと山の中へ入って神社や寺院をまわってみたいと考えています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。